九.激突
猛々しく唸る風の中を、シュヴィリエールはニース、エレヴァン、フェール辺境伯らとともに馬で駆けていた。紋章入りの板金鎧で全身を包んでいるものの、寒さが防げるわけではない。身を切るような風が、ごうと音を立てて体温を奪って行く。〈風の平原〉の名は伊達ではないと痛感する。
傍らのニースが怒鳴るように話しかけた。
「さる筋の情報によると、聖殿騎士団を率いているのはレアンドルよ。あの〈灰髪〉のね」
「レアンドル? クナート家か!」
かつて大学都市セレス・アーカムで戦闘実技、教養七科目ともに優秀と称えられた秀才の少年を、シュヴィリエールはよく憶えている。繊細で巧妙な身体能力と常に冷めたような黒いひとみが印象的だった。そして学内の女性たちに酷く人気があったことも、だ。
シュヴィリエールはしばしば学院内で麗人として不可思議なほどの人気を得てきた。それと並び立つ相手としてレアンドルの名が挙がっていたのであるが、彼には許嫁がいたはずだった。
「まさか、聖殿騎士団になっていたとはな」
「婚約者がグンター・メイヤーの孫娘で、しかも南方古王国出身の名門エドワーズの娘よ。たぶんその絡みね。血と絆はどこまでも人の世に蔓延るものだわ」
「まるできいた風な口を利くな、ニース!」
そう言って馬をさらに駆けさせる。タケダカソウの草原を切り裂き、細い獣道を進む。
シュヴィリエールは道すがら、さらにもうひとつのことを思い出していた。
(そのレアンドルが、〈結界〉を使う決断をしただと? まさか、神弓アントワイヤーズを竜に撃ち込む気か)
クナート家の守護する〈神話所持物〉は、矢を必要としない弓だ。持ち主が己の全身全霊を込めて引くと、霊力を結晶させた光の矢が番えられ、あらゆる板金鎧を貫く強烈な一撃を放つとされている。そこに〈結界〉で集約させた星霊を上乗せすれば、竜の巨体を撃ち抜く破壊力が期待できるだろう。
(だが、教導会はそのためにこの東部辺境の一部を見捨てるのか? メイヤー大司教には、それほどまでに何か性急にことを片付けたい理由でもあるのか?)
森羅万象を聖なる理に沿って循環させる力こそが星霊の本質だ。〈結界〉は決められた範囲で、その星霊を力として抽出できる数少ない技術のひとつだった。
しかし、〈結界〉の使用は指定された領域の衰弱を意味する。なぜなら星霊とは自然法則を成り立たせる根源的な霊力そのものだからだ。〈結界〉そのものが必ずしも大地の死には直結しないが、シュヴィリエール達の脳裏には、あのエル・シエラの事件が過ぎってならない。
(〈竜〉を撃ち殺す威力を出すなら、東部辺境の土地は向こう十数年は里麦はおろか、低湿地帯の沼イモの収穫すら望めなくなるだろう。エル・シエラほどの災厄でなくとも、いままで竜に汚染されてきた地域だ。その大地の回復力まで奪っては、何のための教導なのか分からんぞ!)
