三 小細工
盗賊の戒めに、夏の仕事は諦めろとあるとか。日が長く、短い夜は寝苦しいことから、忍び込みには不向きとされているのだろう。その戒めに従ったのか、盆がきても平穏な日常が過ぎていた。
煩いほどだった蝉の大合唱が下火になると、こんどは草葉の陰が賑やかになる。季節はすすんで、秋の彼岸がせまっていた。
子種屋にすがる夫婦者は目立たないように入れ替わっている。めでたく懐妊した夫婦は去り、二タ月続けても兆候の現れない夫婦も去る。それと入れ替わりに、新顔の夫婦者が通うようになり、どう見ても旦那と妾という組み合わせも混じる。なんとかして子を授かりたい一心なのだ。だからかもしれないが、門をくぐるときに人目を気にする。また、いくら金を積んでみても子など授かるものではなく、どうしても下手にでるのが普通だ。ところが、そういう一般的な夫婦者とは違う男女が治療を受けに来た。
越前屋の門をくぐると、すぐ左側に総二階の長屋が建っている。竹垣に沿っていけばまず子種屋の入り口があり、施療院は通路の更に奥だ。ところが子種屋が店を開ける前に施療院は店じまいしているのだから、通路の奥へは入れないように枝折り戸が設けてあった。つまり、客というか、患者は、迷うことなく入り口へ導かれるわけだ。これまでに多くの人がそこを通ったのだが、よそ見などせず早く店の中へ入ろうとした。人に見られたくない一心なのだろう。ところがこの二人、屋敷の様子が気になるようで、首をのばしてまでして見ようとした。門の脇に建つ長屋が気になるようだったが、富永夫婦も留十も夜が更けてから長屋へ戻るようにしているので、当然のことに人の気配はない。次に通路の先をじっと見つめ、二階を仰ぎ見たかとおもうと、垣根のむこうの生垣に目を凝らす。その先には仁平が暮す母屋が建っているのが見えるはずだ。けっこう広い中庭をとっているのは、患者の話し声が届かぬための配慮だ。とはいえ、二人がなにを考えていたかは誰にもわからない。そして二人の見つめる先、通りの突き当たりを武家娘が横切るのが見えた。まるで寺のような回廊となっている。そんな贅沢な造りになっていることがわかっただろう。
男は長七郎と名乗った。女は女房で、ヤスという名だそうだ。新しい患者は毎日のように現れるが、この二人はなんだか怪しい。旅籠の仲居で磨いた勘は、およそ大きく外れることはない。それが勝の自信である。妙に脂ぎった顔は酒によるものだろうか。どんな仕事をしているのかわからないが、いやに色白に感じられる。女のほうも、素人にみせかけてはいるものの、襟の抜きかたが大きすぎるし、襟足に白粉の跡があった。
勝は言葉巧みに住居やら仕事を聞き出していた。身元がはっきりした者に限って施術の赦しを得ていると方便を交えて聞き出した。もちろん相手の言うことを信用してなどいないが、愛想よくそれを書き留める。そして、誰から子種屋のことを聞いたのかと訊ねてみると、急に相手の口が淀んだ。
「たしか、木挽町の誰だったか、おかげで授かったとご新造がたいそう喜んでおりまして」
「木挽町ですか? こびき、こびき……。おやまあ、木挽町からはどなたも来ておられませんが、ちょっと待ってくださいよ、近くをさがしてみますから」
勝は患者の名簿をぱらぱらめくって首をかしげてみせた。そしてその近くをさがすふりをした。
「撞木町の間違いではありませんか、撞木町のおもんさん」
咄嗟に思いついた名を口にしてみた。
「いや、そういう名ではなかったですが」
「撞木町でしょう? 撞木、しゅもく……。あっ、おゑんさんですか?」
「そうそう、おゑんさんです。小間物屋がお得意の名前を忘れるようではいけませんね」
「そうですか。小間物の商いをなさっているのなら講釈師が逃げ出すくらい噂話にはお詳しいでしょう。そうですか、おゑんさん……。あれま、そろそろ産み月ですよ」
「はい。こんな腹を抱えています」
長七郎は、一度勝の答えを否定したことでうまく騙したつもりだろうが、実はこれも勝の出鱈目だ。ありきたりな名をもちだしたら、上手くそれにひっかかった。撞木町からは一人も患者は来ていない。同じ嘘をつくのなら、住居だと言った塩町の隣、魚町だと言えばよかったのに。
その様子を、仕切り一枚隔てた亥蔵が聞いていた。普段の勝はこんなに執拗に訊ねたりはしない。どちらかというと気をほぐすことに意を傾けている。もしかすると何者かが探りを入れにきたのかもしれないと思った。
その亥蔵が控えの間にいるおうめを呼んだ。さらさらと何かを書いて、留十に言ってこの薬酒を出してもらうよう言いつけた。
