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七 宿替え

 翌日、仁平はいつも通りのことをしていた。寝床にいなかったことをお咲に訊ねられたが、普請費用の勘定を思いついたので蔵で寝たと答えると、風邪をひきますよと心配しただけだった。そして昼すぎのことだ、例の二人娘が困ったように駆け込んできた。

 娘たちの話によると、昨夜遅くに賊が押し入り店の金を洗いざらい盗まれたのだそうだ。そして手に酷い怪我を負わされた主人と、書付が残されていたのだという。主人の怪我は酷いの一語につきるのだそうで、いっそ手首から先を切り落とされたほうがいいそうだ。そして書付には、すべての者に対し、金の貸し借りはなかったことにし、証文はすべて焼いたと認められていたそうだ。店にいた全員が取り調べを受けたのだが、この二人にはしつこく尋ねることはなかったらしい。そして、どこを探しても証文の類はなかったのだから、どこへでも行けといって放り出されたのだそうだ。しかも、役人はもとより店の者も誰一人それを咎めなかったそうだ。金を奪われ、どさくさにまぎれて昨夜の揚げ代を踏み倒され、娘たちのことなど眼中になかったのだろう。ましてや一文も稼がぬ無駄飯食いの二人だ、厄介払いくらいに思ったのかもしれない。しかし、放り出された二人は行き先に困った。親元へ帰ろうにも路銀がまったくないのだ。それに姫路という町に知り合いもいない。二人が知っているのは施療院と、そこまでの道案内だけだった。

 仁平はまず食事を摂らせ、どうしたいか訊ねた。さぞや国へ帰りたかろうと思ったのだが、顔を曇らせて答えるのをためらう素振りをみせる二人。どうしたことかと訊ねると、帰ればそれだけ暮らしに窮すると答えた。せっかく自由の身になったというのに親元へ帰ることもできないと聞いて仁平は難しい顔になり、暫くの間首筋を掻いた。

 お前たちの面倒をみるくらいはなんでもないが、風変わりな仕事をしてもらわねばならんと、子種屋のことを語ってきかせた。案の定、二人の顔が強張った。無理はなかろうと同情するかとおもえば、仁平は平然としている。そして実際にさせてみせた。娘たちの仕事は、見たのと同じことをするのと、泊まり客の世話をするくらいだと聞き、子種屋の使用人となることを納得した。

 日田から予定外の若者が来て、その嫁さがしをどうしようと悩んだ仁平だが、よく見れば二人の娘は整った顔立ちをしている。行儀作法を教え込めば良い嫁になるだろうと仁平は思った。


 客がいる遊郭が襲われたという噂は瞬く間に姫路の町全体に広まった。目付けが走り、捕り方が走る。辻という辻に御用聞きが張り付くというものものしさが何日も続いた。奪われた金は千両を越え、貸し倒れになったものも二百できかないと噂が飛び交う。奪われた額が多いほうが町の者にとって愉快なのだ。施療院でも子種屋でもその噂話でもちきりだ。しかし仁平は相槌を打ちこそすれ、身をのりだして話に加わろうとはしない。まったくの世捨て人のようにふるまっていた。

 そんなことより、仁平にはすべきことが山積していた。四月の終わりまでには確実に家移りできるよう念押しに出向くだけでも二日を棒にふる。花嫁修業であずかった娘の嫁ぎ先もさがしてやらねばならないし、更には祝言の段取りもつけてやらねばならない。それらは二日や三日で片がつくことではないのだ。そうしながら剛直先生と明け渡しの話を詰める。体がいくつあっても足りない忙しさだ。が、仁平は黙々と務めを果たしていった。


 さしあたり必要のないものの荷造りが終わり、準備がすべて整ったのは二十日すぎのことだった。たしかに準備は整ったが約束の日限までには間がある。慌てて出向いたものの寝ることができないでは困るし、荷を運ぶ船がまだ帰っていない。そこで急なことではあるが、亥蔵とおうめ、留十とおつやの祝言をあげることにした。なにも切羽詰って行うこともないが、退屈しのぎになるし、心機一転ともなるはずだ。そしてその夜、皆が寝静まるのを待って最後に残った金貸し、弓張り伝兵衛を襲った。本当の黒幕退治は家移りした後で十分だから。


