四 計略
留十の発案は、早速実行されることになった。長七郎との約束まで残すところ四日。都合の良いことに子種屋の治療は連日続くことから、長七郎が接触を図る相手は限られてくるはずだ。治療を断られた長七郎を見張っていれば、尻尾を出すのではなかろうか。
そして娘たちは、まるで楽しんでいるかのように見事に失敗してみせた。口で受けそこなったり、途中まで追い上げたくせに焦せてみたりと、普段ではみせない失敗を演じた。そして慌てて謝ることの繰り返しである。仁平に叱られる心配はないのだから、まるで遊んでいるような気分だったろう。しおらしく謝る裏で、ペロッと舌を出していたはずだ。
そうして下準備がなされていると知ってか知らずか、長七郎がヤスを伴って現れた。しかし治療を受けるつもりの二人には冷たい言葉が待っていた。
「どういうことでしょうか? どうして駄目なのか、そのわけを教えてください」
実のところ、依頼を断るのは初めてのことだ。これまでの患者はみな真面目で、本当に子がほしい者ばかりだった。日々の暮らしも話をするうちに掴むことができるし、悪所通いでもめた様子は皆無だった。それだけに亥蔵はどういう断り方をしようかと何日も考えていた。
なるべく波風をたてないようにするのが良いと考え、用事をつくってヤスを勝に呼び出させ、その隙に断りを告げたのだった。
「それなんだが、厭な噂を耳にしたのだ。まさかご新造の前で言うのは憚るので、用事にかこつけて一人になってもらった」
そこで言葉を止めて長七郎の目をじっと見つめた。
「噂って、どういうことでしょう? 何か手前に落ち度でも?」
「うん。実はな、お前を色町で見たという者がおってな。そういうところへ出入りする者を治療することはできんのだ」
「誰が見たって? そんな嘘を誰が言ったのですか」
「誰とは言えん。が、老松へ入ってゆく姿を見られているのは確かだ。妓楼へ行くなと言うほど野暮ではないつもりだが、ああいう場所には悪い病がはびこっておる。だから治療はできんのだ」
「じょ、冗談じゃない。このとおりピンピンしているではないですか。どこも具合の悪いところなんかないのですよ」
「よくわかる、言いたいことはよくわかる。だがな、花柳の病は気付かぬ間に進行する。具合が悪くなったら手遅れという魔の病なのだ。もしかするとお前は、まだ気付かぬ状態なのかもしれん。病とはまったく関わりがないのかもしれん。それも事実だろう。しかし、病とは全く関わりないと断言できぬからには、治療は無理だ」
亥蔵がわけを説明しても、長七郎は明らかに不満げだ。そして順々と説明されるうちに顔色が変わってきた。
「だけど、そんな厄介な病なんてもらっちゃいませんって。それに、必ずうつるものでもないでしょう、違いますか。仮にそうなったら、医者がいるじゃないですか。いったい何のための医者なんですか」
「だけど、うちの娘に病もちの可能性がある者の相手をさせられるか? もしうつってしまったら、娘にどう謝れば良いのだ。娘の親にどう謝ればいいのだ。 娘が相手した患者さんに、どうお詫びすればいいのだ。二年半積み上げてきた信用が丸つぶれになったのでは困る。そうならないためには、治療をしないことが一番だ」
「おい、大人しく聞いてたらなんだい。俺は子が欲しいんだぞ」
「だから、それはご新造と二人でなんとかしてくれ。あの薬酒はよく効いただろう」
「じゃあ聞くが、医者はなんのためにいるんだ」
「俺は、現に生きている人を護るためにいる。悪いが、お前の子は影も形もないのでな」
日々の荒んだ暮らしは人の本性すら捻じ曲げてしまうようで、これ以上の話は無駄と悟った長七郎は、やにわに亥蔵の襟首を掴んで押し倒しにきた。
手荒なことをすると人を呼ぶと警告しても暴れるばかりだ。
「何をしておるか、ここは治療所だぞ」
急いで止めにはいった富永が長七郎の髷を掴んだ。
