十一.不吉の予兆、魔女の星
空が落ちてくるような壮絶な攻防は、しかし唐突に現れた、紫色に迸る閃光によって打ち消された。途端に風が凪いだ。一瞬だけ顔を上げる機会があったものの、すかさず風が逆巻いた。それはシュヴィリエール達から見たとき、向かい風として襲いかかってきた。
暴風に煽られながらも、シュヴィリエールは、よく目を凝らす。油断すると砂埃が眼球の表面にこびりついてしまいそうだ。だが彼女は腕で顔を庇いつつ、じっと様子を伺った。すると、巨大な渦を描いた砂塵の中に、紫色に光る巨大な五芒星のようなものが見えた。
(いや、ような、ではない)
シュヴィリエールはすでに確信していた。神話的な魔物である竜の出現、強行された聖殿騎士団の攻撃、そして賢人会議の混乱と焦燥……これらのさまざまな事実を全て納得させる巨大な背景が、いま目の前にある。
だがその事実を彼女はまだ受け止めきれないでいた。拳を握りしめ、歯を食いしばる。
(バカな、レアンドル達はこのことを知っていたのか? いやメイヤー大司教は最初からそうだとわかっていて〈結界〉の使用を許可した、とでも言うのか?)
シュヴィリエールは、いま自分が巨大な卓上遊戯の駒になっていることを知った。彼女たちの行動は、全てフォルスナードやメイヤー大司教と言った指し手の目で俯瞰され、次々と計画された未来に向かって前進を強制されているのだ。
だが最も凶悪な問題は、その指し手自身も歴史の盤上では単なる駒でしかなかったということだった。
シュヴィリエールは虚空に向かって叫ぶ。
「〈魔女〉の星! ということは──」
「その通り。よくおわかりね」
全く予期しない応答があった。そこには紅の髪の少女が、にっこりと微笑んで立っている。まるで最初からシュヴィリエール達と行動を共にしていたと言わんばかりの図々しさで、少女は自らの存在を主張していた。
病的なまでに白い皮膚に、罪の烙印のごとき赤い刺青が彫られた頰。これほどはっきりとした特徴を持っているのに、なぜ今の今まで気づけなかったのか。そんな焦燥に駆られて、シュヴィリエール達は立ち上がった。
すでに風は落ち着きを取り戻していた。
黄昏の光に包まれながら、肌寒いそよ風を送り続けている。
「御機嫌よう、騎士団の皆様がた。わたしはヴェラステラ。御察しの通り、〈魔女〉崇拝者のひとりよ」
ヴェラステラと名乗った紅の少女は、恭しく一礼する。その行為に出鼻をくじかれた一同は、戸惑いの色を隠せない。彼女はクスクス笑った。
「やだ。あんまりわたしが美人だからって黙りこくらなくてもいいのよ? 嫉妬されても仕方のないことだと思うけど……」
と、言いながら、ヴェラステラは記憶堂のほうをチラと見やる。
そこでは風がさらに逆巻いて、凍てつく柱に凝り固まってゆくさまが展開していた。空気そのものがメリメリと震えながらヒビ割れてゆく。その感触を得て、騎士装束の内側で鳥肌が立った。ついに始まったのだわ、と彼女は思った。身の内側から溢れ出す興奮を抑えつつ、ヴェラステラは話を続けた。
「さて、時間もないから、手短に用件だけお伝えしますわ──その子、わたしたちにお預けいただけます?」
そう言って、ヴェラステラはアデリナを指した。アデリナはきょとんとする。えっ、アタシ? と自分自身を指差す。
ヴェラステラはにっこりと頷いた。
だがそこにシュヴィリエールが割り込む。
「断る。貴様らがこの件に関わっているなら、なおさらの話だ」
「あら残念。でもこれはわたしたちの可愛い王子サマの要請だから、どうしてもじゃないといけないの。わたしはその使いっ走りってわけ。やんなっちゃうわ」
「王子、様……?」
アデリナの言葉が先に出た。ヴェラステラはその反応を逃さない。
「そうよ、リナ──〈太陽の娘〉、あなたの大切な弟が、あなたのことを探しているわ」
「ルゥが! あいつはどこに!」
アデリナは飛びつくように前のめりになった。その青いひとみは冷静さを失って、風の前の灯火のように揺らいでいる。
だが、とっさに飛び出したアデリナの身体を、ニースが後ろから羽交い締めにした。なにすんだッ、と怒鳴り散らす少女に対して、ニースは構わなかった。
「シュヴィ、やって!」
「わかってる」
剣を抜いた。ヴェラステラは暗い笑みを浮かべると、後ろに向かって飛び退った。
「やっぱり交渉ごとはニガテだわ。こうでもしなくっちゃ、わたしの荒ぶる気持ちは収まんないッ!」
叫ぶや否や、どこからともなく細身の剣を抜き払う。その剣身は黄昏の光の中で琥珀のように独特な輝きを帯び、年輪のごとき刃紋を刻み込んでいた。
シュヴィリエールは目を見張った。
「貴様。どこでそれを」
「ふふふ、ヒ・ミ・ツ」
言い終わる前に刃が飛び込んだ。シュヴィリエールは素早く去なすが、ヴェラステラは容赦なく第二撃に転じて来る。途中でエレヴァンがなにかを言った気がするが、それに構っていることができなかった。
斬って、薙いで、払って、巻き込んで……十数撃にも及ぶ剣戟は、周囲の目にも止まらぬ速さで繰り出されていた。その刃が絡み合うたびに、シュヴィリエールの剣身が次々と抉り取られる。刃こぼれを起こしていることをわかっていながら、シュヴィリエールはひとつの謎に囚われかけていた。
(なぜ聖殿騎士団でも上位のものしか扱えない高級な鋼を、この魔女崇拝者が使っているんだ?)