「どうでしょう、授かりますかね」
仕切りのむこうで勝と長七郎の話が続いていた。
「なにぶんにも授かりものですから必ずとはいえませんが、十人のうちで六人くらいは授かっています。できるだけのことはさせていただいています」
「ところでお前様は? お子がおありですか?」
長七郎がからかうように言うと、勝は大げさに慌てたような声をあげた。
「ちょっ、私ですか? おかげで一人」
「こちらで、なにして授かったのですか?」
「厭ですねえ、運よく自力で授かりましたよ。もう、何を言わせるのですか」
これが勝の客あしらいだ。手玉に取られている風を装い、実はしっかり相手を値踏みをしている。
後を引き継いだ亥蔵は、二人が本当に夫婦かと訊ねた。
「どういうことでしょう、正真正銘の夫婦ですが。それとも、夫婦以外はだめというのですか?」
「いや、ただ訊ねただけだ。なかには旦那と妾とか、大店のお内儀と番頭という取り合わせもちょいちょいある。もしそうなら、つまらぬ世間体などかまう必要などないと言いたいだけだ」
「へえ、そんな取り合わせがあるのですか」
「あるある。ここで鉢合わせすることもあるが、呆れたことに、井戸端会議を始めるしまつだ」
くだらぬことを話したと思いつつ、長七郎の警戒心を解くことができたのではないかと亥蔵は思った。そして、二人の暮らし方を訊ねていった。酒を飲むかとか、夜更かしをするかといったことから始まり、色町への出入りをしたことがあるかとも訊ねた。滅相もないと否定したのに満足そうに頷き、最後の経血から何日くらい経ったかを訊ねた。
「五日ほどですが、それがどうかしましたか?」
なんだか自信なさそうに答えたヤスが、その意味を訊ねた。
「この治療を始めてかれこれ二年と半年。ずいぶんと患者を診てきてわかったのだが、経血と受胎には関連があるようだ。といっても、これだという決め手がない。しかし、どうやら……。迂闊なことは言えぬから黙っていようが、そういう意味で訊ねたのだ」
これは本当のことである。経血が終わってしばらくしてからのほうが孕む確立が高いようだ。とはいえ、毎日必ず受精させていることを考えれば、亥蔵の考えすぎかもしれない。
そんな話をしている最中に、ヤスは妙に腰をモジモジさせることがあった。そして長七郎も落ち着きなく座り直すことを繰り返している。
二人の後ろには衝立で仕切られた小部屋がいくつかある。その奥からかすかに鈴の音が聞こえる。長七郎はそちらに注意を惹かれるらしく、亥蔵とヤスのやりとりはそっちのけで、衝立の奥を覗こうとする。
「これ、人様の秘め事を覗くものではない」
亥蔵に嗜められて照れ笑いを浮かべていた。
「では、今日のところはこれまでだ。五日後からということにする」
「今日からではないのですか?」
亥蔵の言葉に長七郎が不満げだったが、少しでも確立の高い日から始めると亥蔵は言い切った。そのかわり、治療を始めたら少なくとも二タ月の間は夫婦事を控えてもらわねばならぬので、せいぜい頑張れと言って長七郎の肩をぽんと叩いた。
「実は、薬効あらたかな薬酒がある。懐具合と相談なので無理強いはせぬが、実にリキが出る酒だ。夕餉の前に猪口一杯飲むだけだが、どうする?」
医者としての役割が終わったからか、出店の親父のような言い方で誘った。
「そんなに効く酒がありますか。で、いくらなんです?」
「酒ではないので値が張る。しかし、猪口で一杯飲むだけだから、これ一本で七日や八日はもつ。一本四百文だが、どうする?」
「そんな法外な値があるものですか、高すぎますよ」
なるほど、飯屋で酒を注文しても普通の酒なら二十五文、上物でも四十文ほどで一合飲めることからすれば法外な値だ。しかし亥蔵は薬だから当たり前だと言った。そして酒のいわれを滔々と聞かせたのだった。
「今も言ったが、播磨のどこを探しても他では売っていないぞ。越前屋が秘伝の製法でつくった酒だ。薬種問屋の越前屋でも買えるが、あっちは一升売りだ。治療が始まるまで晩酌をひかえればすむではないか。無理にとは言わんがな」
たしかにこの酒を飲めば精力がついたように感じる。この男が子種屋をさぐる目的で来たのなら、きっと持ち帰るだろうと考えたのだ。
「じゃあ、ためしに飲んでみましょう」
何を思ってそうしたのかは亥蔵にはわからない。ただ、ひょっとすると餌に食いついたのかもしれないと考えたのだった。
それから程なくして、二人は夕暮れの町に消えていった。
