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二 盗人

 そんなゴタゴタも日々の営みの中で忘れ去られ、季節は梅雨になっていた。手入れをした菖蒲もアジサイも涼しげな花を楽しませてくれている。

 ここ一日二日は青空が広がり、ギラギラと陽が照っていたのだが、その日は朝からザアザアと音をたてて雨が軒を叩いていた。こんな日和だと患者の足が遠のくと考えるのは健康な者の証だ。こんな日和だからこそ人目を気にすることもなく通うことができるし、もしかすると待たされることもなかろうと思うのが常連の患者だ。いっそのこと晴れわたったほうが空いているともいえる。庇を叩く雨音に眉をひそめながら、仁平は患者の処置に追われていた。

 患者の呻き声や盛大な水音が施療院には溢れているはずだが、ザーザーという雨音に消されてしまって、なんだか静かにさえ感じられた。

「お豊さん、(すぼ)めちゃいけませんよ。せっかく緩んできたというのに、苦労がだいなしではないですか」

 カカッと稲妻がはしると、たいがいの患者はびっくりして尻を窄めてしまう。だが、光ってからゴロゴロと音がするまでに間があるのだから心配することはないのだ。それなのに、ほとんどの患者は身を竦ませてしまう。

「こんなところに雷様が落ちるものですか。鼻を摘んで逃げていきますよ」

 やれやれとため息をつきながら、仁平は処置をしなおす。一方で、患者が驚いている隙に嫌がることをすますことができたのも事実だから、有難い一面でもあった。


「お弓さん、いいかげんに自分で出すようにしてくださいよ。こんなことばかりしていると体が楽を覚えてしまいますよ」

 お弓に限らず、多くの患者は自力排泄の努力を怠っている。こうすれば無理なく出せると助言しても、効果が現れるまで継続しようとしない。そして年を追うごとに患者が増えているのも事実で、それもこれも仁平の施術が確かである証左だろう。


 仁平以下二十人ほどの者が越前屋で暮らしているのだが、施療院のあがりだけで皆を養うことができた。子種屋のほうも順調に客が増え、十分な収益が上がっている。それで皆の給金を賄ってもなお、余裕のある暮らしができた。

 給金は相場の五割増しというのは薬種問屋を始めたときからの決め事だ。そうすることによって意欲的に働くし、暇を出されないよう真面目に働く。つまり払った以上の儲けにつながる。彼はそう考えていたし、事実そのとおりになっている。

 あと五日もすればゆかた祭り。いつものように店の娘たちに息抜きをさせてやろうと仁平は考えていた。


 夕方には茜空が広がったものの、喜びは束の間。西の空から押し寄せた真っ黒な雲が姫路の町を覆ってしまった。

 ポツッ、ポツッと降り出した雨は、やがてザアザアと音をたてて降った。

 庭の木々だとてうんざりするような雨だ。しかも、まだ子種屋への出入りが途切れない頃合だった。


 仁平の住まいは、元のお先手組屋敷である。子安方の創設を丸投げされた代償として藩から下げ渡されたものだ。

 下げ渡されたとはいえ、そこに子安方奉行所を併設されたのだから、既設の建物は使えないのといっしょ。だから大規模な造作をせねばならなかった。

 施療のための棟、自分たちが寝起きする棟。大きな湯殿や大勢が同時に用を足せる厠。それらをつなぐ回廊。後に賄い方の長屋を建て、警護役の長屋も手入れした。

 大勢の息遣いに満ちた屋敷であったが、子安方が去ってからは、しんと物音すら聞こえない有様だ。使わない部屋ばかりといっても良いくらいだ。

 そんな状況を知った町衆から花嫁修業の再開を強く望まれ、おしきられて二人ばかり預かっているのだが、それでも屋敷内はしんとしている。

 無駄に部屋を遊ばせるのも芸がないと考えて、家人に手習いの稽古をさせていた。もちろん夕餉を終えたあとの余暇時間を利用してだ。

 よほど田舎者でないかぎり、誰もが一通りの読み書きはできる。とはいっても、型にはまった楷書などで書く人など世間にはいない。そこで、行書を覚えさせていた。本当は草書を覚えさせたいのだが、そこまでの教育を受けた者はいない。