 いよいよ去るという日、すっかり温くなった姫路の町は朝から雨に濡れていた。

「雨が降ったあくる日は必ず風が吹きます。この時期の風は良い追い(おいて)になります」

 これでは船を出すことができないのではないかと確かめに行った仁平に、船頭はそう言って予定通りに船を出すと明言した。


 大物は既に運び出してあったとはいえ、皆が使っていた膳や夜着なども意外に嵩張るものだ。私物を収めた行李だって数がまとまればけっこうな嵩になる。そうして荷車が何度か往復し、残る荷は蔵の中味だけになった。


 重いものばかりだから手送りするように言って、仁平は長持を引きずり出した。中味はなんだと不平の声が響くのを聞かぬふりして、もう一つの長持をだした。その中に、これから渡すものを収めてくれと言って、旅人が振分けにして持ち歩く行李を渡した。

 何が入っているのか知らないが、ずしっとした重さだ。それを十以上出すと、次は厚みのある文箱だった。赤と黒の塗り箱と素木の箱がそれぞれ一つづつ。それもずっしりしている。そして最後に布袋をいくつも出した。動かすたびにチャッと微かな音がする。おそらくそれはビタ銭の詰まった袋だろうと察せられる。が、仁平はもう何も残っていないと言った。二町分もの土地を買い、そこに新しく家を建てるのだから、さぞや大金があると思うのが人情だ。一目でいいから千両箱なるものを拝んでみたいというのが皆の気持ちだった。

「旦那様、まことに生臭いことで恐縮ですが、金を運び出さねばならないのでは?」

 そう訊ねたのは留十だった。祝言をあげたばかりのおつやが慌てて袖を引いたのだが、もう言ったあとだった。

「金ならたった今運び出したところですから、もう蔵の中は空っぽですよ」

「今の? 今の荷がそうなのですか? そうですか、あの箱が」

「箱には二分金、一分金、一朱金を分けて入れておきました」

「じゃあ、小判は?」

「皆で手送りしてくれたでしょう、行李を」

「行李ですか。ばかにたくさんありましたけど」

「行李一つに四百両詰めてあります。全部で五千と少し」

「ご、ごせん? ごせ……ご、ごせんりょう」

 留十の声が裏返った。が、少しすると妙に人懐っこい顔になった。

「旦那様の悪戯には泣かされましたけどね、こういう冗談はいけません。天罰が下りますよ」

「では留さん、確かめてみるかね?」

 ふと荷車を見ると誰も見張りをしている者がいない。留十は真っ青になって駆け出した。


 一つの行李を取り出した荷は蓋を開けると、中には紙にくるまれたものがびっしりと収まっている。別の行李を開けると、山吹色の小判で埋め尽くされていた。

「どうしたね、静かになって。声が出なくなったのかね」

 仁平が別の荷を解くと、まったく同じように小判があらわれた。

 留十は、口をワナワナさせるだけで声を失っている。他の者もすべて固まってしまった。


「見損なわないでください」

 皆がシーンとしている中で、いつもは口数の少ない咲が怒り出した。

「私はお金のために旦那様のそばにいるのではありません。いつも皆のことを気遣ってくれる旦那様だからついてゆくのに、なんですか、こんな下品なことをして」

 これは迂闊なことをした。新しい屋敷を建てたことで有頂天になっていたのかもしれない。せっかくの門出だというのに咲を怒らせてしまった。金のことで皆に心配させまいと思っただけなのに、かえって裏目に出てしまった。しかも常にない怒り方だ。どうすれば機嫌を直すだろうかと仁平は酷く狼狽した。

「御寮さん、怒った顔ってゾクッとするくらいきれい」

 悪気などないことくらい解ってはいるが、園の一言が緊張の糸を緩めた。

 そんなこんながあり、一同は重吉の店へ移動して船出を待ったのだった。


 梅雨頃の宵闇を指して五月闇というそうな。五月晴れに対して五月闇。先人は実に味わい深い言葉を残したものだと仁平は思う。今日は五月になったばかりなので入梅にはまだ早すぎる。しかし、夕方まで降ったり止んだりを繰り返していた雲が空を覆ったままなのだろう、空に星がなくどんよりした闇が広がっている。

 さかんに打ち振られていた提灯の灯りが見えなくなると、船頭の指示で余計な灯りが消された。

 このまま川の流れにのってゆけば良いものだと仁平は考えていた。ところが、流れに乗るのと流されるのは大違いだと船頭は言った。なるほど船頭が指示を出さないと船は勝手に向きを変える。横向きのまま、酷いときには前後ろが逆さまになって流されてゆく。そうならないように船頭はしきりと声を張り上げていた。