陽がとっぷりと落ち、日中の暑さが嘘のように涼しくなった。そろそろ七つ半、草場の虫たちは今が盛りと鳴いている。留十が戻ってきたのは、そろそろ門を閉じようかという頃だった。どこをうろついていたのか額に汗が玉となっている。そのくせニタニタと薄笑いを浮かべていた。店の片付けにかかっていた勝に大事な話があると一言残して仁平の下へ駆けていった。
あの二人を尾行するようにたのんだのだから、何事もなければあっさりとそう言うだろう。それが思わせぶりに去ったのだから、おそらく悪い報せに違いないと勝は思った。亥蔵も同じように感じたらしく、片付けもそこそこに仁平のところへ行くことにした。
仁平の部屋では園が子供たちを寝かしつけているところで、勝手場と小声で教えてくれた。
仁平と富永、そして咲と絢女が留十の報告を聞いているところだった。
長七郎は、塩町とは正反対の野里へ向かった。そこは姫路の遊郭だ。そこの翁という女郎屋へ女が消え、長七郎は大手の女郎屋、老松屋へ消えた。それも表から入るのではなく、脇の入り口に姿を消した。しばらく待ってみたが現れないので、留十は塩町へ行ってみた。そして小間物屋の長七郎とヤスという夫婦者の住居を訪ね歩いたのだが、聞く人がみな、そんな夫婦者はいないと答えた。が、長七郎という男なら確かにいるということだった。人相や背丈も、かの長七郎と同じだという。この男は、金貸しの手先をしながら暮らしているそうだ。借金の形に娘を奪っては女郎屋へ売り払っているという噂だ。そうしてまとまった金を掴むと、遊郭で遊んでいるらしい。ヤスは馴染みの一人なのだろう。
留十が調べたことは、そういうことだった。
「やっぱり。どう見ても夫婦には見えなかったですよ。小間物屋なら顔だけでも日に焼けてなきゃおかしいですから。それに、襟足にまで白粉を塗る女もちょっと」
勝の勘にひっかかったのはそれだったようだ。まともな暮らしをしていなさそうな男と、どう見ても玄人っぽい女。勝にはそんな奇妙な取り合わせと映ったようだ。
「あの落ち着きのなさも妙だな。しきりと衝立の奥を覗こうとしておった。それと医者としての勘だが、もしかすると二人とも花柳の病を患っておるやもしれん。しきりと腰をモジモジさせておったからな。だからといって、本人が気付いているかどうかはわからんが」
亥蔵も強い違和感を感じていたと言い、もしかすると蝮酒の注文があるかもしれないと、酒についてのやりとりを話して聞かせた。
うんうんと頷きながら聞いていた仁平は、茶と、つまむものを用意させた。
「なるほど、やり方を探るために患者を送り込もうということですね」
そんなことは誰の目にも明らかだ。ではどうするかということになると、実は仁平には考えがまとまらない。それは彼の生い立ちに深く関係している。つまり、頭立つ者の指図通りに働くのが忍だから、自分の判断で事をすすめるよう躾られていないということだ。なるほど普通のことなら自分で判断するし、切羽詰ったことももちろん判断する。が、それは目の先の障害を取り除くことでしかない。他方、目標を示唆されるなりすると実行力は人一倍ある。越前屋が大きくなったのは重吉が番頭になったからというのは、実はそういうことだ。盗賊に入られたとか、地回りに脅されたというのなら彼が独自に解決するだろうが、今回のように話がこみいってくると、どうしていいのかわからないのだ。そして、それを知られたくないという見栄がある。だからこんなとき彼は、悠然とかまえて皆に好き勝手な議論をさせるのだった。
「ということは、娘の都合がついたということでしょう」
なんだか仁平は愉快そうに白瓜の漬物を一切れつまみ、皆にも食べるよう勧める。そして自身も小気味良い音をたてて漬物を噛んだ。
「一番の黒幕は誰かということは、皆も知っているように本多藩です。それを指図しているのが、物産方与力の内藤という男。この内藤が、子安方を作ろうと躍起となっている。そこで、私に力添えを求めて断られた。なにか参考になるものはないかと盗みに入った。一度は絢女に見咎められ、二度目は私に追い払われた。三度目にしてようやく小道具を少しばかり手に入れたが、それだけでは意味がわからない。内藤は、誰かをつかって準備にかかったのでしょう。長七郎とかかわりのある金貸しあたりかもしれません。その金貸しが、借金の形に娘を奪ってきた。ところが、どうやって技をしこむのかがわからない。そこで老松屋に面倒をみさせようとしたのだが、遊女と同じに仕込んで良いものやら迷う。そこで長七郎を患者として潜りこませようとした。これで一応の辻褄は合います」
言い終えた仁平は、またしても漬物をつまんだ。