 今日も皆が机を持ち出して稽古を始めたのだが、咲と絢女に面倒をみさせて仁平は売り上げの勘定をしていた。

 患者の数、治療代、薬代と、帳面に書き込んで、銭箱の中味と照らし合わせをする。そしてつり銭と日常の買い物に使う分を脇へのけて、残りをすべて金倉に納めてしまった。

 仁平の耳がかすかな異音を捉えたのは、帳面を継ぎ足しているときだった。

 ザーザーという雨音のなかに硬いものを擦り合わせるような音が混じったのだ。

 前の店でもそうしていたのだが、仁平は盗賊の知識を活用してさまざまな工夫を凝らしている。建物の裾部分に貝殻を敷き詰めるのもその一つだ。掃除が厄介だが建物全体が浮き上がったような視覚効果がある。そして真の狙いは、侵入者を音で察知できることだ。ジャリッジャリッと響く音は、それだけで盗賊を退散させる効果もあった。

 明らかに貝殻を踏んだ音だ。きっと賊は竦んでしまっただろう。そして考えているはずだ、足を引こうかと。仁平は、そんなことを想像してほくそ笑んだ。

 濡れ縁に上がるためには、少なくとも二度は足を置かねばならないだけの幅に貝殻が敷き詰めてある。それは跳びつくくらいでは届かない距離を保つためである。

 迷っているはずだ、戻ろうかと。しかし、雨音が足音を消すと高を括るかもしれない。そんなことを想像すると、仁平は愉快でならなかった。自分ならあっさりと引き揚げるがなと口が動いた。

 ギシギシギシギシ

 体重をかけている様子が伝わってくる。知恵の回らぬ賊だと笑いをかみ殺して、仁平はそっと部屋を出た。


 施療院へ渡る廊下から濡れ縁を窺ったが、人影らしいものは見えない。おそらく部屋へ侵入したのだろうなと察した仁平は、自分も縁に足を載せた。

 どこに垂木が入っているか、どこに支え柱があるか熟知していることもあるが、けっこうな早足にもかかわらず物音をたてない。

 唯一灯りが点っている自室には人影がない。お園の部屋にも異変はなさそうだ。残るはお勝の部屋だけだ。それまですっと立っていた仁平が静かに腰を落とした。

 直立して歩いてきたのとは全然違う、まさにいまにも攻撃に移ろうかという足捌きだ。利き足をすいっと前に出し、後足をすうっと引きつける。たえず前に出すのは利き足で、間合いを詰める動きに似ている。このまま、いつでも跳躍しそうな態勢だ。


 周囲に対する気配りがあまりに疎かなように仁平は思った。これは本職ではないことがありありわかるほど、賊は家捜しに懸命だ。

「金目のものは見つかったかな?」

 いちだんと腰を落とした仁平が声をかけた。はっと賊が顔を上げたのを見ると、どうやら地周りの下っ端のようだ。雨でぐっしょりになったのか頬かむりを取り、素顔を曝していた。

「他人の家には土足で上がれと親に教わったのか?」

 慌てて立ち上がるあたり、やはりずぶの素人のようだ。屈んでいる仁平を蹴倒して外へ逃げようか、それとも廊下へ逃げようか迷っているようだ。闇の中で白目が右に左に忙しく動いた。

