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第3版  作者: 八雲 辰毘古
第一部
4/19

三.記憶堂の闇の奥

 薄暗い記憶堂は、昼間とは違って、しめやかな静寂(せいじゃく)に包まれている。

 ふたりはその中を、靴底(くつぞこ)が響かないよう、ゆっくり歩いていた。


 ひとつひとつの歩みや、肩を上下させる呼吸、そしてゆっくりと脈打つ心臓が、とてももどかしいと感じるのは、きっとその闇の向こうに女神を()った壁があることを知っているからだ。

 龕灯(カンテラ)から周囲に漏れる光が、長椅子や祭壇の黒い影をあぶり出す。そこに動くものは一切なかったが、潜まれてしまっては、気付くことも難しいだろう。


 ふたりは息を殺して歩を進める。


「あと少しで導師さまのお部屋だからね」


 ルートがささやく。

 アデリナは頷きつつ、内心では首をかしげていた。


(でも、ほんとにルゥの探し物があの中にあるのかな……)


 ルートが探しているもの。

 それはラストフの記録だった。


「いくら逃げ隠れしていると言っても、ガーランドさんが賢人会議の命を受けてここに来たってことは、それに見合う証拠なり記録なりが残っているはずだよ。

 商人たちとの取引をまとめた帳簿か、それとも、この村の土地台帳とか、そういうものがね」


 彼はそう言っていた。


「でもさ、この記憶堂にあるって保証はないんじゃねえの?」


 アデリナはそう反論したが、ルートの意見はちがった。


「いいや、あるはずだよ。だってここは、聖女王国東部辺境、善政名高きフェール辺境伯の領地なんだから。賢人会議が見た記録は、辺境伯が保管させているものの写しだ」


 聖女王国内の各領地において、毎年、里麦(さとむぎ)や毛織物などを「税」として納めなければならないのはアデリナも知っている。

 そして、納め先が領主によって異なることもまた、よく知られたことだった。


 メリッサでは、最初に土地を拓いたセージ僧院が、その統治権をフェール辺境伯から貸与(たいよ)されている。ゆえに、ここの村人たちはセージ僧院に対して、税を納める決まりになっていたのだ。

 その税について、何をどれだけ納めるのかをまとめたのが土地台帳である。そこには地域の地理や歴史、住民のことから、村で起こった裁判についてまで、細々と記録されていた。


 だからルートは、土地台帳にラストフの手がかりがあるに違いない、と考えたのである。


(しかし、十二年……アタシたちが生まれるよりずっと前から、飽きずに追いかけ回されていた父さんって、いったい何をやらかしたんだろうか)


 ふとそんなことが頭をよぎったとき、ふたりは導師の執務室に入った。


 鍵はかかってなかった。(ちょう)つがいが(きし)んだ音を立てそうなのを必死に抑えながら、龕灯(カンテラ)越しに、書棚と書物机があるのを見つけた。鵞鳥(がちょう)の羽ペンを立てかけたインク(つぼ)に、書きかけの叙事詩写本が開かれたまま放置されている。

 ほかに目を移すと、パピルスの巻き物や、羊皮紙の書物、ときには仔牛皮紙(ヴェラム)でできた装飾写本などが、うず高く積まれていた。(ほこり)はなかったが、窓が()められていた。おかげで空気が充満していて、インクや羊皮紙の臭いが鼻をくすぐる。


「うわあ……!」


 ルートは感嘆の声をあげた。

 花に誘われるミツバチのように、そのまま書物机に歩み寄ろうとする。


「おい、ルゥ。目的忘れてないか」

「う。わかってるよ……」


 しぶしぶ振り向いた。

 そして暗闇の向こう側を指差す。


「書庫はあっち」

「鍵は?」

「そこの書物机の隠し引き出し」

「よく知ってるな」

「導師さまの手伝いで、何度か入ったことがあるからね」

「え、そんな簡単に入れる場所に、土地台帳なんか仕舞うのかよ」

「案外そんなものだよ。鍵を掛けてれば大丈夫って思ってたりするし、台帳それ自体は村のもめ事を解決するためにちょくちょく引っ張り出されるから、取り出しやすいほうが何かといい」