「旦那様、そのくらいのことは誰にも察しがつくでしょう。私たちはどうしたら良いのですか?」
長七郎と直に話すのは勝である。そのようにまだるっこしい話など、どうでも良かった。
「そう慌てることはないでしょう。ところで、長七郎を受け入れてやりますか?」
治療を判断するのは勝と亥蔵の役目である。その返事を求めた仁平が、カリッと小気味良い音をたてた。
「旦那様、私の話を聞いていないのですか、花柳の病ですよ。そんな危ないことは許しません。娘はもちろん、患者にも毒が蔓延してしまう。子種屋の信用を失うことになります」
亥蔵は憮然として即答した。
「さすが亥蔵さん、思ったとおりの返事をしてくれました。では訊ねるが、亥蔵さんが長七郎だとして、断られたらどうするね?」
重ねて問うと亥蔵は黙り込んだ。
「誰でもいい、こうするのではないかという考えを言っておくれ」
そう言われても、おいそれとは知恵がまわらないようで、皆がじっと口を噤でいた。
「子種屋の誰かを浚うとか……」
富永が呟くと、すかさず絢女がたしなめた。
「普段から外歩きをしないのですよ、どうやって浚うのですか」
「出歩かぬのであれば、忍び込むしかなかろうが……」
武辺一筋の富永なればこその予想だ。
「生憎ですが、落とし穴が掘ってあります。忍び込もうとしたらすぐにでも捕らえることができます」
仁平がそう言うと、皆が同様に頷いた。
「……手前なら、なんとか聞きだそうと考えますが」
留十が自信なさげにつぶやいた。誰からも考えが出てこないので、莫迦にされるのを承知で言ったようだ。
「聞くと言ったが、そもそも治療を受けさせないのだぞ。ということは、娘と話す機会などないではないか」
治療を受けさせない以上、娘との接触はありえない。それを管理するのは自分の役目だと亥蔵は思っている。
「ですからね、別に娘に訊ねなくたって、患者から聞くことはできますから」
それを聞いて仁平が目をカッと開けた。
「それだ、その方法がありますよ。でも、どうやって聞くのです?」
「ですから、そこは正直に。以前、知り合いに無理やり連れて行かれた花街で悪い病をうつされたと正直に言うのですよ。それで、知り合いに頼み込んでみるから、どういうことをしているのか教えてくれと。酒でも飲ませてやればペラペラ喋るかもしれません」
留十の言葉を皆がシーンとして聞いた。言われてみれば、なにも荒っぽいことをするまでなく、簡単に目的を達成できる。あまりに重大に考えすぎて、虚を衝かれたようだった。
「そうですよね、私も世間話にかこつけて必要なことを聞き出したりしますから」
勝は自分の迂闊さを恥ずかしがったが、すぐに対応策を求めた。
「では、どうしたらいいですか。患者さんの口に戸を立てるにはどうしたらいいですか」
勝の切実な訴えに、一同は再び黙り込んだ。
「いっそ、喋らせてしまったらどうですか」
遠慮がちに声を上げたのは絢女だった。
「覚えていますか、腹に虫が湧いたことを」
何を言おうとしているのだろうと、一同の視線が絢女に集中した。
「たしか、張り型も奪われたのですよね。なら、それを利用してやるのはどうでしょうか」
張り型と腹の虫は強烈な記憶として残っている。しかし、それをどう利用するというのかが皆には想像できないようだ。
「ですから、明日からしばらくの間、わざと下手に吸い出すのです。それで、このところ稽古が行き届いていないと謝らせます。そのときに、張り型で稽古しますと、本当のことを言うのです。そしてここがミソなのですが、葉モノ野菜を張り型にこすりつけると稽古がすすむと嘘を言うのです。本当は畑の白菜が一番良いのだけどまだ手に入らないから、青菜で稽古しますとね」
「絢女さん、そんなことしたらどうなるか知っているでしょう?」
ずっと聞き役に徹していた咲が聞きとがめた。生活面を支える責任者として、何人もが苦しんだことは冷や汗ものだったのだ。幸いなことに原因がはっきりしたから良かったものの、青くなったのが忘れられない。
「御寮さん、そんなことをすれば腹に虫が湧いて稽古どころではなくなるのはわかっています。でも、敢えてそう考えたのは、無理やり連れ去られた娘のことを考えてです。そうすれば娘を救えるのではないでしょうか」
じっと聞いていた皆が唖然とするような策だ。嘘を吹き込まれたと知らない者は、真っ正直に話すだろう。本人が正直に話すのだから、なにも不自然なそぶりが加わらないはずだ。なら、相手はそれを信用する。悪巧みどころか、すばらしい策謀である。女とは恐ろしいことを考える生き物だと、仁平は思った。