「廊下へ出るか? 生憎だが、そっちは人目が多い。騒がれるだろうなぁ」

 後ろ手で障子を開けようとして止めた。そのかわり、その手で胸元をはだけ、右手を懐に突っ込んだ。

「本気かね? 危ないものはやめておきなさい」

 蹲ったまま仁平は含み笑いをしながら言った。すると賊はむきになって懐から手を取り出した。夜目にもギラギラとした匕首を持っていた。

「お前は山犬と闘ったことはあるかね? 私は何度も闘った。山犬ってのはね、匕首なんかではどうにもならないのだよ。だって、宙を跳ぶのだからね、こういう具合に」

 言い終わるなり仁平は跳躍するとみせた。賊が咄嗟に頭を守ろうとするそのとき、仁平は床で一回転して賊の足元で膝立ちになった。

「わかったか? 山犬は嘘をつく。それに、一番弱い腹を狙うものだ」

 そう言ったのは、賊の鳩尾に当身をくれたあとのことだった。


 グフッと呻いた賊が前屈みになる。すかさず仁平は、棒立ちになった賊の膝裏を叩いて尻餅をつかせた。


「狙いはなんだね?」

 言葉遣いは穏やかだ。しかし仰向けにした賊の喉を膝でぐいぐい押さえつけている。賊は反撃を試みるのだが、そのたびに喉をつぶされて動きを止めた。

 荒事に馴れた者であれば仁平の力量を推し量るだろう。知恵の回る者なら猶更だ。しかしこの賊は力押しで事態を打開しようとした。

 言葉遣いから相手は素人だと思われる。自分は喉を押さえつけられているだけで、手足の自由が利く。それに匕首を握ったままだと気がつくと、自信が湧いてきたのだろう。賊が匕首を振り回した。

「おいおい、怪我をしたらどうするつもりだ」

 仁平はおもいきり喉に体重をかけた。

 大振りした切っ先が仁平の膝に集中してくる。が、すぐに弱々しくなった。

 匕首を掴んでいる手首を仁平が握った。そして親指を喰い込ませるとポトッと落ちた。

「お前、名は?」

 そんなことを訊ねても答えるわけがない。それとわかっていながら、仁平はもう一度訊ねた。


「いいだろう。絶対に言うなよ」

 暫く待ったが何も言わない賊に言い捨てると、右手の親指を強く捻った。もう回らないところまで捻ったままぐっとこじると、指がぶらぶらになった。

 ひぃーっと賊が悲鳴を上げた。

「すまないが、もう匕首は持てなくなったよ。かえって都合がいいじゃないか、怪我をする心配がなくなって。ところで、ついでだから箸を持てなくしてやろう」

 仁平は、賊の人差し指を捻った。そして無慈悲にもゴクンと外してしまった。

 賊の悲鳴が高くなった。殴る蹴るといったことには馴れているのかもしれないが、節を外される経験はないのだろう。堪えきれない痛みを味わっているようだ。仁平は、重いものを持たなくてすむようにと呟いて中指を外した。

「さて、節を外したついでに皮を切ってみないか。なんなら骨だけを抜いてやってもいいが、試してみるかね」

 呟いてブラブラの指先を強く摘むと、中で骨がズルッと動くのがわかった。


「言われただけだ、目についたものを盗んでこいと言いつけられただけだ」

 初めて賊が口を開いた。しかし仁平は骨がズルズル動くのが面白いようで、他の指をも摘んでいた。その痛みがどんなものか、仁平にわかるはずがない。一方で、血を一滴も溢していないのだから、そんなに酷いことをしているとは思っていない。

「言いつけたのは誰だね?」

 仁平は、こんどは左手の指を外しにかかった。

「おけ……桶富の親分。ウギィ……」

「知らないねぇ、なんだね、その桶富というのは」

 賊が白状を始めたというのに、仁平はおかまいなく節を外し、そして骨をスルスルさせた。


 桶富というのは、魚町あたりを仕切っているやくざ者だそうだ。しかし、その桶富がどんな目的で盗みを命じたのかは知らないようだ。金を盗むというのでなく、目についたものを盗む理由が不可解だ。だが、賊は本当にそれ以外のことを知らないようだった。

「盗まれたものはなさそうだから放してやるが、その桶富とやらに言っておきなさい。越前屋仁平は、熊と闘ったことがあるとな」

 そう言って、両手を使えなくした賊を追い返したのだった。


 桶富とはなんだろう。魚町、やくざ。それと越前屋とがどう結びつくのだろうか。物産方からの呼び出しが止んでほっとする間もなく、あらたな騒動の種が舞いこんできたのだろうか。平穏に暮らしたいものだと仁平は思った。