裾前がはだけた長七郎とヤスが悪態をつきながら門から出てきたことで、亥蔵が上手く断ったことがわかった。その後を見極めるのは留十の務めだった。
一組目の夫婦には相手もされず、二組目の夫婦にも断られ、三組目の夫婦が誘いにのった。それを細く明けた潜り戸の陰で留十が聞いていた。二組の男女が連れ立って外堀川を右へ折れた。そのまままっすぐ行けば錦町。宿屋が軒を並べる一角があって飯屋が何軒もある。
いったん止むかにみえた雨がまた降りだした。降っては止みを繰り返すうちに、そこここに水溜りができているようだ。ほんのり桜色になった留十は、足元を水浸しにしながらもヘラヘラしながら戻ってきた。
「見立て通り、まんまと食いつきましたと。あいつ、定吉さんを飯屋へひっぱりこんでいろいろ聞き出していました。定吉さんは人を疑うということを知らない人なんですね」
留十は勝ち誇ったようにその様子を話し始めた。
「酒が入るにつれて声が大きくなるものですからね、ほかの客が妙な顔で見るというのに、本人さんはおかまいなしですよ。身振り手振りをまじえて事細かに説明していましたよ。そしてね、最近急に腕が落ちたと思ったら、なんと娘が謝った。稽古しなおしますと言いました。そしてね、秘伝を教えてくれたと胸をはりました。で、ここだけ声をひそめて、本当は白菜が一番だけど、まだそんな時期じゃないから青菜を使いますとね。肥やしの掛かったやつが最高だと。そこまで聞けば用はないですから、そっと帰ってきました」
すべてが思惑通りにはこんだので留十は上機嫌だ。その先の動きがいつになるやら。いくら早くても師走になってからだということで相談は落ち着いた。
その二日後、船頭の予言は見事に的中した。
続いていた雨模様の空が、本降りとなり、急にピタッとやむ。そんなことを繰り返しながら、次第に風が強まってきた。なんとも生温い肌にまとわりつくような風だ。やがて喘息もちの咽のような音がしだしてようやく町の衆は嵐の到来に気付いたものだった。大慌てで店先を片付け、大戸を下ろすくらいしか手の打ちようがなかった。その間にも風が唸りを上げ、家々の板壁をひっぺがしてゆく。屋根板はめくれて雨漏りどころのさわぎではない。
半信半疑ながら予防を講じていた越前屋では、激しく風が吹き付ける音を聞きながら総出で握り飯をこさえていた。畳や夜具などの濡れて困るものは子種屋の二階へ運び上げておいたのだが、万一を考えて握り飯を用意しておこうと咲が言い出したからだ。いくら米や味噌を高いところへ上げたところで、薪や水がなければ意味がないというのがその理由だ。そこまでのことをしなくてもと仁平が言ったのだが、これが自分の務めであり男が口出しすることではないと、咲に一蹴された。立場が人をつくるとはよく言われるが、あの咲がこんなになったと仁平は嬉しそうだ。はいはいと素直に聞き入れて自分は雨漏りの点検ばかりをしていた。
さしもの嵐も陽があるうちに峠を越え、名残りおしげに轟々と風を吹きつけるだけになったのだが、通りに出てみると燦たるありさまだ。道がぐちゃぐちゃにぬかるんでいるのは当然だとしても、どこのものやらわからぬ板戸が一面に散らばっている。屋根とおぼしき板も同じように散らばっていた。壁や屋根がこんなありさまでは、障子はボロボロになっていることだろう。そこへゆくとさすがに御先手の組屋敷であった仁平の屋敷は、瓦がとばされたくらいの被害ですんだ。ただ、落とし穴はまるで井戸のよう、塀の内側は水堀になっている。それらはどうということはないのだが、井戸の濁りには困った。水の中にもやもやとした汚れが舞っていて、このままでは飲めない。してみると、咲が握り飯をたくさん作らせたのは慧眼といえた。
越前屋はそれくらいの被害ですんだが、普通の町衆はそうはいかない。板壁や屋根を吹き飛ばされた家が数多く、二抱えもある大木が根元から横倒しになったりもしている。姫路の町が元の賑やかさを取り戻すまでにしばらくかかりそうだった。
