六 妓楼 老松
元旦最初の仕事は若水を汲むことから始まる。新しい火を切って雑煮を作り、飯を炊く。それが商家の主の務めなのだが、越前屋はそれだけではない。朝から湯殿を使えるようにもせねばならない。そうするとうっかり寝るわけにはいかない。桶富から戻った仁平は、寝ることをあきらめて奪った小判を数えていた。
とりあえず、先日の仕返しは済んだ。二度と立ち上がれないほど酷い仕返しだ。しかしそれは実際に襲撃した相手にすぎない。そんな下っ端だけ痛めつけても意味がない。もっと上をたぐって、元から抹殺してやらねば気がすまない。当然次は桶富に襲撃を指示した者を襲うつもりだ。それは女衒の長七郎のことだ。特に金を貯めているわけではなさそうだから、光を奪ってしまおうか。それとも音を奪ってしまおうか。咽をどうにかすれば声を奪うこともできようが、その知識がないことを残念に思う。腰の骨を外してやればどうなるだろうとも思う。そして裏で操っている者がいる。おそらく金貸しと妓労の亭主だろう。更にその裏には物産方与力の内藤がいる。朝になれば桶富のことが噂になるはずだ。すると長七郎が警戒する。
考えながら小判の山を並べていた。数えてみると三百六十枚を超える小判の山ができていた。
桶富の噂を聞いたのは、隣の八幡様へ初詣にでかけた時だった。顔見知りと出会うたびに桶富の噂話を聞かされたものだ。
「ところで越前屋さん、魚町の地回りが押し込みに襲われたそうですよ。有り金残らず奪われてしまったそうです。正月早々、物騒なことです。しかもあなた、その地回りが耳を切られましてね、髷も無残に切られたのだそうですよ。どうせ深酒でもして正体なくしていたのでしょう。地回りが押し込みに入られるとは、情けないことです」
声をひそめて言う者など一人もいなかったことから、阿漕な真似を繰り返していたことが窺えた。
年が改まって一ト月経った。富永の誘いに応え、日田から若者が来ると早飛脚が報せを届けてきた。藩が小さくなってお役に就けない者が増えているということで、希望者が多かったようだ。そして人選をしたのだが五人に絞るのが精一杯だという。人が多くなるのはかまわないと応じた仁平は、あることに気がついた。当初の予定は三人だった。それは、子種屋の誰かと娶わせる目的だったのだが、娘の数が足りないことに気がついたのだ。別に無理して嫁をもたせることはないことはわかっている。しかし、そうしたほうが暮らしに張りと潤いがある。一つうまくゆけば一つ障害がもちあがる。人の世とはまったく儘ならないものだと思った。
そんなことに余計な気をつかっている間にも、仁平は山田村へ出かけて工事の進捗状況を確かめたりした。
そして三月にはいると、仁平は子種屋の新規客を断ることにした。桜の散る頃には完成させると大工が言っていたので、客に迷惑をかけぬための配慮だった。
そして八幡様の梅が見事に咲き、それを愛でようとて人々が集まってくる。仁平もまた、姫路の梅はこれが最後と店の者総出で花見を楽しむことにした。ところが、集まってくるのは町人ばかりではない。肩で風を切る侍も大勢いた。仁平はともかく、娘たちの狙いは出店なのでそんな厄介な輩とは距離が開くものだが、一人の侍が彼を見つけて近寄ってきた。物産方与力の内藤だった。
「見事なものよのう。桜も良いが梅は格別だ。そうは思わぬか」
いやに馴れ馴れしい物言いだ。が、仁平は特に答えることもせず、会釈で返しただけだった。
「のう、越前屋。其の方の申したとおり、世の中には達者がおるものだ。其の方に素気無く断られた件だが、捨てる神あれば拾う神ありとはこのこと。芸達者が力になってくれたわ。節分がすぎて仕上がったということでな、その具合を確かめさせてもろうた。いや実に見事な仕上がりであった。お奉行と国家老様にも確かめてもろうたが、いたくお誉めのお言葉をいただいたぞ。いつご沙汰が下っても良いように、儂の屋敷に住まわせておる」
なにを言い出すかとおもえば、厭らしいあてつけだ。しかしあの二人の娘はまだ仁平の下へ通って虫下しの最中だ。出口に近いところの虫を追い出すだけしかしていないのだから、症状が回復してもすぐに吐くようになる。そんな状態で稽古など進むものではない。それなのに仕上がったと言い、家老までもが試したという。身代わり、おそらく身代わりとして誰かをたてたのだろう。そんなことができる者といえば手軽なところでは遊女だろうか。ただ、遊女を身代わりにたてたのではすぐにバレてしまうはずだ。