 ゆかた祭りの名物といえば越前屋の娘行列、いつの間にかそんな評判がたつようになって久しい。とはいっても、ここ五年か六年のことだ。揃いの浴衣を着せて長壁神社まで並んでゆくのが評判になっている。これから所帯を持とうかという年頃の娘ばかりで、特に歩く姿が美しいと評判だ。ただそれだけのことなのだが、行列が歩を進めるとき、どこかから涼しげな鈴の音がすると町の衆が噂した。

 一昨年までは一行の警護を非番の目付けがしていてくれた。それというのも、気に入った娘を嫁にしようという魂胆からだったろう。ところが今はそんな有難い味方はいない。半分以下の人数になったとはいえ、仁平ひとりで十人を越える娘の警護は厄介だった。ここは絢女に手伝わせるしかないが、それだけでは心細い。うーんと唸っていた仁平がはたと手を打った。その程度の男なら身近にいることを思い出したのだ。

 うんうんと頷きながら、仁平は子種屋で診察にあたっている亥蔵の肩を叩いたのだった。


 夏至の長壁神社は、浴衣で参詣できるとあって町の衆で大賑わい。小さな社だというのに、とりどりの浴衣が渦を巻いているように思えた。当然のことながら人出をめあての夜店がひしめいていた。

 日常ではなかなか男女の出会う機会がないものだが、今夜は若い娘がぞろぞろ集まってくる。独り者の男にしてみれば逃すことはできない特別な日だ。

 気に入った娘がいればちょっかいをかけ、意気投合すれば人目の届かないところへそっと隠れる。夜祭にはそういう側面が強い。いずれ良い男を世話してやるにしても、子種屋の娘はまだ慌てなくてもいい年頃だ。そして、花嫁修業で預かった娘も、悪い虫から守ってやらねばならない。

 そんな心配は取り越し苦労だったようで、皆は機嫌よく帰ってきた。……のだが。


 門の潜り戸が中途半端に開いている。今夜は賄いも下働きも関係なく全員で出かけたのだから、戸が開いているはずはなかった。それに、この日は祭りで出払うことは近所の者は知っている。急に具合が悪くなって駆け込む患者など、これまでに一度もなかったことだ。だとすると、おそらく盗賊のしわざ。

 ピンときた仁平は、賊が物陰から見張っているかもしれないと言いおいて屋敷の中へ入っていった。


 幸いなことに、賊の姿はどこにもなかった。しかし、手荒に家捜しされた様子だ。が、皆を呼び入れて点検させても、たいしたものは盗まれていないようだ。

 少しばかり残してあった銭が無くなっていた。といっても、明日の賄いに間に合うほどの額しか残していない。もしやと思って壁の裏を覗いてみたら、下膨れした袋がちゃんとぶら下がっていた。念のために秘密の金蔵を確かめたのだが、入り口を開けた形跡すらなく、金蔵の中に立ち入った形跡はまったくない。念入りに作らせた金蔵だから、入り口をみつけるができなかったのだろうか。ならば、どうして値の張る着物や帯を残していったのだろう。腑に落ちないことだ。


 各自が後片付けを始めると、なくなっているものが判明した。それは、小鈴であり、錫の管であり、張り型だった。特に張り型については、子種屋の娘たちのものがすべてなくなっている。ほかにはこれといって被害がなかった。

 金目のものを奪わない盗賊がいるものだろうかと仁平は考えた。盗みに入って一番に狙うのは金。いくら高価なものがあったとしても、第一は金だ。嵩張らず、足がつかないからだ。品物を奪うと、必ず足がつく。その考えはどの盗賊でも同じはずだ。では、どうして金蔵を探そうとしなかったのだろう。それが理解できなかった。

 そして、なくなった物のことを考えると、嶋村という供侍のことが思い出される。たしかあのとき、鈴がどうこう言っていた。それに、そもそもの起こりは、子安方をつくる手伝いをせよということだった。それを断られたものだから道具を調べ、あわよくば持ち去るつもりだったのではないだろうか。。それに失敗したので小者を雇って盗ませようとした。それにも失敗したので、今夜を待っていたとも考えられる。そんなことを総合すると、本物の盗賊でないことが納得できた。