 そう言ってルートは改めて書物机のほうに向かう。そして下のほうをまさぐると、カチリという音とともに、金属音が(すべ)り落ちるのを耳にした。

 手に感触が来るのを察知すると、ルートは立ち上がる。そのまま龕灯(カンテラ)を掲げると、自分の手のひらに銀製の鍵を見いだした。


「見つかったか?」とアデリナ。

「うん。いま渡すよ」


 そう言いつつも、ルートは、火明(ほあ)かり越しに見える叙事詩写本の文面に目を()かれていた。

 そして、ふと目を細める。


(なんだ……この写本)


 というのも、そこには(いばら)のような文字が堂々とのたくっていたのだ。


(走り書きのようにも見える……けど、文面は『神聖叙事詩』のものだ。

〈我、(なんじ)ラノ罪ヲ担エルモノナリ〉。この一文があるということは、この見開きは〈白紙(タブラ・ラサ)の誓約〉について記した重要なものであるはず)


 ルートはだんだんと食い入るように、叙事詩写本をのぞき込んでいた。


 〈白紙(タブラ・ラサ)の誓約〉についての物語は、人びとの心の混沌を絵に描いたような暗黒時代の描写から始まる。血で血を洗うような争い、強欲の限りを尽くした淫蕩(いんとう)、そしてそれらを解決しようとする善の意志の不在……

 不安や憎しみ、悲しみや嫉妬(しっと)がついぞ絶えなかったその時代において、創世の女神は人類を(うれ)い、神霊の座にてその滅亡を計画するのだ。

 そこに託宣(たくせん)を受けた聖なる乙女アストラフィーネが、己れの祈りを以て懇願(こんがん)する。人類の罪はあまりにも多いが、神々に滅ぼされるほどの大罪を犯したわけではないはずだ、と。


 祈りは七日七晩にわたって続いた。

 やがて祈りは聞き届けられたが、女神は人の世の悪を(ゆる)しはしなかった。


 女神は、アストラフィーネに対し、大破壊の預言を行った。己れの罪を自覚し、真実に耳を傾けるもののみが生き残るに値するとの神意だった。

 そして百日後に大破壊が起こった。

 あらゆる傲慢(ごうまん)の塔は雷によって崩壊し、あらゆる堕落(だらく)した都市は洪水によって洗い清められた。

 全てが終わったとき、真実を聞き入れた人々を率いて生き残ったアストラフィーネは、風に吹かれ、波打つ平原を見下ろす美しい丘にたどり着く。そこで女神から遣わされた九人の御使いから、人類の罪を刻んだ〈無垢(むく)の石板〉を手渡され、誓約を結ぶ。そこには神々の言葉で、身分階級などを含む人界の新しい秩序が記述されていた。


 こうして神々の言葉を知ったアストラフィーネは、聖女として人びとを教え導くことを義務付けられる。これが星神教の起源であり、教導会の始まりでもある。


(なぜそのような重要な箇所をこうも雑に記述するんだ?)


 そして、静かに息を呑む。


(……いや、ちがう。これはボクの知っている『叙事詩』とは別の物語だ)


 たしかに大筋は変わらない。

 しかし、その細部がことごとく異なる。


 そもそもの話、暗黒時代の描写からして違っていた。人間の愚かさを描きながら、「それもまた人類の性であるゆえ」と一文が差し込み、さながら罪を肯定する文脈に書き換えられているのだ。

 おまけに聖女の存在がどこにも記述されていない。そこには女神の預言すら描かれず、災厄そのものを絵に描いたような巨大な魔物が、都市という都市を破壊したことが記されている。あまつさえ、ページの端のほうに差し込まれた、詩の一節が不気味な予感をそそらずにはいられなかった。


   世の初めから隠されていること。

   光と闇の秘密、

   四つの星霊の忘れ物、

   九曜の御使いの使命。

   だが全ては一つの謎のため。

   女神がいまでも秘め隠す、

   大いなる一つの謎のために。


 ルートはだんだん頭が痛くなった。


(なんなんだ……まさか、導師さまは〈業魔(ごうま)〉を信仰する異端だったのか……?)