「それはようございました。あれはたしかゆかた祭りの日でございましたか、手前どもに空き巣が入りまして、つまらぬ物を奪われましたが……、それはともかく、ご安心でございましょう」
まるで興味がなさそうでいて、少し棘を含ませた言い方を仁平はしてみた。それで表情でも変えれば内藤の差し金ということだ。しかし内藤は、なにをくだらないとでも言いたげにしていた。そして尊大にかまえて言った。
「わかってはおろうが、酒は酒屋でなければ売ってはならぬこととなった。其の方も心得ておくがよいぞ」
「左様でございますか。酒は酒屋でというのはもっともなことでございますが、そうすると飯屋で酒を売ることもできぬということですな? なるほど、料理屋も酒を出せず、花街でも酒は御法度。いや、悪法ですな、方々から不満の声が上がりましょう」
「それはかまわぬ。儂が言わんとすることはもっと他のことだ。それ、其の方にも覚えがあろう」
「さて、……手前には合点がまいりませぬ。どのようなことでしょうか」
「其の方、子種屋の患者に酒を売っておるようだな。今年からはそれができなくなったということだ」
子種屋で酒といえばまむし酒のことだろう。しかし、内藤にはそんなことを話した記憶はなかった。そうか、長七郎に持ち帰らせたことで知ったというわけだ。なるほど物産方が酒の管理をするのは頷けるが、それにしても勝ち誇ったような態度はなんだと仁平は思った。
「あれならば酒というより薬でございます。薬効を引き出すために酒が必要というだけのこと。ですが、幸いなことに暮れ前に一滴残らず売れてしまいました。そういうことであれば別の売り方を考えましょう。それとも、作るのをやめさせてもかまいません」
「考えたとて、藩の意に沿わぬとなれば売ることは適わぬ。まっ、せいぜい励むことだ」
「肝に銘じます……、と、申し上げるべきでしょうが、そろそろ手前も楽をしたい。ここいらで店を閉めようかと考えておったところでございます。せっかくお教えいただいたのですが、生憎手前には関わりがないようでございます。左様ですか、薬酒は酒だ、薬ではないということでございますか。ならば、やはり作らせるのはやめに……。いやいや、あれは江戸や大阪にもない逸品でございます。他国へ売ることにいたしましょう。あれは手前が作らせておるもの、それも領外から運び入れておりますからな。となりますと、贔屓にしてくださるお客様から不満が出るやもしれません。その折には、これこれの理由で売ってはならぬとのお達しがあったと付け加えさせていただきます。……左様でございますか、藩のご重役は薬と酒との見分けもつかないのですか」
お気の毒という言葉を呑みこんで、仁平は話を打ち切った。内藤はまだ話し足りないような素振りをみせたが、娘たちが集まってくるのを幸いに、会釈を残してまだ買い物をしている者に気遣わしげな視線を投げたのだった。
それにしても、内藤が話していた女とは誰だろうか。仁平はそれが気になってならない。
「そんなに気になるのなら、ちょっと探ってみましょうか」
そう言ったのは留十だった。仁平の説明を聞いたところでは、男に手馴れた玄人女でなければ無理だと思ったのだが、長七郎が絡んでいるとなるとおヤスを代役に立てるくらいはしかねないと考えたのだ。当たって砕けろという言葉がある。自分の顔は徐々に知られているかもしれないが、日田からやってきた若者なら怪しまれることはないだろう。翁という料理屋へ繰り出してそれとなく噂を拾えば、糸口でも掴むことができるかもしれない。茶呑み話しにそう言ったのだった。
留十の奴、なかなか抜け目のない男だ。仁平は愉快であった。もしおヤスが内藤の手の内にあるとするならば、長七郎との縁は半ば切られたも同然だということに気がついた。そこで、留十の考えを取り入れることにした。
もしおヤスが店に出ていないということなら、船は動きだしたということだ。むしろ長七郎のような者は邪魔なだけだろう。なら、今日にでも始末してかまわないということではないか。いや、それだけではない。老松という妓楼もお荷物と感じているかもしれない。
