十四.冥府の河を遡って
再び水面に浮かび上がったときには、竜の身体は光を失っていた。暗闇が戻った夜空に、煌々と月の光が舞い戻る。そこには焼け焦げたエレヴァンの姿があった。皮膚が爛れ、最期の表情がなんだったのかすら判然としない。明らかに死んでいた。
シュヴィリエールは泣き叫んだ。悔しさと虚しさで身体中が引き裂かれそうだった。その感情がどこから湧いてくるかも知らず、ただ溢れるばかりの気持ちが身体中を駆け巡って、どうにもならなかった。
シュヴィリエールッ! と誰かが呼んでいた。ガーランドだった。彼は単身でやって来たのだった。
夜闇の中に泣き叫ぶ少女と、平原に倒れたエレヴァンを見て、ガーランドは状況を察した。黙祷でもして、青年騎士を弔ってやりたい気持ちに駆られたが、そうもしていられない。月光に照らされた巨大な影が、再び赤い燐光を発し始めたのだ。彼はシュヴィリエールの身体をアデリナごと引き上げて、この場を脱出するように訴えた。しかし少女は茫然自失としているばかりだった。
「何をしているッ!」
溜め池を出た彼らは、冬の夜空の下でびしょ濡れになっていた。シュヴィリエールは腕を引かれるとき、ガーランドから祈りの薫香が香るのに気がついた。〈結界〉を生み出すのために必要な触媒のひとつだった。
再び竜が吼えた。まるで先ほどの火炎噴射で敵対者が滅んでないことを不服に思っているようだった。首をもたげ、足元を検分するかのように頭部を巡らせる。その金色の眼が、ギョロリと動いて求めるものを探している。シュヴィリエールは我に返った。
「嫌だ。わたしはここに残る。エレヴァンを連れて帰らなければ、あいつは大事な副官なんだ。ここで置いて行くわけには……」
だが最後まで言う前に、ガーランドの平手が飛んできた。衝撃は強くはなかった。しかしどんな敵意よりも彼女の心を傷つけた。
「何を言っているんだ! 何のために彼が命を投げ打ったと思っているんだ! いい加減目を覚ませ!」
ガーランドは露骨に舌打ちをすると、指笛を吹いた。すると、ニースが馬を二頭連れて来た。ふたりは言葉少なに状況を確認すると、素早くシュヴィリエールとアデリナを騎乗させた。ガーランドがアデリナを、ニースがシュヴィリエールを、それぞれ抱えるように乗ったのだ。
馬上でニースに抱えられながら、シュヴィリエールは背後を見る。エレヴァンの亡き骸が夜空の下で、虚しく遠ざかっていった。
そのまま感傷に浸りたい気分だったが、空気を痺れさせるような咆哮が、まだ緊張を緩めてはいけないと諭した。見れば、灼熱の輝きを取り戻した巨体が、空高く舞い上がっている。マズイわ、とニースが独りごちた。
「ガーランドさん、このままじゃ埒が明かない! 仮に城館に戻れたとして混乱を招くだけだわ!」
怒鳴るように前方に呼びかける。すると、ガーランドは右手を上げて、肘から上で大きく手招きをした。自分についてこい、と示しているのだ。ニースは黙って後方に着いた。
竜はもう一度頭上を通過して、戻ってきた。滑空する軌跡が月明かりに照らされて、はっきりとわかる。そこにガーランドの騎馬が急に右折した。ニースも続くと、さっきまでいた場所に竜の巨躯が虚しく土煙を上げているのがわかった。
「あの竜、思ったよりもおバカさんなのね」
シュヴィリエールはニースの独り言を聞きながら、エレヴァンのことを回想していた。教導会で養育されていた捨て子の少年で、まだ名前のなかった彼のこと。二、三年上だったはずだがシュヴィリエールはいつもその少年を部下として扱った。
父クナリエールが彼を拾って育てたのは、騎士の義務で忙しい自分に代わって、同年代の教育者を欲してのことだったらしい。〈神話所持物〉を保有する英雄家の戦士は、魔物の討伐にたびたび駆り出される。だから直接の鍛錬はできないと思い、年の近い少年を迎えて育てたのだ。
(そういえば、わたし自身はあいつをひとりの人間として見たことはなかったんだな)
戦場で誰かが死ぬのは当たり前──そんなことを、どこの騎士団からも聞いた。相手が魔物でなくてもひとが死ぬことは、父が身をもって教えてくれた。だが、そんなごくごく普通でわかりきっていたことを、シュヴィリエールは理解した気になっていた。
だがじっさいに目の当たりにするまで、彼女は何もわかっていなかった。戦いというのは命のやり取りであり、生存を掛けた駆け引きであることを、いまようやく知ったのである。