 傍らでアデリナが心配そうにしている。

 しかし、ルートは写本の(とりこ)になりかけていた。まるで茨の茂みの中に入り、抜け出せなくなったかのように、彼は文字の織りなす世界に手繰(たぐり)り寄せられていた。


「おい、ルゥ。ルゥってば」


 アデリナが肩を()する。

 ルートは気づかない。

 おかしいと思ったアデリナは、ルートの顔をのぞき込んだ。そして、ギョッとする。


「ルゥ、しっかりしろ!」


 ルートの瞳から輝きが消えつつあったのだ。ふだんは青藍石(ラピスラズリ)に匹敵する美しい青の瞳が、まるで魂を抜かれたかのように精彩(せいさい)を欠いている。

 アデリナは慌てた。いくら書物に熱中するクセがあるルートでも、このような状態が普通じゃないことはわかる。しかしどうすれば良いかは、わからなかった。


(このままじゃ、ルゥが……)


 仕方なく、彼女は手を振り上げた。

 パァン、と乾いた音が響く。

 つかの間ルートは虚脱した表情を浮かべていたが、だんだん瞳に光が戻ってきた。写本から目をそらしたからだろう。アデリナはホッとした。


 しかし、ルートは怒った。


「痛いな! 何するの!」

「そりゃこっちが言いてえよ! さっきから呼んでも返事すらしねえって、どういう了見だ!」

「うっ、それは……」


 ルートは口ごもった。

 アデリナはけげんな顔をしていたが、


「まあいい。行くぞ」


 そう言って地下書庫の扉に向かう。

 銀色の鍵を差し込み、ひねる。手応えがあり、扉を開けると、その先に下へ、下へと続く階段を見つけた。


 ところが、そのときだった。

 鐘の音が、(とどろ)いた。さながら夜闇の(とばり)を引き裂くかのように、それは大きく、耳に叩きつける音だったのだ。


 ふたりは顔を見合わせる。

 そして音のほうを同時に向いた。


「〈時の鐘〉?」

「なんでいまこんなときに……」


 アデリナはとっさに外に飛び出そうとした。しかし、ルートの藍色の(そで)が阻止した。そのまま彼は、アデリナに向かって人差し指を立てる。

 アデリナは声をこらえた。すると、ルートは表情が和らぐのが明かり越しに見えた。しかしすぐに険しい顔に戻ると、龕灯(カンテラ)の火を吹き消した。


 視界が闇に閉ざされる。

 鐘の音だけが頼りだった。


 三つ、四つ、五つ……

 八つ、九つ、十……


 鐘の音は等間隔に繰り返され、ついに十三回目を最後に、打ち止めになった。

 ふたりは顔を見合わせた。片方は驚愕に目を見開きながら、もう片方は次の行動を考えながら。


「存在しない時刻。〈滅びの鐘〉の音!」


 ルートがそう叫ぶと、アデリナは弾かれたように窓に迫った。そして力付くで鎧戸を開け放つと、村の広場の景色を見た。


 災害を知らせる鐘の音──その意味するところに気づいた村中の人びとが、松明(たいまつ)を掲げて家屋から飛び出した。

 混乱と絶叫が夜闇の中に響き渡る。むやみやたらに走り出そうとする農夫たちを、守護騎士たちが必死に抑えようとやっきになっているのだ。

 その中にジンガルの(しゃが)れた叫び声を聞いて、アデリナは我に返った。


(逃げなきゃ。ルゥを守るのはアタシの使命なんだ)


 そう直感的に思い立って、振り返る。

 そのまま虚脱したルートの手を引いて、ジンガルのいる場所に向かおうとした。


 だが、もう遅かった。


 天空から、雄叫びが降り注いだ。耳を(つんざ)き、心を震撼(しんかん)せしめ、それから恐怖と絶望に叩きつけるような魔の咆哮(ほうこう)が──


「竜だ、竜がッ!」


 誰かがこう言ったのが、その晩聞いた最後の言葉になった。

 天井が崩れ落ちる。アデリナはとっさにルートの藍色の衣に飛び込んだ。しかし直後、後頭部に激しい痛みが襲いかかった。


(いけない……ガレキが頭に……血が……)


 暗闇の中に滑り込む自分を感じながら、アデリナは、夢の中から差し伸べられた手を思い出していた。

 遠くで助けを求める声が聞こえる──



     †



 そして、その夜。

 ひとつの村が、地図から消えた。

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