「どうしましょう、盗賊に遭ったと届けましょうか」

 咲が不安そうに言ったのを、仁平は宥めた。

「そうだね、私の推測が間違っていなかったら、次は別のことをしてくるだろうね」

 どんなことだと皆の目が仁平に集中した。

「要は、子種屋でしていることを知りたいのだろう。だから道具を持ち帰ったのだよ。だけど、その使い方はわからないはずです。だとすると、それを探りに来るはず」

「新しいお客は断りましょうか」

 客を断るのは勝の判断にまかされている。

「いや、その必要はないでしょう。悪いことを考えるのはほんの一部の者です。ほかは皆、正直者ばかりではないか。だけど、真似をされるのは面白くないね」

 うーんと唸った仁平、知恵を求めるように皆を見回した。

「では、こんなのはどうだろうか」

 亥蔵が提案したのは、新しい客の治療を始めるのを五日ばかり遅らすということだった。治療をするに当たっては、名前はもちろんのこと、住いについても聞き取りをしている。だから、それが本当に子をほしがっている夫婦なのかを調べようというものだった。

 誰が調べてまわるのかと訊ねると、朝から昼にかけて自分がやろうと言った。本人がいてもいなくてもかまわない。むしろ留守のほうが近所で聞きやすいのではないかという。

 なるほどなと仁平は感心したものだ。夫婦連れで人を騙そうということは少なかろう。仮に本当の夫婦だったとしても、生活は荒れているはずだ。悪所通いも日常のことだろう。さすがは医者だ、知恵がまわる。

「では、そうしてくれますか。そこで思いついたのだが、前庭に築山を築こうと思います」

 仁平がそう言うと、何を的外れなと皆が呆れて騒ぎ出した。

「はっはっは、いたって正気ですよ。実はね……」

 仁平が語ったのは、落とし穴を掘るということだ。ただ、大量の土の処分に困るから、築山にして世間をごまかそうということだ。仁平の考えを理解すると、皆はほっとしたような表情をうかべた。

「では、どこを掘るのですか」

 こういう話になると園は怯えるばかりだが、その正反対なのが絢女だ。父親ゆずりの気性なのか、卑怯だとか手ぬるいと呟いていたが、自分たちのおかれた状況を考えれば、やむをえないと思い至ったようだ。

 仁平は、潜り戸の正面に深い穴を掘ることを提案した。それと、表通りに面した塀の内側に背の低い木を植え、塀から跳びつけるくらいのところに堀を入れることも提案した。他のところは、塀に沿って細竹を植えるとも言った。そうして、表の塀か潜り戸に賊を誘い出すという考えだ。

 なるほど効果はありそうだが、絢女は面白くなさそうな顔をしている。それはきっと絢女の誇りが許さぬのであろう。


「絢女、お前に懐剣の使い方を手ほどきしてやろう」

 富永絢女。体捨流の使い手である父親仕込みで、懐剣を使わせるとなかなかの腕前である。その使い手に、素人の仁平が意外なことを言いながらその場で立った。いよいよ笑えぬ冗談だと思いつつ、つられて絢女も立ち上がった。


「いいか、お前はゴロツキです。どうにかして私にいいがかりをつけたい。こっちへ来いと引きずって行きたい。そう思って掛かってきなさい」

 白扇を帯に差した仁平が棒立ちになった。

 絢女は、無造作に仁平の袖を掴もうとした。が、仁平は、斜め前に右足を踏み出した。すると、目標を失った腕がなおも伸びる。しかし仁平の体に触れてはいるのに何も掴むことができない。腕を広げて追おうとした絢女は、二の腕を何かが掠ったのを感じた。あっと思う間もなく、扇は首筋で止まっていた。


「なんですか、今のは」

 あっという間のできごとだっただけに、絢女は呆気にとられていた。しかしそれが夢ではない証拠に、自分の首筋に白扇が押し付けられている。

「わからなかったかね? 地味なようだが、これが懐剣の使い方です。これが本身だったら、お前の首は血しぶきを上げているはずです」

 なんでもないことのように仁平が答えた。本身であったら血まみれになってのた打ち回っているだろうと、絢女はぞっとした。しかし、こんなことが自分にできるのだろうかと不安そうだ。

