十三.その手はきっと血と名誉で汚れていた(下)
月が明るいのが幸いだった。闇の向こう側にうごめく影が、東の方からやって来るのが見える。それが青白い光の手前を通り過ぎたとき、はっきりと竜だとわかった。
不思議と恐怖はなかった。ただ、ついに来たのか、という分かりきった顛末を聞き入れる時のような平静さがあっただけだ。シュヴィリエールたちは再び馬に乗って、逃げの一手に徹した。
馬を走らせてから間もなく、竜の翼が大気を切り裂く音が聞こえた。近くで確認した、あのコウモリのような形状の翼が、羽ばたいているのだろう。
空気が波打ち、地響きがする。着陸したのだ、とわかった途端、背後から強烈な光と熱が押し寄せた。とっさに振り返る。すると竜の巨体が全体的に赤々と発光しているのが見えた。
(まさか、あれがうわさに聞く火炎噴射なのか……!)
間もなく、廃墟が破壊され、火柱が上がった。平原一帯のタケダカソウの枯れ草に火が燃え移り、事前に油でも撒いていたかのよう炎が海となって広がった。それは刻一刻と離れつつあるシュヴィリエールたちには直接の関係があるものではなかったが、遠目から見てもわかる終焉の光景だった。
しかし、竜はすかさず虚空に鼻先を掲げると、おもむろにこちらを向き始めた。闇の中でも光る金色の双眸が、凶兆を知らせる星のように瞬いた。その目が鋭くなったかと思うと、かの竜は冥府のほとりで泣き叫ぶ女の霊のごとき甲高い音を震わせて、全身を赤く燃えたぎらせた。再び風を叩きつける翼の羽ばたきが聞こえる。シュヴィリエールは叫んだ。
「竜がこっちに来るぞ!」
先ほど見ていた景色が近づいている。真っ赤な燐光の塊が、想像を絶する速度で頭上をよぎってゆく。あっという間に抜き去ったかと思うと、今度はシュヴィリエールたちの眼前に大きく湾曲した軌跡を描いて戻ってきた。そのまま滑空して着陸すると、壮絶な土煙が上がって、騎馬の操作がままならなかった。
なし崩しに、落馬してしまう。とっさに受け身を取ったものの、馬は混乱してどこかに走り去ってしまった。他もそうだった。悲鳴や嘶きがかまびすしく飛び交う中、轟音のごとき咆哮が彼らの世界を上塗りした。恐怖と絶望の混合色だった。
とっさに見上げた竜の巨躯は、真っ赤に焼けた鉄のように赫奕としていた。恐怖に押しつぶされそうなまぶたを必死にこらえて観察すると、表皮一面に張り巡らされた鱗の一枚一枚が逆立っているのがわかる。その隙間から火花が溢れ出して、夜闇の帳に竜の影像を映していたのだ。
(……こんなものに勝てるわけがない)
シュヴィリエールは一瞬で絶望に襲われた。膝から力が抜けて、立ち上がることすらできなくなった。竜が吼えるたびに心臓が止まりそうになる。気づけば呼吸も荒くなっていた。息を吸うたびに気分が悪くなり、胸がつかえて、視界すらもぼやけた。瘴気、という言葉が頭をよぎったときには、うつ伏せに倒れ込んでいた。
そこにエレヴァンがやってきた。玉のような汗をかいて、それでもなお立っている。彼の背中にはアデリナがおぶさっていた。少女はまだ気を失っている。
「殿下、手を!」
エレヴァンは必死だった。その視線の向こう側には、竜が何かを探し求めるように鼻先を周囲に巡らせている。肝心の獲物を、自分の着陸時に見失っているようだった。
その隙を突いて、彼はシュヴィリエールを引っ張った。そのまま引きずりながら、近くの溜め池の方に進んでゆく。地面に身体を擦るうちに、シュヴィリエールは自らを情けなく思った。耐えきれないほどの羞恥と悲しみが同時にこみ上げて、歯噛みすらできない自らの状態に対してさらに失望していた。
