四.竜退治の乙女(上)
「正確な情報を得るまでにひと月。
足並みを揃えるまでにもうひと月。
そして再三の無計画に踊らされ、被害をいっそう拡大させていたのがこのひと月──合わせて三つの月がこの〈叙事詩圏〉を循環していたわけだ。
全くもって出遅れている。じつに愚かな国家の手本を見せてもらっているような心地がするな、エレヴァン」
エレヴァン、と呼ばれた青年騎士は、少女の一喝に対して、ただひざまずいて黙っているよりほかなかった。
彼女の怒りは正しい。伝説に名高い〈竜〉の存在が聖女王国の東部辺境を蹂躙したと知らされたとき、賢人会議と公領主同盟、そして各地の騎士団は、素早く一致団結してことの始末にあたるべきだったのだ。
けれどもそうはならなかった。
だからこそ今がある。現状がある。
少女シュヴィリエールは──まだ叙勲して間もない十八の天才は、このどうにもならない人の世の理を飲み込めずにいるのだった。
彼女は編み込んだ黄金の綱のような長い髪をひらりと流して、荒廃したメリッサの村の残骸を見つめていた。
かつて村の中心だった記憶堂は、いまや原形を留めていない。積み木の城を手で払ったかのような凄惨な破壊だった。
石造建築である記憶堂ですら、そうだった。周囲の家々は、もう見る影すらない。炎で焼かれ、風雨にされされたために、灰と塵になり果てたのだった。
いま見えるのは、ただの更地──かつてそこに集落があったことはおろか、生きとし生けるものがいたとすら信じられない、寒々とした死の大地である。
(ここに来るまで、実に色々な話を聞いたが……じっさいに目の当たりにすると背筋が凍らずにはいられない)
ふと、遠く雲海山脈のほうを見やると、毒々しいほど黒ずんだ雲が、犬歯のように尖った峰を覆っていた。普段ならあんな色にはならない。竜の発する瘴気が、あの雲を変えてしまったのだ。
その暗雲は雷鳴を伴い、秋の終わりごろからずっと酸の雨を降らせてきた。ゆえにか、シュヴィリエールの傍らに転がる女神の彫刻や、むき出しになった記憶堂の祭壇が、溶けた鉄のような歪み方をしている。
(酷いな……さすがに叙事詩写本の中で、もっとも邪悪な生き物と言われただけのことはある……)
そこまで思い至って、彼女は身震いした。
(こんな生き物を倒すだと? 〈星室庁〉の連中め! この有り様を知った上で言っているなら、愚かしいにもほどがあるぞ!)
そしてシュヴィリエールは、ことの始まりにして、最大の難関である〈竜〉の事件について回想した。
†
聖女王国の暦にして一二〇九年のことである。秋の深くなる頃だった。
突如としてセラトの山腹から竜が出現し、ふもとのセージ僧院を襲撃したのである。中にいた導師や司祭、および騎士は、ことごとく殺されたという。
さらに同日中、竜は第二撃をその荘園たるメリッサの村に仕掛け、その記憶堂を破壊。村民および守護騎士は突然の事態に対処しきれず、竜の前に生死を弄ばれたとの報告もあった。
記録によれば、被害人口は五百にも及ぶと言われている。だがこれは土地台帳から算出された数値で、正確なものではない。
この事態が知らされたとき、賢人会議の座す〈聖櫃城〉アドラ・キャメロは恐怖のどん底に震えた。
無理からぬことだった。次は〈冠の都〉リア・ファルへと攻撃が行われる、と誰もが信じたのだ。
ところが竜は動かなかった。
かの竜は一帯を焦土にすると、セラトの山に帰還し、そのうちひとつの洞穴を寝ぐらとして居座り始めたのである。
事態の見極めに際して、アドラ・キャメロ城内は大いに揉めた。
都への侵攻がないと知れた途端、賢人会議の選王侯たちが手のひらを返したのだ。戦う必要はない。竜の気が済んだのであれば、これ以上刺激しないほうが良いだろう、と。
それどころか、世紀的な大災厄をもたらすことになったフェール辺境伯の統治に対しての問責すら話題に乗った。そのため現地勢力からの迎撃すらままならない状況となっていた。
むろん、配下の僧院を破壊された教導会の怒りは激しく、大司教らが各地の聖殿・僧院に使いを立てて徹底的な反撃を主張した。公領主同盟の中でも、セラト山に近いアンサグやルガと言った北方の領国守護者たちがその主張に便乗し、辺境警備の騎士団を招集していた。
しかし一方で、グラーフ公国を始め、選王侯に近しい立場の領国守護者たちは首をたてに振らず、事態は複雑に入り組んだ。というのも、結局のところ、セラト山は〈叙事詩圏〉の北東、さいはてに位置しているため、通商上の問題もさほど起こらないと考えられているからだった。