「では、こんどは横で見ていなさい」

 そう言って、仁平は亥蔵を相手に同じことをしてみせた。

 こうすれば相手に掴まれることはない。そして、もち方はこうだ。あとは、剣を持ったまま手を突き上げるだけ。すると剣先は自然にここへ向かう。

 ゆっくり説明されると、なんだか簡単に思える。そこで実際にやってみると、何も難しいことではないことがわかった。ただ手を突き上げるだけのことだから。

「旦那様、私が覚えた懐剣術とは、いったいなんだったのでしょうか」

 構え、受け、攻撃。絢女は、これまでの修行を莫迦にされたように感じたのだろう。

「お前の懐剣術はたしかに勇ましい、見世物としては華やかです。しかし、それで相手を倒すことは……」

 ちょっと言いにくそうに言葉を濁した仁平、思い出したように手を打った。

「おつや、ちょっと訊ねるけど、あの男から便りなんぞはあるかね?」

 これまた唐突だった。訊ねられた娘も何のことやらわからず、返事に困っている。

「ほら、あの男だよ。橋詰様にあずかってもらった」

「とめさん……ですか? いいえ、なにも便りなどありませんが、それが?」

 男の名は留十(とめじゅう)という。仁平の下で働きたいと姫路に出てきたのだが、野卑な言葉遣をする男だった。それを改めさせるために勘定奉行の下働きとして預かってもらっていたのだ。

 仁平は言葉を濁して話題を他に向けた。

「それで今日のことだけど、泣き寝入りということにしましょう」

 と、そう言った。どうしてかと声が上がったが、それほど高額なものを奪われたわけではなく、なにやら目的がありそうなので知らぬふりをしておこうと皆を宥めた。そして奪われた銭を補填してやり、それとは別に全員に一分づつ分け与えた。思わぬ災厄への見舞いと口封じの意味をこめて。



 ゆかた祭りから一と月ほどたった暑い昼下がりのことだった。

 越前屋の門を夫婦と思われる武士がくぐった。二人とも笠を目深に被った旅仕度だ。子種屋の患者にしては早すぎる到着だし、勝手知ったように玄関で案内を乞うた。

「お待たせいたしました」

 そう言って取次ぎに出た絢女が目を丸くして相手を見つめた。

「父上、それに母上まで。いったいどうなされましたか」

 再会を喜ぶより先に、なぜ両親がそろって立っているのか不思議そうな様子だ。

「絢女、息災でなによりだ。これからまたここで暮すゆえ造作をかけるが、よろしくたのむ」

 笠を手にしたまま快活な笑みをみせたのは、絢女の父親である富永十郎左ヱ門だった。日田へ移封された松平家、その子安方警護役筆頭同心たる父がどうして目の前に立っているのか。御用の途中で立ち寄ったとも考えられるが、それならなぜ母が同行しているのだろう。鳩が豆鉄砲とはこのことで、絢女は挨拶すら忘れて突っ立っていた。

「御用でございますか?」

「いかにも。子安方の定宿を警護するためにやって参ったのだ」

 役目を終えた子安方が国元へ帰るのに通らねばならない西国街道。その姫路に気兼ねなく寛げる場所があるのはなにより有難いことだ。当の絢女だって江戸と姫路を幾度も通ったのだから意味はよくわかる。が、だからといってわざわざ警護をつけることが理解できないようだった。

「おい、遠来の旅人をいつまで立たせておくつもりだ」

 父と娘ではあってもそこは道理を弁えた者のこと、無作法に腰をかけることなどせず、仁平に取り次ぎを求めたのだった。


 仁平は、留十を寄越してくれることを望んでいたのだから、富永の来訪にたいそう驚いた。しかも夫婦揃ってのことなので合点がいかないようだったが、そのわけを知るとそれは心強いと言って手を打った。

 事のおこりは、留十を呼び戻そうと認めた文だ。仁平の今の店は、元を正せば徒歩組屋敷だ。子安方の創設に協力する代償として仁平に譲ったのだが、ちゃっかり子安方の本部として使われたという経緯がある。よって移封された今としては、姫路城下の下屋敷とでもいう位置づけになっているようだ。となれば警護役を常駐させるのに異論は出ないと考えたそうだ。

