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第3版  作者: 八雲 辰毘古
第一部
2/19

一.失踪した父親

 石造りの建物の中は、静けさで満たされていた。

 まるで外の喧騒(けんそう)など、どこか異国のできごとのように遠かった。薫香(くんこう)の残り香が漂うこの空間において、音は耳をすましてもかすかに聞こえるかどうかといったぐらいだった。


(女神さま、アタシたちはなにか罪深いことでもしたのでしょうか。実の父親の名を忘れるだなんて……)


 アデリナは、その中央、祭壇(さいだん)の前で祈りをささげていた。

 ひざまずいたところから顔を上げると、祭壇を取り囲むように描かれた壁画彫刻を目の当たりにできる。聖女アストラフィーネが、女神の座す天空の宮殿に向かって、まっさらな石板を(かか)げている宗教的な一面だ。

 世にあまねくすべてのヒトの罪を白紙に戻すとされたこの場面は、〈白紙(タブラ・ラサ)の誓約〉と教典に記されている。


(確かにわたしはろくに大人の言いつけを守ってないかもしれません。しかし、ルゥはそうじゃないはず。家族の記憶をなくすなんて罰を受けるいわれは、わたしだけで充分でしょう……!)


 怒りにも似た想いを込めて、アデリナは立ち上がる。そして目をつぶり、祭壇の黒い石碑に右の手のひらを押し当て、左手をゆっくりと頭から心臓まで下ろした。

 すると、彼女の右手の触れたところが青白く光り輝き、すっと()み入るように落ち着きが広がるのを感じた。


 祈りの時間が訪れたのだ。


 太古の〈星霊(せいれい)〉に呼びかけ、心を交わし、無心になること──それが教導会の広める星神(せいしん)教の教えである。

 中でも祈りは重要だった。数ある深遠なる教義をまとめ記した教典『神聖(しんせい)叙事詩(じょじし)』を紐解(ひもと)いても、そのことははっきりと記述されている。


   祈りの刻を欠かすべからず。

   其は己が心と向き合う術にして、

   星の記憶に出逢う刻なり。


 アデリナは、この抜粋(ばっすい)を週おきに行われる朗唱(ろうしょう)でしか知らない。

 けれども、なにか心に迷いがあるとき、祭壇の前で誠実に祈りをささげると、落ち着いた心地になれるのは事実だった。


 目を開く。もう光は消えていた。


 背後から扉の音がした。振り向くと、導師ともうひとり、背の高い金髪の青年が、並んで歩いて来るのを見つけた。


「ガーランドさん」


 と、アデリナが青年の名を呼ぶ。

 呼ばれた男は、片眼鏡(モノクル)越しにのぞく垂れた目尻に笑いのシワを寄せて、ゆっくりと近寄った。やあ、と力なくあいさつをすると、右目の泣きぼくろのあたりがより一層この青年の人当たりの良さを裏付けるだろう。

 アデリナは彼に駆け寄った。


「ルゥの様子は……?」

「心配しなくていい。軽い目まいだ。部屋で休んでいるから、もうしばらくしたら目覚めるはずだよ」


 アデリナはほっと胸をなでおろす。


 あのとき、父親のことを示唆(しさ)された途端、ルートの身に異変が起きた。

 まるで雷が全身を貫いたかのように彼はハッと驚愕(きょうがく)に顔を歪め、それから頭を抱え込んで、うずくまった。そしてそのまま気を失ったのだ。

 あまりに唐突に、一連のできごとが起こった。

 そのために、アデリナは戸惑い、なにもすることができなかったのである。


 そこにやって来たのが、ガーランドであった。

 〈冠の都〉リア・ファルからの遣いとしてやってきたというこの施術師は、導師にラストフについて(たず)ねた人物と同一であった。しかしルートの身に起きたことを知るや否や、すぐにその身を抱え、寝台に移動させ、介抱してくれたのだった。


 アデリナはそのさい、ガーランドから、ラストフという人物がほんとうに自分と血のつながった父親で、なぜか自分がその記憶を失くしていることを教えられた。

 しかし実感はなかった。というのも、ふたりはながらく孤児(みなしご)として、導師を親代わりに過ごしていたのだから……


 だが、導師自身も(おぼ)えていないというのは、ガーランドにとっても、またアデリナにとっても謎であった。


「それで、導師さま、ほんとうになにも憶えておいでではないのでしょうか……」


 先ほども同じ議論をしたばかりなのだろう。アデリナは導師の太い眉に、渋る様子を見つけた。


「すまない。やはりなにも想い出せない」


 じつにあっけらかんとした、簡素な回答だった。ガーランドはため息を吐いて、祭壇の手前に並ぶ(なが)椅子(いす)のひとつに腰かけた。リア・ファルの施術師にのみ許された赤い衣が、だらしなく手すりから床に垂れる。


「やれやれ。せっかく彼の居どころを突き止めたというのに、この有り様とは」

「ガーランドさん。あなたはなぜここに来たんですか? その、父に何か用でもあったのでしょうか?」


 ガーランドはアデリナを見る。片眼鏡(モノクル)越しに映るそのひとみは、非情な青だった。

 アデリナは冷や水を掛けられたような心地がした。胸のうちがきゅっと締められたように息が苦しくなる。しかしその様子を見て察したのだろうか、ガーランドはすぐにふっと力を抜いて、泣きぼくろの目尻にシワを刻んだ。


「……そうだね。十一のきみには、まだ早すぎる」


 そうひとりごちてから、


「いかにも。わたしは賢人会議の命を受けて、きみのお父さんにどうしても訊かなければならないことがあったんだ。きみは知らなかったかもしれないが、きみのお父さんは、かつて〈聖櫃(せいひつ)城〉アドラ・キャメロに仕える聖殿(せいでん)騎士のひとりだったんだよ」

