序.まどろみの中に消ゆ
その風は〈竜の息吹〉と呼ばれていた。
母なるセラトの山から吹き下ろすその風は、秋も深まる頃だというのに、生温かく鼻をくすぐるのだという。
しかし、その風が吹いた日は用心せよ。
魔性の目覚めが近づいているからだ。
それがアデリナのいる村に伝わる古い言い伝えだったが、じっさいにこの風に出くわしたとき、彼女は盛大なくしゃみをするだけで、大して気にも留めていなかった。
(なんだ……このごろよく冷えるのかなあ)
広いタケダカソウの原っぱの中だった。
黄金色に染まった細長い葉が、風に揺られてさざ波を立てている。
アデリナは先ほどまで、冬越し支度のあまりの退屈さに、薪拾いと言って昼寝をしていたのだった。
そのためか、日に焼けた肌や、癖のついた金色の短い髪には枯れ草がこびりつき、ふだんは精力あふれる青いひとみも、焦点が合っていない。おまけにぼんやりした視界の中で、傾きつつある日差しを見つめて、さらにくしゃみをする始末だった。
寝ぼけまなこをこすりながら、周囲を見回すと、草むらの向こうに、小道を走る藍色の衣を見つけた。
「おおい、ルゥ」
彼女は双子の弟を愛称で呼ぶと、タケダカソウを掻き分けはじめる。
ルゥと呼ばれた長い黒髪の少年は、アデリナの声を聞いて立ち止まった。そして、むしろ少女と言っていいくらいの愛らしい顔をむっつりと膨らませて、アデリナのもとへ向かった。血はつながっていても、髪の色といい、性格といい、彼とアデリナとはまったくと言っていいほど対照的だった。
「どうせそんなことだろうと思っていたよ」
「はは、ごめんごめん」
頭を掻きながら、アデリナは力なく笑う。
ルゥは──ほんとうはルートという名前だったが、そんなアデリナの髪にくっついた枯れ草を、丁寧に取り払ってくれた。
細くて色白な指先が、アデリナのくすんだ金髪に触れる。農作業や山狩りを知らない手だ。アデリナはそんなルートの手を見ていて、なんだか気恥ずかしくなった。ぷいとそっぽを向こうとする。
「ダメだよ、リナ」
優しく諭す口ぶりに、アデリナはどきりとする。途端に、祈りの時間に焚かれる薫香の柔らかい匂いに包まれて、彼女は頰を赤らめた。
それをいいことに、まるで赤ん坊でもあやすかのような手つきで、ルートは彼女の見た目をきれいにしてしまった。
「行こう。さっき交易旅団が来たって村じゅうお祭りさわぎなんだ」
アデリナはゆっくりうなずいた。
その様子を見たルートは、少しけげんな顔をした。いつもならもっとはしゃぐのに。けれども、それも寝ぼけているせいだろう、とひとりで合点した。
それもそのはず、アデリナは、まだ心ここにあらずと言った風で、あたりをじっと見回していた。まるで現実と寸分違わぬ夢を見ているかのようだった。
「ほら、いつまで寝てるの。早くしないと置いてくからね」
そう言って注意を惹くと、ルートは傾き始めた日に向かって走り出した。光の中に吸い込まれるその背中を見つめて、アデリナはようやく我に返った。行かなきゃ、という思いが無意識に身を駆り立てる。
ところが、いざ戻ろうか、となった時、アデリナは、自分の頬から流れ落ちる透明な液体に気がついた。あれ、という間も無く滴るそれは、涙だった。
(どうして──)
少女の心の問いは、風の中に消えた。
†
ふたりが住んでいるのは、聖女王国の東の辺境、地図の上ではメリッサと呼ばれている村であった。
おおよそ人が立ち入らないとされる雲海山脈のふもとを最初に拓いたのは、もう百年前のことだ。かつて人類の罪を浄めたという聖女アストラフィーネの教えを広めんと、教導会の修道僧たちが土地を開墾したのが村の始まりだったと言われている。
その証拠に、村の中央には教導会の記憶堂がたたずんでいる。各集落における人界の象徴として造立されるこの石の建物は、人びとの祈りの場であると同時に、折々に触れて集まる生活の場でもあった。
とくにこの時期は里麦の収穫が終わり、その取れ高を見積もりに商人たちが集まる。
「見て、ほら、すぐそこ!」
二重に張られた柵を回り込むと、ふたりは旅商人たちの一団に出くわした。木製で簡素な造りの門をくぐったところで、小さな市を開いているのだ。
長い毛を垂らしたガルロフの荷運び馬の周囲には、ルガの毛織物から、アンサグの蹄鉄、グラーフの葡萄酒に至るまでのさまざまな品が、所狭しと広げられていた。
その中で、村人たちは今年の穀物の代金と引き換えに、ああでもない、こうでもない、と怒鳴るような声でやり取りをしている。
加えて、交易旅団に同行した旅芸人の一座が、子供たちを喜ばせようと演し物を始めており、めいいっぱいの人だかりとなっていた。こんなに騒がしいのは、たしかにルートの言った通り、再誕のお祭りのときぐらいだろう。アデリナはそんなことを思った。
と、そのとき人混みからひとりの男が抜け出した。禿頭で、左胸を守る革製の胸当てをまとったその男は、村を外敵から守護する騎士のひとりであった。
その片わきには毛織りの外套を抱えている。先ほど買ったばかりのようだった。