フェール辺境伯が血相を変えるのも当然のことだった。領国守護者のように領国そのものを任されたわけではないが、聖女王国の公領主として任地に責任がある立場なのだ。その関心は土地のあらゆる治世だけでなく、星霊の異変についても同様だった。〈白紙の誓約〉を請け負うと誓ったその時から、公領主は人ではない別の次元に生きるのである。
やがてシュヴィリエールは、視界の先にメリッサの廃墟を見た。そこにはすでに聖殿騎士団の紋章──〈黄金鳥〉の旗印が西日の中にはためいていた。さらに距離を縮めると、武装した聖殿騎士たちが迎撃の姿勢を取り始めているのがわかった。
隣を見る。フェール辺境伯と目が合った。彼は不敵な笑みを浮かべて頷くと、指揮権をシュヴィリエールに明け渡した。
「全員、臨戦態勢を取れッ!」
言いながら、彼女自身腰に佩いた長剣を抜き払う。できれば使わないまま竜討伐に専念したかったが、事態が有無を言わさないのであれば仕方がなかった。メリッサの村の地図と、三日前に廃墟を観察した記憶を頼りに、戦術を捻り出す。
「エレヴァンは右翼、ニースは左翼に回って〈矢の陣〉を形成しろ。防護の陣を一点突破したあとに散開し、奴らを目いっぱい掻き乱せ!」
左右のふたりから同時に応答を受ける。それからさらに馬を駆り立てると、その陣の名の通り、矢のように細長い陣形に移行した。水が流れるような素早い対応に、シュヴィリエールはフェール辺境伯と契約した騎士団の腕の良さを感じ取る。
そのまま一気に駆け込んだ。対する聖殿騎士たちは、槍衾の形成を急いでいたが、それが完成するより前に、彼女の突撃が切り込んだ。雨漏りの天井を踏み抜くように、陣形が崩れ始める。
人垣が破れた。堰切って、騎馬が乱入する。すかさず散開の号令を発すると、社交界の令嬢が着こなすドレスの裾のように陣が末広がりになった。
シュヴィリエールは、目の両端でエレヴァンとニースが聖殿騎士たちを蹴散らすのを認めて、さらに進む。途端に彼女は、〈結界〉を形成するために必要な強烈な薫香を嗅ぎ取った。騎馬で突入したから気付かなかったが、すでに境界をまたぎ、〈結界〉に侵入したのだろう。
(どこかに結界石となるべき礎があるはずだ。星霊を汲み取る巨大な装置が……まさか、祈りの祭壇を使っているのか!)
シュヴィリエールはとっさに判断して、記憶堂の残骸に見当を付けた。そしてフェール辺境伯ほか十数名を率いて、堆くそびえる瓦礫の山を右折する。
そこで見つけたのは、導師数名の詠唱に囲まれて立つレアンドル・クナートの姿だった。足元には七芒星の円陣が描き込まれ、中央の祭壇に向けて青白い光を集約させている。間違いない、とシュヴィリエールは思った。彼らは酸の雨で痛んだ祭壇を修復し、結界石として再利用したのだ。
馬を止める。そして降りた。いくら戦時といえども、導師の位階にあるものをむやみに斬るわけにはいかない。ゆえに降りざるを得なかった。
すると、円陣の中にいたレアンドルもこちらに気づいて振り向いた。切れ長の黒いひとみが、興味深そうに細くなった。
「……来たか」とひと言だけ呟く。
「久しぶりだな、レアンドル。再会の場が戦場で、敵味方に分かれて相対するとは、なんとも情けないことだな。ゴドウィン師も嘆いておられようぞ」
シュヴィリエールは朗々と響き渡る声で言った。戦時でも止まぬ詠唱の中で、きちんと相手に言葉を伝えるためだった。
「再会? ああ、昔話か。そんな昔のことを話してどうする」
「われらは何のために戦い方と知識を学んだのだ? ともに業魔の蔓延を防ぎ、星霊のもたらす自然の理法に導くためではなかったのか」
「そうだ。だからいま支度をしている。むしろ問わねばならないのはこちらのほうだ。なぜ止める?」
「われわれが真に守るべきは人類とその営みだッ! いくら魔物を滅ぼしたとしても、星霊の宿らぬ土地では目的を果たしたとは言えぬ!」
シュヴィリエールは全身の毛を逆立てて怒鳴った。その罵声は波動となって、つかの間詠唱の声を戸惑わせたが、レアンドルの目配せによって再開された。
レアンドルは冷静に応答する。
「理想を語るなら、ほどほどに頼む。おれたちは自ら持ちうる手段で最高の結果を目指しているのだ。それをとやかく物申される筋合いは、ない」
