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第3版  作者: 八雲 辰毘古
第一部
6/19

五.竜退治の乙女(下)

 背後で呼ぶ声がして、シュヴィリエールは回想を止めた。

 振り向くと、そこにはフェール辺境伯オイリゲンが、数名の部下とともに騎馬で迎えに来ていたのだった。


「朝からお姿が見えぬと思えば、こんなところまでお出でになっていたとは……いやはや、怖いもの知らずですな。われわれが派遣した調査部隊がありながら、じかに魔物の神秘を明かしてやろうとお考えか。

 その勇敢さには感服いたしますが、もうしばらくしたら奴の『見回り』の時間に(はち)()わせてしまいますぞ。どうか我らが城館までお戻りくださいませ」


 口ひげを持ち上げるように微笑んだその顔は、かの〈竜〉にもっとも近い所領を持つものとは思えない余裕が漂っていた。

 シュヴィリエールは苦笑した。脱力したようなため息が、白くなってこぼれ出る。


「ずいぶんな態度だな、フェール辺境伯。私の気性を知った上でその物言いとは、恐れを知らぬはそなたのほうだな」

「滅相もありません。此度(こたび)の竜討伐任務において、総指揮官たるシュヴィリエール殿に何かあっては()()です。これは公領主同盟の末席を連ねるものとしての義務なのですよ」

「たわ言を。公領主同盟など単なる烏合(うごう)の集にすぎん。じっさいに権力を束ねているのはその中のほんのひと握り──選王侯に取り入っている輩ばかりだ」


 あいにく私はそこに名を連ねていないものでな、とシュヴィリエールは自嘲(じちょう)しながら言う。


「伯ももうすこし付き合う相手を選ぶべきだ、それこそ賢きものの務めだぞ」


 フェール辺境伯は、しかしそんな少女の脅しには屈しない。目元のシワを刻みながら、微笑みを深めた。


「そうは言いますが、お父君によって〈方角獣(ほうかくじゅう)〉イシドルスから所領を守っていただいた恩は忘れられないものでしてな……たとえそれが零落(れいらく)したとはいえ、その恩義の記憶は変わらないのですよ。

 またそもそもの問題は全て私の統治にあります。あなたもご存知でしょう。〈白紙(タブラ・ラサ)の誓約〉のもとに、領国守護者および配下の公領主は、その名と全身全霊を以て〈業魔(ごうま)〉の蔓延(まんえん)を防ぐよう、統治に努めなければならない、とね」


 シュヴィリエールは頷いた。そうだ。だからこそ竜討伐任務に辺境伯自身が参加することになっているのだ。この場の立ち位置において彼女個人は、()くまで部外者に過ぎない。

 フェール辺境伯はおもむろに首を振る。


「──しかし、いまは政治的な議論よりも、目の前のことを見ましょう。時間が惜しくあります。どうか、帰城をば」

「さもあらん。私もこんなところで死んでは永遠に家の汚名を晴らせないままだからな」


 彼女はエレヴァンに言いつけて、馬を引いて来させた。それからフェール辺境伯らと馬を並べると、むだのない颯爽(さっそう)とした駒さばきで、メリッサの廃墟を飛び出した。

 あとからフェール辺境伯、エレヴァンその他、数騎が続く。


 すでにひと気がなくなって久しい帰路だった。以前は踏み固められていた道筋も、手入れがなくなり、タケダカソウが放題に伸びている。その茂みをうまく避け、シュヴィリエールは先頭を駆け続けていた。

 まだ肌寒い季節である。東部辺境特有の、初春の乾いた空気がからだじゅうを()でている。決して装備を(おこた)ったつもりではないが、それでも革の具足のすき間から、冷たい風が通り過ぎた。


 だが半刻ほど経ったとき、悪寒(おかん)に似た緊張が、全身にほとばしった。

 来るべきものが来たのだ、と彼女は直感すると、あえて道を逸れて、小高い丘を登って行った。途中でフェール辺境伯の声が聞こえたが、彼女は意に介さない。勢い良く坂道を駆け上がった。


 丘の頂上付近で馬を止め、背後を見る。

 そこには〈風の平原〉と呼ばれる緑の原野が広がっていた。この時期は、冬を越したばかりのタケダカソウが、背を伸ばして青々と生い茂る。その葉叢(はむら)に雲海山脈から下りる風が駆け込み、さながら海辺のように波打つのだった。