 阿呆橋をくぐるとすぐに中洲が黒々とした姿を現す。水路は狭くなり、しかも急に曲がっている。今にも岸を削りそうでひと時も気が抜けない。乗っている者の心配などどこ吹く風と、船は勝手気儘に流されていった。

 ずいぶん川幅が広がってから船頭は帆柱を立てさせた。


 船頭が落ち着いて話し相手になってくれたのは、大きな波を受けるようになってからだった。

 生憎星が見えないから、岸寄りを行きましょうと言って仁平の隣に腰掛けた。

 船は浮かべたらまっすぐ進むと考えるのは素人。舵を利かせれば良いと考えるのも素人。流されているときには舵なんぞ糞の役にも立たないと船頭は言った。こうして風を受けているから流れよりも早く進む。そうしてようやく舵が効くのだそうだ。池に盆を浮かべてみなさい、どっち向いて行くかわかったものじゃありませんからと言われ、仁平はなるほどと思った。反対に流れに逆らうとき、船は思うように動くものだとも船頭は言った。

 四方を見渡しても闇ばかり。どうして行く先を見極めるのか訊ねたら、船頭は黙って彼方を指差した。真っ暗な中にひときわ黒く見えるものがある。なにかと訊ねたら、あれが陸だという返事があった。山で生まれ育った仁平には、山の姿などどうでも良いことだと思っている。しかし海で生きる者は、こんな暗闇でも山の姿を捉えるもののようだ。しかも、姿を見分けることで己がどこにいるのかを把握できるようだ。それはまた素晴しい能力だと感心した。


 空が白み始めたとき、船はすでに船着場を目視できるところにいた。前に乗ったときと比べるとずいぶん早く着いたようだ。

 船酔いのために眠ることもできなかった者ばかりだが、荷を陸揚げする頃にはいつも通りに治っている。自分もきっとああだったのだろう、二度目ということで少しは余裕のできた仁平は、その様が可笑しくてならなかった。

 水夫への心づけを懐紙に包んだ仁平は、船頭に小判を握らせた。心づけにいしてはあまりに多すぎると船頭は拒んだが、頼みたいことがあるからと言って無理やり握らせた。仁平が頼んだというのは、大阪へ行ったときに飛脚をたのむということだ。そんなことはお易い御用だと船頭が答え、仁平は更に頼みを言った。まだ野とも山とも知れないが、大阪から患者をはこびたい。その船便を考えてくれないかということだった。そして、どうやって連絡するかを訊ねると、幟を揚げてくれということだった。口数は少ないが妙に気の合う男だ。

 そして船は僚船を待つこともなくさっさと行ってしまった。

 あまりに早く着いてしまったのでずいぶん待たされたが、十台もの荷車を連ねての一行に旅人も道をゆずってくれた。なるほど全員が旅装ではある。しかし埃にまみれたものを着ている者は一人もいないというまことに奇妙な一行と思われたのだろう。先頭を行く荷車を取り囲むのは柄袋をしていない武士たち。それも二人や三人でなく、六人もの武士ががっちり固めている。旅の垢が感じられないことや異常な警備の仕方に薄気味悪さを感じたのが本音だろう。


 船着場からおよそ半里、街道が海側にゆるく曲がった。と、正面に小高い土手が行く手をふさぐ。じつはそこでまた街道が曲がっているのだが、土手の向かい側に真新しい二階家が見えてきた。これが新しい屋敷だろうかと様子を窺うと、先頭を行く仁平がはるか先を指差した。

 二階家から始まった植え込みの先に真新しい家が何軒も建っている。皆の足取りが軽くなったのは言うまでない。

 街道から二間ほどひかえたところに掘割りがある。それをまたぐように橋がかけてあり、丸太が二本立っている。そこが入り口であった。

 なだらかな傾斜地を削って建てられているからか、海側から階段状に上がっていて、建屋同士の間隔は十分にとられていて、海側に濡れ縁がある。日当たりも風通しも良さそうな平屋が並んでいた。

 新しい屋敷に浮かれる皆に荷を降ろさせ、残りの荷と見張りを連れに荷車は船着場へ戻って行った。

 どの建屋を何に使うかは絵図面で皆に伝えたはずだが、荷を片付けるよりも屋敷内を見て回りたいのが先立つようで、誰も仁平の言うことなどに耳を貸さない。無理もないことだと仁平は苦笑いするしかなかった。