それから一ト月が経った。日差しこそ熱いもののひんやりした風が吹き渡るようになっていた。切り株だけになった田んぼの上を赤とんぼが舞い、そこいらの草叢から虫の音が聞こえてくる。季節はすっかり秋になっていた。
仁平が施療院を開ける仕度をしているところへ重吉がひょっこり顔をのぞかせた。
「お気に召すかどうかはともかく、それらしい土地が見つかったそうでございます。ただし、西宮はいけません」
それでは意味がないと仁平が言いかけるのをおさえて、重吉は西宮を不適当と考えた訳を説明し始めた。
「かの土地は水に困るそうでございますな。殊に東側は水争いが耐えぬようでございます。では西側はということになりますが、人の住める場所には既に先客がおりまして、空いた土地などございません。なるほどその西には手付かずの荒地が広がっておりますが、これがなんと、六甲からの山津波にたびたび襲われるそうでございます。大小の石がゴロゴロしているので田にできず、畑にもできません。ですから水路も整っていない有様。流されるところに家を建てる者もおらずで、一面の葦原が広がっているそうな。物乞いすら住んでいないということでございます」
そんな土地ならば危なくて家など建てられない。仁平はがっかりしたのを隠そうとはしなかった。
「それが判ったのだから真っ直ぐに帰れば良いものを、旦那様のためにと佐吉が気を利かせましてな」
思わせぶりに説明を始めたのは大蔵谷宿の少し先、明石郡は山田村のことだった。海岸近くまで台地が迫った場所があって、そこには豊富に水が湧いているのだという。もし使用人を雇うにしても、十分に宿から通うことができるほどしか離れていないとも言った。宿に大店がないのが幸い。もし大阪などに近いのなら、きっと粋人の旦那衆が寮を建てそうな場所だそうだ。それに、淡路を経て四国への玄関口が近い。そこから遠くないところに船着場があって、旅人はそこから船に乗るのだそうだ。人気の金比羅詣での多くは荒海を嫌い、そこを利用するのだそうだ。街道に面していることもあって、そちらを勧める。佐吉がそう言っていたと重吉は気のない言い方で伝えた。
よくよく大事な用がなければ店を空けたりしない重吉が説明に出向いたところをみると、強い感心を寄せていることが察せられる。彼が無関心をよそおうときは、決まって自分が買いたがっていることを仁平は知っている。金比羅宮へ詣でた旅人を呼び戻す目算があるのだろう。仁平が買わない土地であれば遠慮なく買える。それくらいは考えていそうだ。大蔵谷宿は事実上明石城下に組み込まれてしまっているが、宿を外れていれば煩わしいことはないのではないか。なにより、宿場から離れすぎていないことが好都合ではないかということだった。
土地は穏やかな傾斜地で、背後に迫った山はないのだという。街道をはさんで前面は海だそうで、山育ちの仁平には海辺の暮らしは新鮮に思えた。村の風紀を乱すような用途でなければ手放してもかまわないと名主が言ったそうだ。
おりしもその夜、大阪へ向かう船便があるということを耳打ちされた。夜半に出発すれば朝のうちに淡路への渡し場に着くのだとか。そう耳打ちされたら現地を見たくなるというものだ。留十の見込みが当たって一ト月。絢女のたくらみが着々と進行しているとしても、腹の虫はまだ宿主に気付かれずに育ち始めた頃だろう。哀れな娘が体調を崩すまでには十分な間があるはずだ。そう考えた仁平は、その船に便乗することに決めてしまった。
昼餉のときにその話をもちだして、何日か留守にすると仁平が言うと、当然のように絢女が同行を申し出て一騒ぎがもちあがった。
咲は女主人としての立場があるので我慢しているようだったが、大蔵谷は自分が生れた土地、まして漁師の娘だから自分こそ船旅にふさわしいと主張した。園は園でじとっとした目で見つめる。勝だって仁平と旅をしたことがないと言い張った。しかし咲には総監督という立場があり、園には子供たちの面倒をみる務めがある。また、子種屋の主人である勝は店を空けることなどできない立場。となると、比較的自由な立場にいる自分こそが供にふさわしいと絢女が正論をふりかざした。ならば、いっそのこと仁平が一人で行くべきだと三人が言い立て、女の諍いはしばらく続いていた。