「ジンガルさん」
と、ルートが男の名を呼ぶ。
呼ばれた男は無精ひげを生やした顔をにやりと歪ませ、ふたりのもとに近づいた。
「おお、良いところに戻ってきたな。いまならリナのサボりもおとがめなし、だ」
この茶目っ気たっぷりの口調に、ルートは噴き出した。アデリナはこれが面白くない。
「ちぇっ、なにさ。いいじゃんかよ、少しぐらいは。だいたいなんだよ。あんただって仕事が終わった途端に、もそもそ買い物だなんてしやがって。昔から英雄譚に名を轟かせてきた騎士の名折れじゃんか」
そうぶっきらぼうに言い張ると、なおのことルートの笑いを誘った。アデリナはますますへそを曲げた。
ジンガルは苦笑すると、
「仕方ないだろう。というか、おれたちの仕事がないほうが平和で幸せだって言うじゃないか。
現に、この辺りの魔物の出没も年々減りつつある。辺境伯の統治の仕方が良いんだからな。英雄の出番なんてねえよ。必要なのは真面目でお調子ものの兵隊だけさ」
「けっ、いいよ。言ってな。そうのらくらしてるうちに、アタシが騎士になって、その鼻明かしてやるからな」
「おお怖っ。血気盛んな若いのはちがうね」
ジンガルは大げさに肩をすくめると、ふと神妙な顔になった。
「まあ、それはいいとして。ちょうどリナを探していたところでな」
「え、なんでさ?」
ジンガルはすぐには答えず、あごでくいっと記憶堂のほうを指した。
「導師さまがお探し、だそうだ。また何か悪さでもしたんじゃないのか?」
「えっ、いやべつに」
そう言いつつ、アデリナにはなんとなく思うところがあった。農作業をずるで休んだこと、お祈りの時間に寝坊したこと、そのくせそこらの少年たちよりもわんぱくで、あちらこちらに繰り出しては、生々しい傷を全身に付けて帰ってくること……
比べると、同じ十一の年でもルートのほうがずっとおとなしい。もともとからだが強くないこともあるのだが、それよりも、頭が良かった。物ごとの本質を見抜き、もの覚えが早い、と導師さまに才覚を認められ、その手伝いをしながら、日々勉学に励んでいるのだ。
「ああ、お前たちは同じ父と母を持つ双子であるというのに、どうしてこうもちがうのだろうな」
と、導師さまに嘆かれたこともある。
いずれルートは、導師さまから大学都市セレス・アーカムへと推薦を受けるだろう。そしてやがては教導会で〈司祭〉や〈導師〉の位階を授かり、村の出では想像もつかない立身出世を遂げるのだろう。
それは生まれた時から一緒にいるふたりが、遠からぬうちに離ればなれの人生を送ることを意味していた。
(なら、アタシはどうする?)
アデリナは自問する。
(アタシは書物を読み解き、学問を修められるほど頭良くないし、農作業なんて退屈で嫌だし、ルゥほど美人じゃないし……)
騎士になる、という夢が出てきたのは、破れかぶれにならないための口実でしかなかった。どこからともなく現れ、人を襲う魔物を退治する日常の英雄──誰かの役に立てるそんな役割を、いつか自分が担えたら……きっとルートと並んでも恥ずかしくない存在になれるはずだったのだ。
しかし、そんな夢を持ったところで、ほんとうになりたいわけでもない。結果として生活は相変わらずで、どう生きたらいいかもろくにわからないまま、ただ嫌で面倒な日常だけが目白押ししたのだった。
「まあ、行けばわかるさ。そんなにしょげるんじゃねえって。べつに怒ってたわけじゃないんだから──なあ、ルゥ?」
ジンガルは、あわててそう付け足した。
唐突に話を振られたルートは、きょとんとしたが、すぐにこくりとうなずいた。
「大丈夫だよ、リナ。行こう」
けれども、アデリナには、そう落ち着きを持って話せるルートが羨ましくてならなかった。
ふたりがそのまま記憶堂に向かうと、両開きになった扉から、導師さまが出てくるのを見つけた。あごひげを伸ばし、太い眉を持ったその老人は、いかにも村の秩序を守り、人々を教え導くに足る存在に見えた。
彼がふたりを見つけると、目を見開いた。
「おお、ふたりとも。無事でよかった」
まるで心の底から安心したかのようなその口ぶりに、ふたりは顔を見合わせた。
先にルートが口を開く。
「導師さま、いったいどうしたの?」
「いや、なに。お前たちに対して変な客人が先ほどやってきていてな。『ラストフはどこだ、この村にいるのは知っているぞ』と厳しく問い詰めおったのだよ」
「ラストフ? 誰それ」とアデリナ。
「わしも知らんよ。それで、正直にそう言ってやった。すると、その男、いろいろ喋った挙げ句に『また来る』とだけ言ってどこかへ行ってしまったのだ」
ここで、ルートは線の細い眉を、片方だけ上げた。出たな、とアデリナは思う。不思議なことがあると、いつも彼はこうなるのだ。
「導師さま、それとボクたちにどんな関係があるんですか?」
「それについてだが、わしにもよくわかっておらん。なぜなら……」
と導師はひと呼吸置いてから、ためらいがちに、こう言った。
「そいつが言うに、ラストフとはお前たちの父親の名前らしいからな」