「宗主国が無事なら、同じ女神の子らである臣民の平和が傷付けられても良いのか!」
そう非難する声もあれば、
「〈竜〉の存在など、〈叙事詩の時代〉以来の災厄だ。へたな手を打ってみろ。われわれはなすすべもなく全てを失うぞ」
こう諭す声をもあった。
結果としてひと月、ふた月と時間が過ぎた。領国間の使者が街道を往き交い、竜が山の頂きであくびをしていてもなお、聖女王国は方針を決定できなかった。そうこうしているうちに雪が降り、北風が吹き荒れたために、このままなにもかもが凍結するかとすら、誰もが思っていた。
事態を動かしたのは賢人会議に参画する大司教グンター・メイヤーによる、聖殿騎士団の出動命令であった。年も改まってすぐのことだった。
「われわれはグンターがあれほどまでに事態を急いでいることに、一種の懸念を感じているのだよ」
シュヴィリエールを呼びつけた壮年の男は、王宮内にある秘密の談話室の中でそう語りかけた。そこには巨大な円卓が置かれており、居並ぶ人びとが、まるで太古の森の木々のように、来るものを覆い尽くす威圧感をかもしている。
玉座の間の近くに隠され、天上いっぱいに藍色の星空を点描したこの部屋は、城内では〈星室庁〉と呼ばれている。賢人会議の過半数を占める選王侯たちが、政において表沙汰にできないことを取り扱っている場所だ。そんなことはシュヴィリエールでさえうっすらと知っていた。
「左様。むろん、天に等しく女神の祝福を受けし同胞を、むやみに殺された怒りや憎しみは、あるだろうて。しかしそれらのいっときの感情──〈業魔〉に身を委ねることこそは、彼らの教義に反するものだ。
記憶堂の祭壇に祈りをささげるとき、ひとびとは何を感じ、何を願うのか。その重要性を説きながら自らその意味を忘れる説教師はおるまいよ」
そう低い声で言った左側の老人は、長いキセルを口にくわえ、静かに煙を吐いた。
シュヴィリエールはそうしたひとびとを前に、礼装で立っていた。
「……では、あなたがた〈星室庁〉は、グンターが怒りと大義の名のもとに、何かを揉み消そうとしている、と?」
「いかにもその通りだ。話が早くて助かる」
「しかし、その上でなぜ私がここに参上する次第となったのか。未だにわかりかねます」
皮肉な笑い声が満ちた。
「〈竜殺し〉の英雄の家系が、畏れ多くも謙遜なさらずともよい」
われわれもまた、重い腰をあげようと言うのだよ──と真正面に座る壮年の男フォルスナードは言った。賢人会議の議長にして、選王侯の筆頭格であるその男は、この聖女王国の裏側を司る〈黒の宰相〉であった。
「そう、シュヴィリエール殿。きみはまだ叙勲されたばかりと聞く。うら若き十五にして従騎として活躍し、先年の〈黒狼〉ハイドロフ討伐任務の成功で正式に騎士としてその名を高めた……」
「能書きはもういい。本題に移らせてくれ」
「まあ焦るな。生き急いだところでお父君の名誉が回復されるわけではない」
シュヴィリエールはこぶしを握りしめた。
「われわれは、名実ともに『勝てる』切り札が欲しいのだ。大司教の権威にも、聖殿騎士団の兵力にも勝る、ひとびとの記憶に残されるべき象徴的人物の存在がね」
「……なるほど、それが私か」
「そうだ。これ以上は説明するまでもなかろう。そう、きみはこの〈聖なる試練〉を断わる理由はない」
彼女は思わず歯ぎしりをした。
翡翠色のひとみも険しくなる。
その表情を見越した上で、フォルスナードはもうひとつ、付け加えた。
「さらに、きみにとっては願ってもない情報がある。騎士ノエリクについてだ」
「ノエリク? あの男が……」
シュヴィリエールはここぞというときに差し込まれた話題に、食い付かずにはいられなかった。
十二年前、父クナリエールを殺し、家宝を盗んだ罪深き男ノエリクの存在を、彼女はついぞ忘れたことがなかったのだ。
「そう。われわれの調査が功を奏してね。彼の消息がようやく判明したのだよ」
「どこに。どこにいるのですか、あの大罪人は……ッ!」
いまにも怒鳴り散らさんばかりに、シュヴィリエールは身を乗り出した。
焦るな、とフォルスナードは言う。
「いまはラストフという名前で、かの竜の膝下に暮らしている。なんという偶然。運命的なものを感じないかな?」
フォルスナードは、にやりと笑う。
「そう、貴殿の家宝──聖剣ルクレダリオンも、そこにあるのだ」
こうして、シュヴィリエールは出陣することを決めたのだった。