古の奈良から九州まで一本の道が通じていたそうな。現在の西国街道は、古の山陽道を利用しているのかもしれない。程よく道幅が保たれ、傾斜が少なくてなにより直線区間が長い。それでも姫路から大蔵谷までの道のりは一日かかる。夜中に出発するとはいえ、朝のうちに大蔵谷へ着くというのは仁平にとっても好都合だった。
仁平にしても絢女にしても船に乗ったのは川越の短い間だけ。海原へ漕ぎ出すのは生れて初めてのことだ。穏やかでいられたのは市川を下る間のこと、播磨灘へ出てすぐに酷い船酔いにおそわれた。とはいえ、日が昇ってしばらくすると大きな船着場に着いた。海にも川のような流れがあるとか。海賊を先祖にもつという船頭の知恵で、他の船とは比べものにならぬほど奔るという。そんな自慢話を聞いているうちに着いてしまったというのが本当のところだ。四国へ渡る旅人に逆らうように二人を降ろした船は、なるほど見る間に遠ざかって行った。
あれほど酷かった吐き気は、茶店で一服するうちに嘘のように治まった。
教えられた名主の屋敷へ出向くと、すぐに現地を案内してくれた。
なだらかな傾斜地で、街道は切り通しを貫いている。その先は白砂の浜だった。
「この一帯ならどこでもお譲りしますが、浜風の強いことがありますでな、風除けの土手があったほうが後々のためでしょう」
名主はそう言って正面に土手のある一角を勧めた。
「ところで、ここで何をなさるおつもりですかな?」
風紀を乱すようなことはお断りとは伝えてあるが、どうにも心配な様子だ。
「手前は、ここを施療院にしようと考えております」
仁平はそう言って、姫路で行っていることを話してきかせ、湯治場のように泊り込める施療院にしたいと言った。そのために蘭方医を三人連れてくるとも言った。そして、薬屋を設けて道中薬を売るつもりだとも言った。
「そうですか、村にお医者様がきてくださるのですね」
名主はさも嬉しそうに言ったのだが、やがて表情を曇らせた。そもそも村にはわずかな人数しか暮らしていないうえに、医者にかかるほど裕福な者はいないというのだ。せっかく来てくれたはいいが、こんな田舎では金にならないといってすぐに立ち退くのではないか。しきりとそれを心配している。
「なにを勘違いしていなさる。街道を行き来する旅人だって達者な人ばかりではありませんよ。それに、そこの船着場にだって具合の悪い人がたんとおりましょう。幸いなことに、ここには船の便がありますのでな、まことに都合がいい。評判さえひろまれば大阪や堺からでも患者を呼び込めます」
仁平は気負うことなく応えた。それというのも、資力に余裕があるからこそだろう。名主の心配するように患者など一人も見込めないかもしれない。いくらもたたぬうちに夜逃げをしなければならない状況に追い込まれるかもしれないのは明らかな事実だ。が、仁平はその土地が気に入った。景色が気に入った。そこで飲み水のことを訊ねてみると、付近に湧き水があるという。敷地内にも水が湧いていて、使いきれないほどの量だという。川から引いた水ではないので、好きなように使ってかまわないということだ。
「名主さん、私はこの土地が気に入りました。ぜひとも譲っていただきたいのですが、いかほどになりましょうか」
いくら田舎のこととはいえ、二町分もある土地だからそれなりの値を要求されると思ったのだが、名主の提示した額は仁平の予想の一割にも満たなかった。それではいけないということで、言い値の倍を支払うかわりに傾斜地一帯も手に入れてしまった。そして大工の棟梁を紹介してほしいとたのむと、大蔵谷へ行かねば棟梁はいないということだった。