「えっ、父さんが?」


 アデリナは椅子の背もたれに身を乗り出した。その目はらんらんと興味に輝いている。


「強かったんですか? すごいひとだったんでしょうか」


 ガーランドは、淋しそうに微笑んだ。


「ああ。とても強かったと言われている。わたし自身は、直接お会いしたことはなかったがね。その戦いぶりはもう記録には残されていないが、知っている人たちの記憶には強く刻まれているはずだよ」

「そっかぁ。そうだったんだ……!」


 アデリナは歓喜に満ちて、背筋を正した。自分はあこがれの騎士の血を引いているのだ、とわかって、興奮せずにはいられなかった。

 しかし、すぐさまその興奮はしぼんでしまった。そのままうなだれる。


(だとしたら、なんでアタシはそんな立派な父親のことを憶えていなかったんだろう)


 彼女は自分を恥ずかしく思った。いくら育ててもらえなかったとはいえ、自分の血縁者がどういう人間だったのか、まるで知らないのはどうかしている。

 ガーランドはその心情のすべてを察してはいなかったが、彼女を落ち込ませまいと、さらに物語をつづけた。


「十二年前、若くして騎士の位を返上したきみのお父さんは、それ以来、行方をくらませていた。……恐らくいろいろなことがあったんだね。宮中での暮らしには厄介ごとが付き物なんだよ。

 とにかく、彼はいまラストフという名で、ここメリッサの村に住んでいることがつい最近わかったんだ。だから、交易旅団(キャラバン)について行って、連絡が取れないかと考えていた。まさかこのような事態になっているとは、思いもよらなかったがね」


 自嘲(じちょう)ぎみにガーランドは笑う。

 隣りで導師さまが申し訳なさそうに立っていたが、いったんその場を辞すと、葡萄(ぶどう)酒の入った水差しと杯を持って戻ってきた。


「今日来たばかりのグラーフの酒だ。道中(たしな)まれたかもしれんが、のどの渇きを(いや)しなされ」

「有り難くいただきましょう」


 ガーランドは杯を受け取ると、すばやく(あお)った。それからもう一杯をゆっくりと飲み干して、ため息を()いた。さて、これからどうしようか、と思案顔になる。

 やがて、彼は立ち上がった。


「ご馳走さまです。お世話になりました」

「これから、どうなさるつもりで?」


 導師の問いかけに、ガーランドは皮肉っぽく微笑んで答えた。


「どうもこうも。別を当たってみますよ。この辺りにいるのは確かですから、雲海山脈沿いに、セラト山のほうまで行ってみます。いまから行けば、夕暮れまでにセージ僧院へたどり着けるはずです」

「そうですか。なら、無理に引き止めはしません。お気をつけて」


 ガーランドは一礼すると、そのまま記憶堂をあとにした。

 その直前で、彼は振り返って、アデリナを見た。


「きみのお父さんは、必ず見つけ出してみせる。だから安心してくれ。再会できたら、なんで自分に大事なことを教えてくれなかったのか、めいいっぱい文句を言えばいい」


 彼なりの冗談のつもりだったのだろう。しかし、むしろその不器用さにアデリナは笑ってしまった。

 ガーランドは淋しげに笑い返して、そのまま行ってしまった。導師も村の様子を見てくる、と一緒に出て行く。


「……もう誰もいない?」


 背後で声がした。振り向くと、ルートがおずおずと扉の陰からのぞき込んでいた。


「ルゥ、お前からだは大丈夫なのか?」


 アデリナの問いかけに、ルートは口もとに指を立て、声を小さくするように促した。


「いいんだ。ちょっと頭痛がしただけ。それよりも、あのガーランドってひと怪しいよ。リナはそう思わなかったの?」

「えっ?」

「あきれた」


 ルートは藍色の衣のすそを引っ張って、アデリナのもとに向かった。その途中できょろきょろと周囲を見回して、誰もいないことを確認すると、長椅子に座って、言った。


「いい? 賢人会議がいかに人徳に厚い方々の集まりだったとしても、十二年も前にいなくなった騎士を、普通探し回ったりはしないよ。それにあの話し振りだと、お父さん──ラストフだっけ? もさ、わざわざ名前を変えてまでこんなへんぴな村に住むってどうかしてる」

「なんだよ、あのひとがウソを吐いてるっていうのか?」


 むっとするアデリナに対して、ルートは肩をすくめる。


「さあ。けれどもあのひとの話には肝心なところが抜け落ちている。なぜお父さんが宮廷を去ったのか、そしてなぜ賢人会議がお父さんを、十二年も掛けて探しつづけているのか、このふたつについてだよ。

 おまけに、お父さんの活躍が記録には残されていない、だって? 〈叙事詩の時代〉だったならともかく、今のご時世、大抵どんな騎士でも記録は残る。もしそれがないとするなら、消されたときだけだよ」


 そのまくし立てる口調に、アデリナは戸惑った。彼女はルートがもう少し穏やかで、書物や草花を好み、思いやりのある優しい人物だと思い込んでいた。

 だが、ちがう。彼は怒っていたのだ。


「知らないままのほうがいいって腹づもりなんだろうけど、そういう気の使い方、ボクはとても嫌いだ」


 ああ、とアデリナは思った。ルートはただ真実が知りたいのだ。打ち明け話をしてくれるようにして煙に巻いてしまったあの大人の話し方を憎んでいるのだろう、とも。

 だから、彼女はルートの次の言葉が予想できてしまった。そして案の定、彼はこう言ったのだ。


「探そう。僕たちの手で、お父さんを」

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