しかしヴェラステラは容赦なく攻撃を続ける。
「ホラホラ、剣の動きが鈍いわよ!」
そう言って突き立てた一閃に、シュヴィリエールは防御が間に合わなかった。かろうじて身を沈めるが、剣尖は左の肩口に斬り込んだ。薄皮一枚で電撃のように激痛が迸り、血のしぶきが上がる。
シュヴィリエール様ッ! とエレヴァンの声が、今度ははっきりと聞こえた。倒れた身体を背後から抱き上げられる。
ヴェラステラはさらにそこからもう一撃、今度はとどめを刺すつもりで剣を振りかざした。
ところが、それは振り下ろされなかった。
突然、どこからともなく飛んできた短剣が、ヴェラステラの手首に深々と刺さった。あまりのことで彼女は剣を取り落とす。反射的に顔を上げた。その顔は苦痛に歪み、赤いひとみは憎悪の炎を燃やしている。
「ふざけてんの、あんた……!」
シュヴィリエールがヴェラステラの見ている方向を見ると、そこには施術師の赤い衣をまとった男が立っていた。片眼鏡を掛けているその男は、ぜえぜえと荒い息を立てながら、言葉を返さずにいる。
ヴェラステラはますます激昂した。
「いい? 〈星室庁〉の下っ端さん、あなたにこの場をひっくり返す命令などされていないはずだわ。あなたに指示を下したお偉いさんにしっかり問いたださせてもらうわよ。いいわね?」
「……構わない。君たちと繋がっているんだったら、わたしは最初から指示に従う気はなかったんだからね」
ハッ、とヴェラステラは鼻で嗤う。
「調子乗ってんじゃないわよ。ガーランド。あなたいつから正義の味方になったつもりでいたの?」
ガーランドは答えないまま、新たに短剣を取り出した。ヴェラステラは首を振った。
「やれやれ。問答無用ってわけね。約束破りは女の子に評判ガタ落ちだってのにサ。
……まあいいわ。王子サマには悪いけど、これは無かったことにしてもらうしかないわね。そう、わたしは最初からここにはいなかった」
ヴェラステラは身を引いた。するとまるで空気に溶け込むかのように、彼女の存在が透け始め、消えてしまった。
どさり、と音がシュヴィリエールは振り返った。するとリナと呼ばれていた少女が意識を失っていた。名前の本質を掴まれていたのだ。意識を失って当然だった。そこに先ほどの男が歩み寄る。ガーランド、と呼ばれていたはずだ。
「リナ。しっかりなさい」
「この子をご存知なのですか?」
シュヴィリエールは驚く。ガーランドは頷いたが、話をする余裕は残されてなかった。
再び耳を聾せんばかりの絶叫が轟いた。それだけで身体中に打ち傷を作れそうなほどの強力な衝撃だ。傷口に圧迫感を覚え、心臓の鼓動が速くなる。見上げると、アントワイヤーズの一撃をしのいだ竜が、ようやく時間を取り戻したかのように活動を再開していたのだ。
(だが、攻撃が終わってから結構経っていたはず……レアンドルが抑えていたのか?)
しかしシュヴィリエールが状況を推察するより早く、ガーランドが怒鳴った。逼迫した声だった。
「早くしたまえ! 馬を起こさないと、竜から逃げることもままならないぞ!」