「もしそれがうまくいったとしても、虫を追い出してしまえば元の木阿弥ではないですか」
そう呟いたのは勝だ。だが勝は勘違いをしていた。
「お勝さん、それはどうかな。あのとき剛直先生ですら治療のしかたを知らなかったではないですか。そんなことができるのは旦那様しかいない。ましてやお通じの治療を専門とされていて、この姫路にもそれが知れ渡っています。どうにも困ったら、きっと旦那様に助けを求めてくるでしょう。そのとき、わざと中途半端な治療をしてやればいい。そうすればいつまでたっても本復しない」
亥蔵がそう言って勝の考え違いを指摘した。
「そのように無駄な時をかけておる一方で、矢のような催促が始まるわけだな。となると、やはり浚いにくるとみねばならん」
富永は、どうしても荒っぽいことを連想してしまうようだが、好対照なのが留十だ。こんどもまた富永とは真っ向から対立するようなことを言った。
「手前なら、身代わりをたてます。いかにも遊女ってのはいけませんが、素人っぽくて、それでいて手馴れた女を使います」
富永の手前もあってか遠慮した物言いだが、それも一理あることだ。
「身代わり? 身代わりねえ……」
留十の言った身代わりということに仁平が考え込んだ。そして目を明けた仁平がゲラゲラと笑い出した。なにを笑っているのかを説明せずに腹をヒクヒクさせて笑っている。皆は呆気にとられて見ているばかりだった。
「身代わりをですか、……誰の相手をさせるのだね。正気とは思えませんよ」
言いながら涙をこぼしている。
「旦那様、その言い方は留さんに悪いですよ。留さんがヘソ曲げたらどうするのですか」
あまりの莫迦笑いを咲が咎めると、すまなかったと素直に頭を下げた仁平だが、思い出したように笑った。
「い、いや、留さんが悪いのじゃない。けど、迂闊だったねぇ、そこに気付かなかった。それでね、誰が身代わりになるかを考えたわけだよ。そうしたら、遊女しかいないことに気付いたわけだ。もしだよ、もしその遊女が花柳の毒に冒されていたら。そう思い至ったわけですよ」
仁平の言ったことは、とてつもなく恐ろしいことだった。一同がえっと顔を見合わせてもぞもぞしだした。
「冒されていたとしたら、殿様だけでなく奥方様にも毒がうつる。隠そうとしてもいずれ発覚します。そうしたら大名同士の喧嘩になりますよ。そうとは知らずに治療を受けた大名も加わって、大騒動になるでしょう。本多藩など簡単に取り潰しになるでしょうな」
主君にそんな病をうつされたとあっては、家臣が黙っているはずがない。それこそ戦になるかもしれない。身代わりを示唆した留十ですら、思いつかなかった展開に青ざめるしかなかった。
「そのようなことになれば、わが松平家はどうなるのだ」
その先を察した富永の顔が強張っていた。
「巻き込まれる虞がありますので、予防策を講じておかねばならないでしょう。特に、本多が関わった大名とは距離をおかねばならんでしょうなぁ。油断していると松平のせいにされてしまいかねませんから」
いかん、それはいかんと富永が唸った。
「そして、子安方のようなことはまかりならぬとご公儀からお達しがあるでしょう」
仁平が続けると、ますますいかんと富永が唸り続けた。
「まあまあ、それは事前に阻止することができましょう」
なにか考えがあるようで、仁平は余裕たっぷりに薄笑いを浮かべたのだった。
「では、皆も覚えておいてください」
そう言って、仁平は今後の方針をおさらいしたのだった。
「ところで、この騒動が終わったら宿替えをしようかと考えたのだが、どう思うか聞かせてもらえないだろうか」
これからどうするということを皆で確認し終えた仁平が、世間話の続きのような気軽さで言った。
「私はもちろんお供しますが、宿替えというとどこへ行くおつもりですか?」
間髪を入れず咲が答え、勝と絢女も頷いた。留十は、場所などどこでもかまわない様子だが、富永と亥蔵は複雑な表情をみせた。
「この姫路は暮らしやすい町です。ですが、内藤のような役人がいたのでは気持ちよく暮せません。そこで、たとえば西宮はどうかと思うのですよ」
西宮まではおよそ十七里。ほぼ二日かかる距離だ。だからといって遠方というほどではない。京を発った山陽道は、大阪を迂回して西宮に到る。京から淀川を下って大阪に着いた旅人は、なにわ道で西宮に到る。そこから西国へ行く者、山陰へ行く者が別れてゆく要の宿だ。そこなら大阪より西の諸大名が参勤で通るのだし、大阪にも近い。