「そうですか、それなら都合がいい。今日は大蔵谷に宿をとろうと思っていたのです。お手数をかけますが名主さん、夕刻にでも宿へ来てはくださいませんか。なんという宿でしたか、ほれ、浜に面したところに離れのある宿です。……そうそう、たしか真砂屋という宿でした。何年か前にお世話になったことがありましてな、今夜もその離れが空いていたらお世話になろうかと」
子安方の娘を集める旅で利用した宿を思い出した。窓をすかして強い潮の香がただよっていた。開け放てば一望にできる海。そのとき仁平は、窓を開け放ったままで咲に甘い声を上げさせていた。明日は絢女と。ふと彼の日の思い出が蘇った。が、すぐに正気に戻って話を続けた。そこへ棟梁を連れてきてほしいと。
姫路に戻った仁平は、買った土地の見取り図を示しながら皆に報告をしていた。
「いや、良い土地だったのでね、その場で決めてきました。地所の中に街道が通っているなんて、ざらにはありませんよ。目の前には白い浜が続いて、そのむこうは海。淡路島が手に取るくらい近くにあるのです。こんなゴミゴミしたところよりずっと気が晴れますよ」
仁平はことのほか上機嫌で、近いうちに棟梁がやってくる手はずになっているとも語った。皆の考えを持ち寄って屋敷の造作を決めるのだとはしゃいでいる。考えてみれば、元の越前屋の店は、既に建っていたものを買ったもの。次々に買い足した周囲の店も、人が使い暮らしていたものだった。今の屋敷もそれは同じこと。自分の思うような家を作るのは初めてだから有頂天にもなろうものだ。そして、それぞれの立場から注文をつけるように言った。
棟梁が土工や左官と連れ立って屋敷にやってきたのは、それから四日ばかり後のことだった。
棟梁たちは姫路の越前屋を訪ねてきたので、薬種問屋のほうへ行ってしまった。立派な蔵のある大店だと感心したのは早とちりで、仁平の屋敷に案内されて眼を丸くした。どこからどう見てもそこは武家屋敷だったからだ。
冷や汗をかきながら新しい建物の要望を聞いてまたびっくり。診察、治療する棟、患者を寝起きさせる棟。流行り病の患者を隔離する棟と、医者の関係だけで棟が三つも必要だ。子作りの棟は小さなものだが、患者を逗留させるために大きな棟が必要だという。そして仁平の施療院には湯殿が必要だ。使用人のための長屋、賄い方の長屋、それに食べ物を保管する小屋も必要だ。仁平の寝起きする棟のほかに客のための棟も必要だという。いったい何人が暮すのか知らないが、旅籠でもやるのかと思えるほど広い勝手場、贅沢すぎるほど広い湯殿も要望された。しかも、建物はすべて瓦葺きにし、土壁を要求された。使用人の長屋もふくめ、全て土壁の瓦葺きだという。藩の重役ですらどうかというほど大きな屋敷だ。
仁平の屋敷を見て冷や汗をかいた棟梁は、次々に寄せられる要望に脂汗をかき始めた。用材や瓦の手配にどれだけの資金が必要か見当がつかなかい。もちろんそれを立て替えることなどできっこない。棟梁は、正直に資金繰りのことを打ち明けた。
しばらく座を外した仁平が、小さな包みを持ってきた。
「なるほど、店を十軒ほども建てるようなものですから、用材を買い入れるだけでも元手がいりましょう。でしたら、用材を買う足しに百両。まあまあ、黙ってお聞きなさい。それと、当面の人工賃として百両。これをお預けします」
帯封された小判の山が八つ、盆の上に載っていた。
「これは掛かり金です。仕事に掛かってもらうのに準備も必要でしょう。これを役立ててください。わざわざ姫路まで出てきてくれたご苦労賃はこれで」
懐紙の上に小判を十枚扇形に並べ、それとは別に一枚加えたものをそれぞれの膝元にすべらせた。
当の仁平は穏やかにふるまっているが、目の前に大金を積まれた棟梁たちはガタガタ震えだした。また、富永も呆気にとられている
そうこうするうちに子種屋が店を開ける刻限となった。お勝と亥蔵は退出した後、残った者で建物の配置を相談すると、仁平は盗賊よけの溝を掘れないかと注文をつけた。この屋敷と同じようなもので良いかと土工が訊ねると、溝に沿って棘の鋭い木を植えてほしいと仁平は言った。