 一説によると、聖女アストラフィーネが〈無垢(むく)の石板〉を受け取ったとき見下ろしていたのが、この平原だったと言われている。


 しかし、彼女の視線は平原よりも上、灰色に(よど)んだ雲の中から現れた、巨大な影に向いていた。それは村が(かす)んで見えるほどの距離においても、はっきりと視認できるほどの大きさだった。


(あれが……竜)


 メリッサの廃墟は遠い。おまけにここは調べが付いている限り、竜の縄張りでもなかった。だから、仮に気づかれたとしても、襲ってはこないはずだった。

 それでも、戦慄(せんりつ)せずにはいられない。あれほどの巨体で、空を飛び、あまつさえ自在に火を()くとされる伝説上の魔物──竜を、なんとしてでも討たねばならないという、その任務が重荷で仕方がなかった。


(あんな怪物……いったいどうすれば倒せるというのだ)


 そう思わずにはいられない。


 こうして途方に暮れるシュヴィリエールの眼前に、フェール辺境伯以下数名が追いついた。先ほどまで余裕を見せていたこの男ですら、いまは(ほお)強張(こわば)りを隠せないでいるようだった。

 竜のいるほうを見やりつつ、シュヴィリエールに近寄ろうとする。


 しかし、その肩をエレヴァンが止めた。どんな時でも無表情を貫くこの男は、いまの状況下であっても変わらずにいた。

 フェール辺境伯が振り向くのと同時に、エレヴァンはひざまずいた。


「ご無礼を承知の上で申し上げます。姫殿下を、そのままにお願い致します」

「なぜだ」


 相手の眉根が寄るが、エレヴァンは構わなかった。


「どうか、そのままに」


 フェール辺境伯は黙ったまま、エレヴァンとシュヴィリエールの両者を、交互に見比べていた。その間に、じっとりとした汗がひたいから流れ落ちる。だが、両者のあいだにも、彼方の竜にも動きはなく、ただ時間が過ぎるに任せていた。

 やがて、メリッサのある方角から、影が飛び去った。竜はこちらの人影を気にすることなく、『見回り』を終えたのだった。


 ほっと一息を吐くフェール辺境伯一同。


 しかしシュヴィリエールだけは、緊張に面持ちを憮然(ぶぜん)とさせたままだった。

 エレヴァンは立ち上がった。そして自分の肩ほどの背丈の少女に対し、少し距離を置いて近づいた。


「……どう思う、エレヴァン」

「力の差は歴然としています。狼のように単純には行かないでしょう」

「だろうな。 この試練(クエスト)、やはりただごとでは済まぬぞ。もっとも最初から容易だと思っていたわけではないが」


 その翡翠のひとみの向こうでは、暗雲垂れ込める中へと()つ、巨大な影がある。その全貌を正確に測ったわけではないが、記憶堂の廃墟と同じぐらいの大きさだ。直立したら、軽く十五ヤール(約十二メートル)はあるに違いなかった。


(実物を見ないことには作戦も指揮もどうにもならないと思ったが……はてさて、これは本格的に調査が済むまで、へたな手は打てないぞ)


 二週間ほど先行して聖殿騎士団が出動しているとは聞いてるが、まだ接敵したという話はない。だとすると、彼らもまた同じ課題を抱えているのだろうか。それとも、全く別の目的を持って動いているのかもしれない。

 どちらにせよ、あまり頼りにはできなさそうだった。


(ただでさえ倒すのが難しい〈竜〉に、教導会率いる聖殿騎士団、加えて〈星室庁〉に、公領主同盟……やれやれ、運命の糸はかなり複雑にからんでしまっているな)


 シュヴィリエールはこう思い、かぶりを振った。そして気持ちを切り替えるつもりで、フェール辺境伯らに呼びかけた。


「館に戻ろう。残念だが、伯の言う通り、現状私にできることはなさそうだ。素直に調査部隊の帰りを待つことにする」


 フェール辺境伯の顔には安堵(あんど)の表情が浮かんだ。しかし、シュヴィリエールの心は、竜の生み出した黒雲のように暗く重苦しいままであった。

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