仁平は、宿はずれに土地を買ったらどうかと言った。遠方の患者を受け入れるために、湯治宿のようなものを建てても良いし、泊まって療治できる医療所を併設しても良いとも言った。
「そうするには亥蔵さんに来てもらわねばいけません。また、諸大名も通るので、富永さんがいてくださると好都合です。そのかわり、子安方のお宿は引き受けます」
つまり、全員で宿替えしようということだった。
「そういうことなら先生のお許しがないと」
蘭方医師、草薙剛直の門弟としての立場なら亥蔵が躊躇するのは当然だ。しかし、無下に断ることはしなかった。同行してもかまわないと考えているのかもしれない。
「ということは、剛直先生さえ首を縦にすればいいということですね? なら話は簡単です。亥蔵さんはおうめと所帯をもってもらいます。剛直先生にはそう報告しておきます。ついでに、もう二人ばかり弟子をよこしてもらいましょう。その二人にもちゃんと所帯をもたせてあげます。それと富永さん、以前のお仲間に若者がおりませんか。正直な男がいいですな、二人、いや、三人ばかり来てくれるとありがたいですねぇ。その三人にも所帯をもたせます。これでますます賑やかな家になりますよ」
うめと所帯をもたせると言われ、亥蔵が真っ赤になった。大慌てで手を振ってうろたえている。それを見て仁平が笑った。
「隠さなくてもいいではありませんか。亥蔵さんとおうめが妙によそよそしいのは皆が知っています。本当は気になるのでしょう?」
すると亥蔵は真っ赤な顔を下に向け、小さく頷いた。
「旦那様、手前はどうなりますので?」
とうとう名前があがらなかった留十が恐るおそる訊ねると、心配しなくてもおつやと所帯をもたせると仁平が言った。
夜が明けると、昨夜決めたことのあらましを仁平が語った。特に子種屋の娘たちには、稽古のしかたを気軽に語ってやれと言った。そのときに、葉モノ野菜で道具を擦るのがコツだと付け加えるよう特に念をおした。それから、これは絶対に秘密だと念をおして、宿替えを考えていることを伝えた。娘たちにとっては郷里が遠くなることもあり、迷うかもしれないがついてきてくれと頭を下げた。娘たちはもれなく郷里に仕送りをしている。その関係もあってか浮かない顔をする者もいた。賄いや下働きとして共に暮らしている親は、穏やかに暮らせるのならと快く同意した。
食事をすませた仁平は、うめを呼び出して亥蔵と所帯をもたないかと勧めてみた。亥蔵は蘭方医だし、クソがつくほど真面目な男だ。決して家庭に波風をたてるようなことはしないだろうと勧めたのだ。急なことでうめは戸惑っているようだ。郷里の両親はなんというだろうと呟くものの、奉公先の主が嫁ぐ先を決めることは世間の常識でもあることから、どうすればいいか迷っているようだ。
「亥蔵さんにはこの話をしました。あの亥蔵さんが顔を赤くして承知しましたよ。お前もまんざら憎からず思っているのではないかね、様子をみていたらそうとしか思えないのだよ。それに、亥蔵さんでさんざん稽古したのでしょう?」
「えっ、あれは違います。あれはただ……」
稽古台にしたことを指摘されるとうめは真っ赤になって下を向いた。
「どうかな。承知してくれるなら剛直先生の耳に入れておかねばなりませんから」
そう言われてうめは、大きなからだを小さく丸めて頷いたのだった。
真っ赤になったうめを下がらせた仁平は、次につやを呼び出した。そして留十との話を切り出した。そもそも留十とつやは好き合った仲なので、照れとか戸惑いなどなく素直に喜んでいる。奉公に出たからには好き合った者と所帯をもつことは諦めていたのだそうだ。それが叶うことになった。母親は賄い方として共に暮らしているのだから何も障害になることはないと二つ返事で承諾した。
先日の泥棒といい、なにか妙なことがおきていると娘たちも感じてはいるようだ。しかし一連のことととして捉えてはいないらしく、面白そうなことが始まったという程度の認識しかない。が、かえってその方が不安がらせずにすむというものだ。
ところで、どうして仁平は宿替えを思いついたのだろうか。先に述べたように、仁平は先々を見通して行動することは苦手だ。むしろ刹那的に切り抜けることが得意である。となると、皆を説得した考えが、でまかせだったと考えられなくもないのだが。
朝の用事をすませた仁平が外出をした。思いつきであれ周到に練った計画であれ、目指すことが決まると生き生きする。それが仁平の秀でた面である。
重吉さんと剛直先生に用事があると言い残すだけ、むしろ可愛いとさえいえる。まるで子供のようでもあった。