この屋の住人は貧しい生い立ちだから、豪華な造作など必要はない。質素でかまわないが、暑さ寒さを感じさせない家にしてほしいと求めた。そして、遅くとも桜が散る頃には屋移りできるようにしてほしいと言った。
莫大な着手金を与えられ、半年で完成と期限をきられたのでは気が急くのだろう。もう一日泊まっていけという誘いを振り切るように、棟梁たちは翌朝には帰っていった。
一方で、子種屋には新しい患者が現れては断られるということが続いていた。どの患者も申し出た長屋には住んでおらず、女はどれも茶屋の女だった。そして患者の顔ぶれが変わるたびに言葉遣いが下衆っぽくなっていた。
そんなことが繰り返されるうちに、こんどは施療院に二人の娘が運び込まれてきた。あまりに粗末ななりをして髪は結われておらず、叩かれた跡なのか頬に痣ができている。娘たちは青ざめて、しきりと食べたものを戻そうとしていた。運び込んだのは茶屋の名が入った半纏を着た男たちで、もう何日も糞詰まりで苦しんでいるのだと言った。
「こんなに戻すというのは、悪阻ではないですかな」
仁平がとぼけて訊ねてみると、そんなことは絶対にないと頭立つ男が断言した。さまざまな薬を飲ませてみたのだがどれもすぐに吐き出してしまい、何軒もの医者もお手上げ状態なのだそうだ。伝手を頼って腕の良い医者をさがすうちに仁平の評判を聞きつけたのだとも言った。
粗末な身なりで、しかも顔に痣。付き添いというよりは監視役の風体。おそらく借金のカタで無理やり親元から引き離された娘たちだろう。が、一方で、男の相手をさせるのが目的なら身なりを整えるはずだし、顔に痣など残すだろうかと疑問に思う。もしかすると、この二人が絢女の策の被害者かもしれないと仁平は直感した。
「とにかく容態を診ましょう。手に負えない病であれば、お断りするしかないですからな」
施療院に運ばせたはいいが、男たちが出て行こうとはしない。
「これから患者の診察を始めますのでな、関係のない者は外で待っていてください」
仁平が言ったが、男たちは一向に出てゆくつもりはないらしく、うちの大事な娘たちだから関係者だと言い張った。そこで、これから恥ずかしいところを調べねばならないのだからと、重ねて出て行くよう促したのだが、何をするのかしっかり見ておく必要があると、頑として従おうとしなかった。
「それでは治療ができないではないですか。おかしなことをするわけがないでしょうが」
と、強く言っても、
「なぁに、恥ずかしいったって、すぐに忘れらぁ。なっ」
かえって面白がっているから困ったものだ。娘たちは、何を言っても聞き入れてもらえないことを悟っているのか、シクシク泣き出した。
「そうですか。これだけお願いしても意味がわからないのですね」
声を荒げるでもなく、顔をしかめるでもなく、仁平は普段と同じ穏やかなものだ。しかし、その口から出た言葉は男をおおいに慌てさせた。
「富永さん、恥ずかしいという気持ちをこの男にも味わってもらいましょう」
まるで世間話でもするように言うと、仁平はするすると男の前に進み、利き腕を掴んだ。
「あっ、何しやがる」
男がそれを振り払おうとしたが、掴まれた場所が悪かった。相手が非力であっても二の腕を掴まれたら振りほどくのは困難なのに、腕力の強い仁平が相手ではどうにもならないはずだ。手下どもが気色ばんだのだが、富永にかかっては赤子のようなものだった。
仁平は門のところで男の足を払って座らせた。そして細紐で男の手首を括った。
「やめろ、畜生が。ただじゃすまさないぞ」
身の自由を奪われているというのに男は暴れようとし、口汚い悪態をついた。
「ここまできたら観念するものです。往生際が悪いですよ」
悪態などどこ吹く風。仁平は膝の裏側で手首を交差するように縛ってしまった。次いで男を前に倒した。