 そうして山田村での暮らしが始まり、ジトジトした梅雨がすぎ、カッと照り返す夏がすぎた。草叢のススキが徐々に茶色くなって白い穂を揺らすようになった。目の前から潮騒が静かに聞こえ、背後では竹の葉摺れが川の流れのような音をたてる。そんな暮らしに馴れてきた頃のことだった。

 夕餉をすませて夕涼みを始めた仁平に富永が嬉しい報せを伝えた。富永が日田から呼び寄せた若者はすべて同僚であった足軽の息子で、当然のことに藩士というだけで無役だ。そこで富永は仁平と相談して直属の上司である子安方奉行に意見具申というか、嘆願をしていた。折も折、仁平の宿替えに際し、その敷地内に子安方の定宿を提供するということで自分も移ったわけだが、警護役先手ということで役目を与えてやってもらえないかという内容だった。そのような重大事を奉行の一存で決することなどできず、家老に願い出てくれたそうだ。そうしたところ、子安方が着実に成果をあげ、藩の名声と財政に貢献していることを買われて、めでたく裁可が下ったのだそうだ。身分こそ端役ではあるが、正式な役目として認められたらしい。それとは別にそれぞれの親から、相手の身分にこだわらず良縁があれば独り立ちさせてほしいとの文も届いているそうだ。ずっと足軽として最下層に甘んじてきた富永だけに、役目に就くか否かの違いが痛いほどわかるのだろう。まるで我が事のような喜びようだった。

「そうですか、それはめでたい。富永さんの顔もたち、呼び寄せてよかったですなあ」

 仁平がしみじみと言うと、富永はしきりと目をこすった。

「ついては、あの者らに所帯をもたせとうござる。幸いなことにここは相手に困らぬ。しかも躾が行き届いた娘ばかりだ。気が早いと申されるやもしれぬが、骨を折ってもらえまいか」

「それはありがたいお言葉ですが、手前どもはすべて町娘でございますよ。それでようございますか」

「なんの、どれも気立ての良い娘ばかり。異存などござらん。越前屋仁平といえば名の知れた商人、その見立てであれば親も感激するでござろう」

 と、仁平と富永との間で嫁取り話に発展した。であれば、女の意見をきかねばいけないと、女どもも集められた。声をひそめて事情を説明すると、皆の顔がパッと明るくなった。

 誰と誰の組み合わせが良いか。その主導権を握ったのは勝だった。咲にせよ園にせよ、男を値踏みできないうちに仁平に一本釣りされてしまったのだから人がいい。それは絢女もまったく同じだ。富永の妻女、富伎(ふき)も大同小異。その点、勝は旅籠で磨いたしたたかさがある。性格やら癖から人物評定をすることに優れていた。

 そうして若い者が知らないところで、来る日も繰る日も相談が続いていた。

 今夜はこれくらいにしよう。そう言って仁平は寝る前の見回りに出た。どこか夏の名残りのような生温い風が吹いていた。

 街道への入り口に架けた橋が跳ね上げてある。闇を透かして見るかぎり街道を行く者は一人もいなかった。

 建ち並ぶ棟々もきちんと戸締りがしてあり、不審者が立ち入った気配もなかった。入り口脇の長屋と子種屋にぽつんと灯りが点っていたが、ほどなくしてそれも消えた。だだっ広い敷地だが草は生えている。そこからコロコロとコオロギの音が響いてくる。敷地の境には柚子の木が植えられていた。まだ越してきて半年にもならないのだから木と木の間が隙間だらけだ。もちろんのことに実をつけた木なご一本もない。そして内側からはわからないが、外には深い掘割りが施されている。こちら側から浸入することも困難なはずだ。

「なんと、うまおいが鳴きだしましたね。静かにしてやりましょう」

 ゆっくり歩みながら仁平が囁いた。

「はい」

 と言って絢女も立ち止まった。

「あれはくつわ虫でございましょう。うまおいの音など聞こえませんが」

 今夜の見回りに付き合っているのは絢女だ。見回りがすんだら部屋へ仁平を引き込み共に朝を迎えることができる。ようやく順番が回ってきたのだ。四日に一度の情交だが、その夜は仁平を独占できるありがたみがあった。