出掛けにポツリと降りだした雨が、いつの間にかシトシトと絹の糸をひいている。そこで仁平が目にしたものは、総出で漬物石を船に積み込んでいる光景だった。はて、漬物石を売るようになったのかと重吉に訊ねると、嵐から船を護るための作業だという。そんな莫迦なと仁平が笑うと、重吉は苦笑いで返した。
「雨が降るかどうかという空模様でございますから、手前は真に受けてなどおりません。土砂降りだって数え切れないほどありましたが、そんなことは言い出さなかったのでございますよ。手前はね、十中の十、船頭の取りこし苦労だと思います。とはいっても、船のことは船頭まかせでございますから、石を積み込むと言うのを止めさせることができません」
石を積み込むだけでなく、蔵の荷も二階へ移させられて、おかげで今日は商いにならないと重吉は弱り顔をしてみせた。
「この日和でねえ。狐に摘まれたようですね」
納得ゆかぬげに生返事をした仁平が他の船を見たのだが、気がふれたように作業しているのは越前屋の二艘だけ。首をかしげることしかできなかった。
「ところで旦那様、今日はどのような御用でしょうか?」
重吉が水を向けると、仁平は大きく張り出した庇の下を指差した。
何から話せば良いのか迷い、頼み事ができたと単刀直入に言った。
「またでございますか、旦那様。お武家様を妾に加えたのはいつのことでございますか。女好きは結構ですが世間体というものがあります。少しは自重してください。……で、こんどの女には諦めさそうということですか?」
いきなり苦言が飛び出すとは思っていなかったようで、仁平は大慌てで重吉の誤解を解いた。そして、まだ信用しきれていない重吉に、今回の経緯を一通り語った。
「今話したことはあくまで推測です。これが正しいわけではありません。ですが、全くの絵空事とも言い切れません。仮に、推測が間違っていなかったとすると、きっと蝮酒を買いにくる者が現れるはずです。一升売りだと言いふくめておいたそうですが、どうやら遊女屋がからんでいるようです。あの効き目を知ったら、案外もっと買おうとするかもしれません。そこで、そういう者が現れたら耳に入れてもらいたいというのが一つ」
その程度のことならお易いことではある。しかしながら金貸しやら遊女屋は必ずゴロツキとのつながりは深いものだ。くれぐれも無茶をせぬようにと重吉は念をおした。ところが仁平は、いずれ男手が十人ばかりに増えるから心配しなさんなと笑うばかりだ。
「次に、お前様の伝手で土地をさがしてもらえないかね。いえ、水に困らないのなら荒地でかまいません」
事も無げに言う仁平を覗き込んで、重吉はヤレヤレという表情をみせた。
「土地探しくらい、御自分でなさってください。なんですか、厄介事に巻き込まれるというのに土地だなんて。少し気楽すぎはしませんか」
予想外の反撃だ。こんな時期でなかったら自分で探すさと言いたくなるのを堪えて、仁平はしょんぼりしてみせた。そうしてみせると折れてくるのが重吉である。口先だけは拒んでみても、やがては味方をしてくれるのが重吉だ。
どこにどのくらいの土地をさがすのか訊ねた重吉は、仁平の返事に色を失った。
「にしの……。何をなさりたいので?」
帳簿の仕分けや整理なら一日中していられる重吉は、仕事柄か背が少し丸くなっている。しかしそのとき、重吉の背はピンと伸びていた。それほど驚かせたことが後ろめたくなったのか、仁平の声音が沈んだ。
「なにって、宿替えをしようと思い立ちまして」
なにっ、宿替えですってと鸚鵡返しに答えた重吉は、ほとほと愛想がつきたと言いたげだ。
「こともあろうに、宿替えを思いつきましたか。旦那様はいいでしょうが、周りの者を困らせるのはお止めください。それも一町歩の土地ですって? 話になりませんな」
本当のところ、二町歩の土地がほしいのだと仁平は言った。宿外れなら手付かずの土地があるはずだ。そこで宿を併設した子種屋をすれば、おそらく大阪からも患者が集まるだろう。参勤の旅はとかく便秘になりやすいものだから、大名衆からの治療依頼もあるだろう。そして薬の調達もできるとなれば、前途は明るいのではないかと重吉を説得する仁平だった。
重吉にしても、仁平の思いつきで新しい商いに発展したことがたくさんあった。子種屋にしても施療院にしても、誰も思いつかなかったことである。それがわかっているからややこしい。クソ面白くないと顔は怒っているが、頭の中では算盤がパチパチと小気味の良い音をたてていた。
方やおもいついたらすぐにやってみたい行動派、方や石橋を叩いてもまだ渡ろうとしない慎重居士。説得に手間取ったが、とにかく協力させることに成功したのだった。