桶富を襲ったのは大晦日の夜だった。それからまるっと二タ月がすぎ、市中の見回りも緩み始めていることだろう。と、そこまで考えたのだが、あの娘たちのことが気になった。妓楼の有り金を残らず奪うことはさして難しいことではない。亭主が握っているであろう貸付証文を奪うこともできよう。が、それが何になるといえばそれまでだ。女たちは借金が棒引きになったことを喜びはするだろう。しかしそれで自由になりたいと願うだろうか。今更国へは帰れまい。娘を売っておきながら遊女の過去を背負った女など、既に死んだものと割り切っているはずだ。帰ったところで行き場などあるまい。かといってこれからは食うことから自分で始末しなければならないのだ。馴染みの男がいて、所帯をもたぬにしても妾にでもなれれば、食と住が安心だが、はたしてうまくいくだろうか。女たちの心は穏やかではないはずだ。が、そんなことはどうでもいいと仁平は割り切っている。ただ、あの二人のことが気がかりだった。生国がどこかは知らない。しかし借金のかたに連れてこられたのなら小銭すら持っていないはずだ。どうやって国へ帰るのだろう。だからといって仁平が銭を握らせるのはおかしい。いや、自分が下手人でございと言っているようなものだ。当然のことだが妓楼から連れ出すこともできない。どうすれば事がまるくおさまるのか、そちらに考えが及んでいった。
日田の若者たちは、けっこう盛大に遊んだらしい。それでもいきなりおヤスのことを訊ねるわけにもいかず、およそのことを探るのに十日ばかりかかった。そうして持ち帰った噂を総合すると、内藤の屋敷に住まわされているのはおヤスであるということが判明した。
おヤスは長七郎の情婦だったはずだ。おヤスも花柳の病に侵されていると亥蔵が診立てていた。そんなことを内藤は知らないのだろうか。知っていたら奉行や家老に出来栄えを披露するはずはない。そう考えると、仁平は笑いがこみ上げるのを抑えられなかった。本多家が本当におヤスを使って子安方の真似を始めたら……。相手となった大名のみならず奥方にも花柳の病がうつってしまう。もしそれで懐妊したとなると、子は生まれながらに病持ち。しかも不治の病だ。大名同士の喧嘩ではすまずに戦となるかもしれない。それほど恐ろしいことをしているという自覚が内藤にはないのだろう。女を道具扱いした報いだと仁平は思った。
他人の頭の中を窺い知ることなど誰にもできぬことだ。仁平が着々と狙いを絞っているにもかかわらず、あの二人は相変わらず通ってくる。たしかに細身の女を好む男もいる。いはするが、青白い顔で頬がこけ、がりがりに痩せた女などを誰が酒の相手にするだろう。本来の目的に使えないとなった今、なんとかして男の相手をさせねば元がとれない。そういうことで通ってくるのだろう。娘たちのは気の毒だが、絢女の考えは二人を護っているようだ。その二人に、行くところに困ったらここへ来いと言ってやるのが精一杯だった。
どこか、料理屋にでも呼び出そうかと考えなかったわけではない。長七郎の始末の件だ。内藤の名前を使えば呼び出すことはわけもないことだろう。そして途中で待ち伏せをして人目につかない場所へ引きずってゆけば良い。しかしそれでは証文を奪うことはできない。いずれにせよ長七郎の住まいを家捜しせねばならない。そう考えると、呼び出すという方法は面白くない。では住まいにのりこむか。おそらく大声を上げるだろう。間仕切りの薄い長屋であれば、隣の話し声など筒抜けだ。が、長七郎に騒ぐ間を与えなかったとしたら、そのまま家捜しできる利点がある。ただし、それが自分の仕業だとわからないようにせねばならないが。
そんなことを考えた末に、仁平は桶富を襲ったときの姿で長七郎の長屋へのりこんだ。声を出させないために採った方法は咽を切るということだった。
両踵の筋を断ち切り、親指と人差し指を除く指をつぶした。長屋へ押し入るなり、何も言わずにそれだけのことをしたものだから、長七郎は呆気なく証文をしまった場所を教えた。つぶされた手を震わせながら喚いていた。喚くといっても声が出ないのだから無残な有様だった。
そして仁平はその足で妓楼へ向かった。
暗いところを選んで駆ける。長者と呼ばれた頃を思い出していた。
どこに隠してあったのか、仁平は丈夫な籠を背にしていた。桶富を襲ったときに括りつけた荷物が身動きを阻害したからだ。あのときは手のも荷物を持っていたから余計だが、こんどは妓楼だ。貯めこんだ金はかなりのものになるはずだ。
阿呆川の土手沿いに進むと色街が黒い塊となって浮かび上がっていた。老松という妓楼は遊郭の中でも一二を争う規模である。それだけに川へ大きく張り出すような造りになっている。川原に長い柱を立てて支えているものだから、いくら周囲に塀をめぐらしたところで容易に浸入できた。