「そうですか? 園も勝も聞き分けましたよ」

 仁平はそう囁くと、耳に意識を集中してみなさいとも言った。

 生温い風が耳朶を撫でてゆくから、それらしい音を聞き分けられないとも考えられる。しかし絢女はさっぱりわからない様子だ。

 コロコロコロコロ……。やはりコオロギの音しか聞こえない。たまにガチャガチャとクツワムシの音が混じるが、聞こえるのは風の音とコオロギだけのようだ。

『……つや……だいす……だよ』

『と、とめ……、ちょっとまっ……。だ……だめ……ったら』

『すき……つや。だいすき……』

 途切れ途切れではあるが、仁平にははっきりと聞こえる。なおも静かにしていると、急に絢女が先へ進もうとした。

「どうしたのだね、急に」

 強引に引っ張ろうとする絢女に仁平が囁くと、はしたないという答が返ってきた。

「どうしてかね。なにも聞き耳をたてているわけでもないし、わざわざ盗み聞きしに来たのでもないではないか。これだけ広いのに聞こえてくることを考えなさいよ。あっちが遠慮なしの声を張り上げているのではないか」

 仁平がそう言うと、それは違うと絢女が答えた。わざと聞きにきたのではないとはいえ、もしかすると聞こえると知っていながら通りかかる者が悪いと言った。

「だけど聞いたでしょう? 好いちょる、すいちょる、スイッチョン。うまおいではないですか」

 そして、そっちでもうまおいが鳴いている。それを聞きに行くつもりかと訊ねた。

「そうなのですか? ならば行きませぬ」

 今ので気が動転しているのか、その先には亥蔵の長屋があることをすっかり忘れているようだ。

「お園もね、最初はびっくりしました。でも、すぐにこうして」

「な、何をなさいます」

「いえ、お園はこうしたと教えているだけです。お勝もやっぱり同じようにしましたよ。二人とも、こうすると安心するのだそうです」

「いやっ、はしたない……」

「ほんとうに、される私が困ってしまいます」

「…………」

「さて、そろそろ見回りを続けましょうか」

 絢女が黙りこくった。そしてそれが返事の代わりなのだろうか、触れているだけだった指が熱をもち、躊躇うように握った。

「そんなことをお武家がするものではありません。それこそ端下なくはないですか」

 仁平がそう言うと、抗議するかのように力が加わった。

 落ちた、仁平は確信した。

「スズムシはどこにいるのでしょうね」

 着物の仕立て方に男女の違いはほとんどない。外見上で一番目立つ違いは袖だけだ。男物は袖の後ろが閉じてあり、そこに小物を入れることができる。一方の女物は開いたままだ。また、袖に隠れて見えない脇の部分にも違いがある。男物はぴっちり閉じられているのだが、女物はそこが開いている。咲も園もそのような使い方をすることはなかったが、ごく稀に花見などでそこを使っている場面を目撃したことがある。

 花見を楽しんでいたら赤子がひどく泣いているのに出会ったことがあった。下が濡れて気持ち悪いのだろうか、それとも腹がへったのか。男である仁平にはその程度しか考えつかなかった。そのとき、母親は赤子の頭を自分の脇に寄せた。何をするのだろうと見ていると、胸元に手を差し入れてなにやらしていた。赤子が急に泣きやむと手を抜いて、すずしい顔で花見を続けた。

 そういえば勝もそういう使い方はしなかった。赤子に乳を飲ませるときには羽織で上手く隠し、襟をくつろげて乳房を出したものだ。もっとも、三人ともほとんど外出しないのだから、屋敷の中では当たり前に乳房を与えてはいたが。

 身八つ口は男のためにあるのだと思い込んでいた仁平は、そこではたと気付いたのだった、こういう使い方のために開いているのだと。


 絢音は後ろからすっぽりと仁平に抱えられている格好になっていた。提灯を提げた左手を少し後ろに引いた仁平は、幾度となく愛用させてもらっているそこに手を挿し入れた。張りのある肉が指先に触れる。木綿特有のサラサラした感触が爪をくすぐった。

「斯様な場所でなにをなさいます。おやめください」

 うまおいの睦言を聞きながら想像していたのではないだろうか、絢女は握ったり緩めたりを繰り返しながらゆるゆると別の動きも加えていた。意識がそっちに集中していたのだろう。そして闖入者に気付いたのだ。ふしだらですと言いながらもがいた。

 女とはずるい生き物だと仁平は思う。自ら欲望を追求しようとせず、必ず被害者の立場に身を措こうとする。今でもそうだ。抗うのなら腕を振って邪魔をすればいい。体を捻って逃げればいい。しかしそうはしない。もがくことで劣情を煽っているのだろうか。はっきりいえるのは、そうすることでより深くに手が入ってしまうということだ。口と体が正反対なのが女の正体なのだ。