なんとか目的の一つを片付けた仁平は、無駄話を早々に切り上げて剛直の屋敷に向かった。その名が示すように、剛直は竹を割ったような性格をしている。いきなりの宿替えには少々驚いたようだが、それもまたよかろうとあっさり納得した。そればかりか、亥蔵の嫁取りには熱心で、所帯をもつことが彼を成長させると大賛成だ。二人ばかり門弟を貸してほしいという願いにも快く応じてくれた。すでに自立できるだけの力があるというのについ他人を頼ってしまう者がいるというのだ。彼らに必要なのは経験、それも自分で判断する度胸だと剛直は言った。重篤な患者を管理できる場所があるなら、ぜひ経験を積ませてやりたいとも言った。
「先生、なんだか羨ましそうですな」
「当たり前だろう。どこに患者を泊まらせる医者がおるか。だけど、往診も楽ではないのだぞ」
剛直にしては珍しい弱音だ。家人が医者を呼に走り、医者が駆けつける。その間、患者は放置されたようなもの。生かすことができる命を無為に死なせてしまうことが多いのだそうだ。
「では、先生もそのようなことをしませんか」
仁平はそう言って剛直の目をじっと見つめた。
「だめだだめだ、俺を連れて行こうとたくらんだのだろうが、俺は動かんぞ」
仁平の言ったことを解しかねたか、しばらく黙っていた剛直が手を振って笑い出した。
「そうではございません。手前が立ち退いたあと、先生が屋敷を使ってくださればいい。門弟衆もそこで寝起きできます」
剛直は意外な顔をした。なるほど仁平の屋敷なら手をかける必要がないほど整っている。患者を泊めることもできる。だけど剛直あたりが買えるような屋敷ではない。
「貧乏医者につまらぬ夢を見させるな。お主、根性が悪いぞ」
「ただし、子安方の宿として使わせてやっていただく。それが条件でございます。旅の途中で体調を崩すこともありましょう。そんなとき、宿に医者がおれば心強いはず。いかがでしょうか?」
「それくらいのこと、容易いことだがな、懐を察してくれ。余裕などないのだ」
貧乏だと正直に言いながら、剛直はカラッとしている。
「そのお約束を守ってくださるなら、どうぞ屋敷をお使いください」
「何度も恥をかかせるな、俺は貧乏医者だと言ったはずだぞ」
「手前は、金をくれなどとは一度も言っておりません。子安方を泊めてやってほしいと言っただけです」
要は、無償で提供しようという申し出である。さすがの剛直も顔色を失って仁平を見た。
これから土地をさがすのだから、宿替えといってもずいぶん先のことだろうと言ってその話を打ち切った仁平は、この姫路で花柳の病がどれくらい広まっているか訊ねてみた。すると剛直は、ほとんどがお抱えの医者に頼っているらしく、詳しくはわからないと言った。そのお抱え医者の腕はどうなのか、そもそも花柳の病は治るものなのかと重ねて訊ねる仁平に剛直は答えた。
「越前屋、たとえばお主が今日から医者をすると言えば、お主は医者だ。お主ほどに薬の知識があれば心配はなかろうが、実際はそのようなもの。多くは素人なのだ。そこを察してくれ。また、そうした医者は漏れなく本道だ。風邪をこじらせて死ぬ者がおるのだぞ、たかが風邪だ。それさえ治せぬ医者が多い。せいぜい葛根湯を与えるしか能がない。花柳の病を本道で治すなど不可能だ。残念だが蘭方でも治せん。それほどの業病なのだ」
そしてこうも言った。仁平の便秘治療にせよ子を授ける治療にせよ、どちらも立派な蘭方の医術だと。しかも、剛直すら考えつかなかった方法だと。
快い返事を得られたことで仁平の気持ちが少しだけ楽になった。たしかに思いつきから発したことだが、自分では気付かなかった意味があることを教えられたからだ。帰りがけ、仁平は重吉が言っていた嵐のことを教えてやった。雲の動きや潮臭さが増していること、そして妙な生温い風などが嵐の来襲を物語っていると船頭が言ったということを話しておいた。船倉に石を積むのは少しでも船を沈めるためだとか。そうすれば風当たりが減るのは素人にも理解できるのだが、実際にそんな無駄な力仕事をする者などいまい。しかし、そうすれば船が暴れるのを防げるのだそうだ。それは大海原で働く者の勘と知恵なのだろう。川船頭にはなかなか理解できないことだろうと語った。すると剛直は、こんなに穏やかな日和なのに嵐がくるのかと驚いていた。
重吉の協力は取り付けた。剛直の賛同を得ることもできた。あとは自分たちで解決するしかない。はたしてどのような結末を迎えるのか、少しばかり愉快そうであった。