(わたしは……なんてバカだったのだろう。この怪物と戦うことがどういうことだったか、知らないわけでもなかったのに。わたしはただ先祖の名誉を守れるかどうかしか考えていなかったんだ。
そんなわたしを周りはどう見ていたのだろう。ただ家格が高いだけの鼻持ちならない女だったのか。それとも、単なる御飾りでしかなかったのだろうか)
シュヴィリエールがそう思い至ったとき、状況は新しい局面を迎えようとしていた。彼女はニースが叫ぶのを聞いた。
「また来た! ガーランド!」
「このまままっすぐだ! 向こうに見える森に突っ込め!」
応答があったが、その頭上を影が覆う。竜だ。月明かりを飲み込んだ巨体が、今度は悠然と二騎を見下ろしている。立ちはだかろうとしないのか、とシュヴィリエールが竜の思考を読もうと考えるが、途端に視界がまばゆい光に覆われた。赤く光っているのだ。
さながら真夏の太陽でも昇ったかのようだった。びしょ濡れだった身体がだんだんと暖まり、衣服が乾いていく。全身が蒸発するような心地に見舞われながら、彼らは馬を馳せる。無理強いをしているとはわかっていた。しかし、馬とて速く走れなければ、生き残れなかった。
(もうダメだ、もうダメだ……)
シュヴィリエールは悲鳴を上げたかった。いままで張っていた虚勢も、建前も、何もかもを投げ出したくなっていた。
だが、それでも馬は走った。眼前の森が迫り、樹々が大きくなるにつれて、諦めかけていた希望が膨らむのがわかる。
しかしついに竜が火を噴いた。
逆巻いた風が熱気を帯び、〈風の平原〉の表面を焼き焦がす。天から盗まれた始原の炎が、邪悪な紅となって馬たちを追いかけた。
滝のような汗にまみれながら、森を見る。藍色の夜空に群がる黒い影が視界に迫っていた。あと少しであの樹々の下にたどり着けるのだ。縋り付くような心地で、彼らは馬を走らせた。
やがて樹木が織り成す暗闇の中に飛び込んだが、火は止むところを知らなかった。青々とした葉を黒く焦がして、馬たちの軌跡を追う。その激しさの前には、古今の植物が枝葉を伸ばして編んだ織り物もなすすべがなかった。焼き切れ、ほつれた箇所から引火が始まり、森自体を赤く燃え上がらせたのだ。
一同は必死だった。空から降り注ぐ炎の柱が、まだどちらにも当たっていないのが奇跡だった。すでに頭上は常緑樹の生い茂った天井を作っており、竜の存在は風切り音と熱でしか探知できない。向こうも見えていないはずだった。しかし炎は荒れ狂い、そこかしこの樹々を炭に変えていた。
そして、ついに目の前の木が燃えてへし折れた。メキメキと音を立てて倒れる幹が、進行方向を遮ってゆく。慌てて馬の鼻先を変えようとするが、間に合わなかった。彼らは馬から投げ出された。シュヴィリエールたちは素早く受け身をとるが、全身の衝撃はちっとも和らがない。胸が詰まり、呼吸が止まりかける。
ところが、それ以上の惨劇はやってこなかった。よく耳をすませば、炎の燃える音の中から、ごうごうと耳をつんざく風切り音が消えていることに気がついた。
「……生きてる」と、シュヴィリエールが呟いた。
「ああ、そうだな」
答えたのはガーランドだった。彼はアデリナの身体を抱きしめたまま、丸太のように転がっていた。緊張に強張った手をおそるおそる剥がすと、安らかに眠ったような少女の顔が、そこにあった。
「やれやれ。この子はいったい、こんな危険な状況ですやすや眠ってるみたいだな」
「えー、あきれた。命からがらだってのに、どういう図太い神経してたら、そうなるのかしらね」
ニースが割り込む。
「さあな。まあ、魔術の効力も抜けつつあるようだし、大丈夫だろう」
シュヴィリエールは茫然としながら、ふたりの会話を聞いていた。自分もその輪に加わろうと思っていたが、口が開いても何も言葉にできない自分がいた。
緊張がほぐれて感じたのは、ただ生きてるのだという実感だった。その実感は名状しがたい一個の混沌とした感情の塊となって全身に溶けて広がったが、彼女の理性がこの場にいるべきもうひとりの空白を指摘した。シュヴィリエールはそのとき、かの青年騎士が幼少期からずっと空気のように当たり前の存在であったことを理解したのだ。
(エレヴァン……わたしは、お前のおかげで生きてるぞ……お前の命を借りて、わたしは生きのびることができたんだぞ……)
気がついた時、頰に水が垂れていた。その源を指でたどると、それは涙だとわかった。途端にとめどなく溢れ出た。仰向けに転がりながら、彼女は涙を流していた。ただひたすらに、ただ静かに。