やがて竜の赤々とした巨体が動き出した。振り向く動きだ。シュヴィリエールたちの位置からはよく見えなかったが、おそらくガーランドとニースがいるのだろう。何かハエでも跳ね除けるかのような仕草で、十ヤール(約八メートル)の大きな尾を払ったのである。それでさらに土埃が舞って、エレヴァンたちは風圧に押し倒されてしまう。
しかし次の瞬間、竜が悲鳴をあげた。見れば、首筋の鱗から火花ではない何かが飛び散っていた。血だ、と理解したのは竜の首が高々と上がってからだった。すかさず竜は反撃に出ようとしたのである。
大きく空気が吸引される音がした。気圧が急に低くなったかと思うほどの吸気で周囲の大気がたわめられると、全身の鱗が炎の輝きを伴って花開いた。世界を滅ぼすものだけが持つ、冥府の深淵のごとき光景だった。
温度が急上昇し、露出した肌が焼けそうになる。エレヴァンは危機を感じてさらに急いだ。立ち上がって前進を再開する。這うように進み、それでも少女と主君を手放そうとはしなかった。
シュヴィリエールは悲しくなって叫んだ。やめろ。やめてくれ。こんな哀れな主君を守って何になる。お前は怖くないのか、わたしのことなど放っておいてさっさと逃げろ。とにかく思いつく限りの罵詈雑言が飛び出した。彼女はエレヴァンという騎士の献身に、耐えられなかった。そうあるべき器が自分にあるとは到底信じられなかったのだ。
「憶えておいでですか」と、その時エレヴァンが口を開いた。「わたしが名もない少年だった頃、あなたはわたしをどう呼んだのかを」
シュヴィリエールは知らない、憶えていないと答えた。
「うすのろ、と呼びました。木偶の坊、ともね。全く、いまのあなたを見ているとその時のことを思い出しますよ。酷い言葉遣いで、何度も母君に怒られてばかりでしたっけね」
チリチリと肌が焼ける匂いがする。シュヴィリエールの革具足や、アデリナの皮膚が灼け爛れそうだった。吐き気がした。腹の底がひっくり返りそうだった。
「お父君が亡くなられてから、あなたは変わってしまった。ほんとうは変えられてしまったというのが正しいのかもしれません。英雄家の血筋がそうさせているのかもしれませんね。わたしにはそんな高貴な血は一滴も流れていませんから、その自負と教訓がどんな傷痕をあなたに刻んでいるかなんてついぞわかりやしませんでした」
ただ、とエレヴァンは付け加える。
「十二年近く、おそばでお仕えして、わかったことがあります。どんなに高貴な血を引こうとも、やはりあなたはひとりの人間なのだということです。それが英雄かどうかなんてことは全然関係なく、わたしはあなたをひとりの人間としてしか見られないのです。
おわかりですか? これは恨みごとなんです。ここまで忠誠を誓っておきながら、何も知らないあなたに対するお説教なんですよ」
シュヴィリエールはそのときようやくエレヴァンの顔を見た。目鼻立ちの整った、しかし冴えない顔をしていた。信じるものを持ちながら、それを誰にも届けることのできない所在のなさがありありと表情に刻まれていたのだった。
「いつまで名誉にこだわってるんですか。いつまであなたは騎士道の精神を嵩に着てるんですか。そんなものひとつも本気で信じたことがないくせに、ほんとうに大切なことが何なのかわかっているくせに!」
エレヴァンは泣いていた。なぜ泣いているんだろう、シュヴィリエールは思った。その想いが伝わってしまったのか、エレヴァンはさらに悲しそうな顔をしていた。彼はさらに言葉を重ねようかと考える。
しかし、もう時間がなかった。空気の吸引が止まった一瞬を肌で察すると、エレヴァンは残った力を振り絞ってシュヴィリエールの身体を溜め池に投げた。それからアデリナを放り投げると、そこで力尽きて膝をついた。
「エレヴァン!」
シュヴィリエールは叫ぶ。しかし投げられたアデリナの身体を受け止めて沈んだとき、水面に真っ赤な光条が迸った。竜の火炎噴射だった。