「そこからでも見えるでしょう、往来を多くの人が行き来しています。この場でな、娘たちにすることをお前にもしてやりましょう。そうしたら見られることの恥ずかしさを思い知るはずです」
それでも男は虚勢を張った。が、仁平が着物を捲り上げると悲鳴に変わった。
「これから下帯を解いて、往来の衆が見ている前で太いのをひり出してあげます。今日は八幡様がにぎわっていますから、きっと見物が大勢おしかけるでしょう。今日から町を歩けなくなる。でも安心なさい。そんなことはすぐに忘れるのでしょう?」
仁平の手が無造作に下帯を解きにかかった。腹巻の部分を緩めて肝心のところをグッと引く。すると意外なほどそこが引きずり出された。
男が激しく足をばたつかせた。背を丸めてなるべく見えないようにしようとした。しかし、暴れたことで勝手に逸物がポロンとこぼれ出てしまった。
「この野郎、覚えておけ。きっと仕返ししてやるからな」
そんな悪態も、逸物が晒け出されたことでぴたりと止み、悔しそうな唸り声だけになった。
「お前も亡八と呼ばれて粋がっているのでしょう? 所かまわず用足しをして、逸物を見られるくらいなんということはないはずでしょう。だが、皆の衆に見られながら糞をひり出すとなるとどうかな? どんな頑固な便秘であってもすっきり出してさしあげるのが私の務め。いくら拒んだところで無駄ですよ」
恐ろしいことを口にした仁平が緩んだ下帯を横へずらしたとたん、男が絶叫をあげた。あんなに悪態をついていたというのに涙を流して泣きだした。
「おや、亡八者でも恥ずかしいという気持ちがあるのですか? なら、娘たちの気持ちがわかるでしょう。わかりますよね」
仁平が念を押すと、男ははげしく首をふった。
娘たちの便には大きな虫が混じっていた。それを見て、絢女の策が見事に功を奏したことを知った仁平だが、虫を出しきらないよう、いい加減の頃合で治療をやめた。
腹に虫がわいて、そのせいで吐くのだと説明しながら、何を食べたのかと訊ねたのだが、およそ虫の湧きそうもないものばかり食べている。そこで、おかしなものを口にしなかったかと訊ねてみた。すると、木でこさえた棒を咥えるのが日課だと答えた。しかも、必ず野菜の葉を擦りつけてからそうするのだとも言った。どんな棒なのかと訊ねると、逸物を模ったものだと俯いて言った。そこで仁平は、実際に誰かのものを咥えたことがあるかと訊ねると、二人とも首を横にふった。さらに仁平が、男たちの相手をさせられたことがあるかと訊ねると、それにも娘たちは首を横にふった。とすると、娘たちは花柳の病に犯された危険はないということだ。だったら、どうにか日常のことができる程度に回復させて継続的に来させるようにすれば、もしかすると娘たちを護ってやれるかもしれない。腹の虫に苦しむことだろうが、それが最良の方法ではないかと仁平は思った。
「腹の中の虫がいっぱい湧いております。できるだけ取るようにしたのですが、尻の穴は小さいですからな、とてものことに取りきれません。日をおけば下がってくるでしょうから、五日ほどしたらまた連れてきてください。さすがの私でさえゾゾッとするくらいいましたからね、見なくてよかったですよ」
そう言って仁平は、毒にも薬にもならない胃薬を与えて帰らせたのだった。
治療を終えたときの娘たちは、頬にも赤味が戻って元気になったように見える。しかし五日もすると青白くなり、吐くことを繰り返した。
一旦は直ったようになるのだし、他の医者で見離された末に仁平を頼ったということもあり、具合が悪くなると連れてくる。治療を覗かないかぎり仁平は穏やかだから、男は徐々に気をゆるすような素振りもみせた。一方で、娘にも変化がおきていた。継続的に自力での排泄をしなくなると、体は楽をおぼえる。また、一気に排泄する爽快感が、快感として意識の奥に蓄えられる。その相乗効果で、いっそう便秘になってしまうというものだ。娘はそれに気付かぬまま、便通を忘れて暮らすようになっている。