塀に沿って進むと小さな潜り戸があった。勝手口なのか何なのかはわからないが、少なくともこの外は路地になっているはずだ。閂を外した仁平は、これで逃げ道は確保できたと思った。そこから十歩も行かないうちに便臭がただよってきた。とするとあの潜り戸は、肥を運び出すための通用口なのだろう。厠とはありがたいところに出くわしたものだ。表は厳重に鎧戸をおろして安心したつもりでも、手水口という盲点に気付かないあたり、素人の知恵は浅はかといえた。
妓楼老松の主、尚三は、亡八者を顎で使うだけあって少しは腹の据わった男のようだ。しかしいきなり咽を切られ、喚く間もなく手の甲を畳に縫い付けられ、念の入ったことに指の股を切り裂かれるなどしたからたまらない。観念し金のありかを教えた。が、そこにあったのは小判が二十枚ばかり。なるほど小銭は袋にぎっしり詰まっていたが、ただそれだけだった。
「其の方、愉快な奴よのう。よくよく痛いことが好きとみえる」
例の気味悪いゴロゴロした声で呟くなり、股を裂いた指をおもいきり掴み上げた。普通なら皮がつながっているので上げるといっても限度があるが、どんどん持ち上がる。血肉の中に白く骨をみせて指は手首にまで持ち上がった。
絶叫しているのか、尚三の口が大きく開いた。
「男であろうが、そのように騒ぐでないわ。其の方、斯様にして女の生き血をすすって生きてまいったのであろうが。される気分はどうだ? 格別であろう。どれ、もう一本引きちぎるか」
仁平が次の指を掴むと、尚三が自由になる手で払いのけようとし、すぐに仁平の腕を掴み直した。そして頭を畳にこすりつけて肩をふるわせた。何事かと訊ねても体をふるわせるばかりなので、仁平は焦れたように指を引っ張った。
尚三の背がピンと反り、激しく頭を振った。そして為すべきことに気付いたのか一方を指差した。
「為すべきことがわかったのか」
仁平の問いかけに尚三が激しく頷いた。その尚三が辛そうに案内したのは隣の部屋だ。調度品のまったくないこの部屋の突き当たり全体が大きな箪笥のようであった。
何も言われなくても尚三は次々に鍵を開けた。その一つ一つに手文庫が納まっている。それを開けさせると、きれいに切り餅が八つ収まっていた。
「中味を移せ」
仁平が命じたのは、厠を使おうとして仁平に脅された運の悪い男だ。いざ用足しをする段になっていきなり首筋に刃をつきつけられ、尚三の部屋への道案内をさせられた。ところが、いきなり凄惨な所業を見せ付けられて、逃げることもできずにいたのだった。
仁平はこの男のことを覚えている。門前で尻をひん剥いてやった男だ。が、それからは妙に素直になり、いつも娘たちを連れてくる。こんな生活を送ってはいるが、根は気の良い男だろうと仁平は思っていた。
竹籠の中に入れておいた行李には手文庫二つ分の切り餅が入る。二つの行李にぎっしり詰めても、まだ百両ほどの小判があった。
どうしても開けようとしない扉の中には文箱が一つ収まっていた。中味は、遊郭の差配役を命じる書付と、遊女の人数制限を黙認する内容の書付で、共に内藤の名で書かれたものだ。
書付を懐に収めて、仁平は苦しんでいる尚三の首に峰撃ちをくれた。
尚三をその場にうち捨てて元の部屋に戻った仁平は、手文庫の中にある貸付証文をすべて籠の中に入れた。そして最初に差し出した小判と、小銭が詰まった袋をその上に載せた。八貫目ほどはあろうかという目方のそれをひょいと担ぎ、駄賃だと言って行李に入りきらなかった小判を男に与えた。
「其の方、手向かいもできずにおったゆえ儂の手下と疑われるはずだ。その金を元手に商いをするも良し、遊んで暮らすも良し、気の向くようにするがよい。ただし、居所を知られたときは命がなくなると覚悟せよ」
男にとっては災難なことだろうが、客観的にみれば仁平の言ったことは的を射ている。しかも男は百両もの大金を掴んでしまった。どうしたらいいか葛藤がおきているはずだ。大声を出せば客や女どもが騒ぎ出すだろう。しかし同時にブスリとやられるかもしれない。賊が遁走してくれたらこの金を隠して気絶したふりをすればいいが、それはあまりに都合がよすぎる。では正直に金を差し出せば……。そんなことをしたところで疑いの目で見られ続けるだろう。そういう思いが渦巻いていると仁平は思った。
「どうするかは勝手にするが良いが、夜の明けぬうちに国境を越えるが肝要だ」
仁平の一言が引き金となったようで、男は懐の奥深くに小判をねじこんだ。
「行きがけの駄賃だ」
仁平は新しい紙にさらさらと何事かを書いた。それに尚三の手形を取ってきた。
そして男を裏口から立ち退かせると、持ってきた紙を廊下に置いた。
とっくに男の足音は消えている。仁平は、浸入したと同じところから闇に消えた。