シュヴィリエールは歯ぎしりをした。それから二、三度瞬きをして考える。この男をどこまで信頼するべきか、と。
しかし迷っている場合ではなかった。彼女は思い切って踏み込んだ。
「われわれはすでに調査を進め、竜の弱点を発見している。策と知見が必要なのだ。それさえ叶えば、〈結界〉よりも被害が少なく、安全に竜を討つことができるのだ。
だから、頼む。いまある手段を中断して、力を貸して欲しい」
背後でフェール辺境伯が息を呑む音を聞いた。ここで手のうちを明かすのは明らかに悪手だ、と暗黙の批判がシュヴィリエールの背中を刺している。
レアンドルはそれを面白そうに眺めていた。彼は自分の考えを縒り合わせるように右手で髪の毛先をいじろうとする。だが、すかさず合いの手のごとき声が割り込んだ。
「ふふ、ダメよ。英雄家とあろうものが、そうやすやすと頭を下げるものじゃないわ」
声のほうを振り向くと、茶色い髪の乙女が妖艶なまでの笑みを浮かべて座っている。グリンダ・エドワーズ、とシュヴィリエールはその女の名前を呟いた。
「それに、竜の弱点を見つけたっていうのね。嘘は良くないわよ。まだそれは正しい答えとは限らない。〈希望は諦めてはならないが、憶測で判断することも同様にならないのだ〉、聖ヨハラムの箴言をあなたはなんと心得ているのかしらね」
そう言って、グリンダは細剣を抜き払う。向かい合った青のひとみには、これ以上の話をさせないという冷徹な意志が宿っていた。彼女は歩きながら、レアンドルに話しかけた。
「妄言は聞き捨てなさい。あなたはあなたの使命を果たすの。いい?」
「わかっている。おれに命令をするな」
レアンドルは即座に応答すると、ついにその左手に神弓アントワイヤーズを携えた。
「待てッ、レアンドル! 話はまだ終わっ……」
「話しているのはこのわたしよ!」
シュヴィリエールの言葉を、グリンダは剣で遮った。すかさず長剣で応対するも、グリンダの刃は鞭のようにしなり、ひゅんひゅんと唸りながらシュヴィリエールの懐に飛び込んで来る。
背後でフェール辺境伯の声がしたが、たちまちにして剣戟の音が周囲に襲いかかってきた。囲まれたのだ、と理解したときには、シュヴィリエールはグリンダとの一対一の勝負にもつれ込んでいたのだった。
グリンダの剣さばきには、明らかな殺意があった。シュヴィリエールは戸惑いながら、容赦なく飛び込む刃を巻き取り、剣と柄を逆さまにして間合いを詰める。
ちょうど顔と顔が向き合う形になる。
「くそッ、なぜだ? なぜここまで貴様らは竜を滅ぼすことに躍起になっている?」
「そこまでわかっているなら尚更だわ。あなたたちは真実に近づきすぎたのよ」
グリンダがどう猛な笑みを浮かべた次の瞬間、シュヴィリエールの姿勢が崩された。膝の裏を蹴られたのだと気づいたのはその直後だった。絡み合ったふた振りの剣が飛んで行く。あとに残ったのは、仰向けに倒れた自分自身と、短剣を片手に持ったグリンダだ。
(まずい、このままではやられる!)
とっさに両手で顔を保護する。しかしその動きで完全に防御したとは言えない。グリンダはさらに右脚で蹴りつけ、首のあたりを踏みつける。そのままかかとを食い込ませると、左手で鎧の首元を掴み、右手で短剣を突きつけた。もうダメだ、とシュヴィリエールは直感する。
そのときだった。どこからともなく小石が飛んできて、グリンダの右手首に直撃した。彼女はとっさのことで短剣を取り落としたが、彼女自身、何が起こっているのかを理解できていなかった。驚愕に顔を歪める。その隙を突いてシュヴィリエールはグリンダの身体を突き飛ばしたのだった。
体勢を立て直したシュヴィリエールが見たのは、記憶堂の残骸から現れたひとりの少女だった。癖のある短い金髪と、深い青色の宝石を連想させる力強いまなざしで、こちらを見ている。それが怒りの感情を表現したものだとわかるには、もうしばらく必要だった。
(子供? しかし、このメリッサに生存者がいたなんて話は聞いてないぞ!)
シュヴィリエールはおろか、グリンダですら困惑していた。少女は、左手で自らの後頭部を抑えつつ、ヨロヨロと歩いていた。そして戦いの最中にある人びとの注目を一気に集めると、レアンドルを囲む導師たちに向かって、怒鳴った。
「おい、ルゥは、ルゥはどこに行った!」