 丸みの頂点をすぎてもそこには鈴がなかった。それが癖になったのか、いつも小さな鈴をつけているのに、今は異様に凝っているだけだ。なおも鈴をさぐるふりをすると、提灯を提げる手が小刻みにふるえた。

 いつの間にか絢女は仁平の肩に顔をうずめている。破廉恥なと呟きながらピクッと身をすくませて息を詰めた。やがて悔しそうな呻きに混じってチリーンと微かな鈴の音が聞こえた。

「聞こえましたか? スズムシが鳴きましたよ。風が強くなってきたから、そろそろ戻りましょうか。そこならスズムシもよく鳴いてくれるでしょう」

 仁平が囁くと絢女の手が一瞬止まり、期待を籠めるようにじんわりとまた握った。

 いつもは仁平の横に並ぼうとしない絢女。仁平の前に出ようともしない絢女が先に立って歩き始めた。まるで子供の手を引くように仁平を握ったまま。そして仁平はおとなしく引かれてゆく。

 少し悪戯している間に風が強くなってきた。すっかり馴れて感じなくなっているはずなのに、むせるように潮の香が濃くなっている。


 秋の中頃は、まだ夜着にくるまるほどには寒くはない。少し障子を開けるくらいがちょうどいい。

 見回りから戻った仁平は絢女のスズムシを存分に鳴かせ、素肌で寝ていた。隣で絢女も同じように寝息をたてている。

 いつになく障子がガタガタするのに気付いた仁平は、そこではじめて風が酷くなっていることを知った。しかも雨が滝のように降っていた。

 とりあえず身支度を整えて障子を開けてみると、まさしく嵐だ。嵐が始まろうとしている。

 急いで絢女をおこして身支度をさせ、皆を起こすよう言いつけると、自分は子種屋へ急いだ。あそこは一番海側にあるので風当たりが強い。早く雨戸をたてねばと気が急いた。


 街道を挟んだ反対側にある土手が風を防いでくれているようだが、姫路で経験した嵐とは桁違いの風だ。浜の砂が巻き上げられ、雨かとおもえば顔にうちかかる飛沫が塩辛い。こんな雨戸で持ち堪えるか、そんなことを考えるゆとりもなかった。

 留十も亥蔵も睦事が激しかったのか、眠りこけていた。仁平が戸口をドンドン叩いてようやく目覚める始末だ。

 子種屋の娘を母屋に避難させろと言い置いて仁平は賄いの長屋へ駆けた。

 雨戸を立ててすぐに母屋へ避難するよう言いつけ、その足で客館へ駆けた。住む者のいない棟は無防備だ。といっても仁平にできることは雨戸を立てるくらいしかない。

 富永たちはどうしているだろう。越前屋は大丈夫だろうか。不安が次々に湧き上がったが、外へ出ることもできぬほど雨風が激しくなっていた。

 奇声をあげながら大きな獣がのしかかってくる。そんな錯覚さえしたくなる。雨戸が内側にたわみ、押えていても外されそうだ。

 勝手場の中を風が好き放題に駆け回った。蜀台の火が右へ左へ激しく向きを変える。二十人ほどの者が怯えた目で仁平を見つめていた。

「お勝さん、手伝ってください。おせんちゃん、あんたも」

 何を思ったか咲が勝手へ降りた。そして火を熾そうとしている。わけがわからないまま勝も勝手へ降りた。

「おせんちゃん、怖いのだったら手伝いなさい。手を動かしていたら少しは忘れるから」

 珍しく咲が大声を張り上げている。叱られたせんが勝手へ降りると、味噌汁をたくさんつくるのだと咲が言った。そして勝には米をとぐよう言いつけた。

 さすがに咲だ。女主人としての立場をわきまえている。


 今は何の刻だろう。丑だろうか、寅だろうか。寅だとすればもう少しの辛抱で夜が明けるはずだ。急に外が静かになってしばらくたつが、嵐は去ったのだろうか。それにしても味噌汁は冷えた体にしみわたった。

 様子を窺っていると、こんどは反対から風が吹いてきた。さきほどのような激しさはないが強い西風だ。しかし西側は褄になっているので風当たりはさほどでもない。棟自体が持ち上がるような威力はなくなっていた。その風が徐々に南風に変わる頃には、もう外を出歩けるようになった。

 咲を誉めてやらにゃいかんな。誉めてほめて、存分に啼かせてやろう。女共を指図して握り飯を作っている咲を振り返り、仁平は満足そうな笑みをうかべた。そしてほの白くなった空を見上げ、富永たちや越前屋の様子を確かめるために外へとび出したのだった。


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