 ましてや、松平家が始めた闇の商売を奪われてなるものかと考えるのは当然のことだ。着々と実績を積み、藩財政に寄与しているのなら猶更のことだ。

「かくなる次第ゆえお奉行は言うに及ばず、国家老様よりも直々のお言葉を賜り申した」

 今は客間にすぎないとはいえ、元は奉行の執務室。富永は居心地が悪い様子で、しきりと腰をもぞもぞさせながら己の役目を語り、長屋を使いたいとも言った。

 葦戸が座敷に淡い陰を落としている。どこからくるのか、幾分ひんやりした風が通り抜ける。そんな空間でさえ尻こそばゆようだが、井戸水で点てた茶を出されるとあきらかに顔をゆがめた。

「いかがなされました。なんぞ粗相でもあったのならお詫びしますので、なんなりと仰ってください」

 富永が碗に手をつけようとしないので咲が先手をとって詫びると、富永は額の汗を拭きふきこう言った。

「このような格式ばったことは不得手でござる。実を申さば、どのように飲めば良いのやらも知らぬ有様。どうかご勘弁願いたい」

「そのような気兼なら御無用でございます。絢女さんが点てたお茶です、どうか勝手に飲んでください」

 茶の作法を知らないことを恥じているのだと咲は思った。無理強いは失礼にあたるし、どうしたものかと仁平をうかがったのだがそこは苦労人、おっとびっくりした表情をしてみせた。

「勝手に飲んで良いというのだね? 富永様、この座は咲の言うことは公方様の言うことと同じでございますよ。咲の赦しが出ました。作法に気をとられて味がわからないでは意味がありませんから、遠慮なくやらせてもらいましょう」

 片手で無造作に碗をつかむなり、ごくごくと飲んでみせる。

「これはなんと、型に嵌らぬ茶の美味なこと」

 いやいやと首を振って目を細めてみせた。するとつられて富永もおずおずと口にはこび、いかにも不味そうに干したのだった。


「ところで富永様、手前は留十を呼び寄せようと考えておったのですが、不首尾でございましたか」

 仁平が話題を変えると富永はあっさり否定し、今朝方赤穂の宿で別れたと言った。留十が富永と旅してきたことを知られないほうが良いだろうとの配慮だそうだ。勇んですっ飛んで行ったから、おそらく町の様子を探っているのだろうと呑気なものだ。そんなことより、富永は絢女のことが気になるとみえ、しきりと子は授かったかと訊ねて絢女を慌てさせた。

「まだか。楽しみにしておったに」

 いかにもがっかりした様子が皆の笑いをさそった。

「富永様、気落ちすることはありませんよ。あれだけ夜毎賑やかにしているのですから、近いうちに授かります。この勝が太鼓判を捺します」

 勝の一言に絢女が真っ赤になった。

「お勝さん、そういうことは気付かぬふりをしてあげるものです」

 咲がたしなめたのだが、叱るそぶりはまったくない。この家では、そういうことはあからさまなようだ。

「富永様がいてくださるというのなら、暮らしむきの道具がいりましょう。絢女さん、ご苦労ですが買い揃えてきてください。留十さんのぶんもお願いします。それから、ご両親がおいでになったのですから、きちんと文庫に結び直してくださいね」

 話が子作りに流れることを察したのか、咲はそれで話を打ち切るよう促した。


 留十が姿をみせたのは、夕刻の少し前だった。施療院の患者が退け、子種屋が店を開けるまでの一時が越前屋の夕餉時。勘定奉行の使いでしょっちゅう出入りしていた留十はそれを心得ている。勝手知った越前屋のこと、留十は案内を乞わずに勝手口に顔をのぞかせたのだが、まさに皆が箸をつけた直後のことだった。

「大変遅くなりました。時分(じぶん)(どき)を狙ったようですみませんが、御厄介になります」

 伝法な物言いは見事に矯正されてはいるが、無茶をしそうなところはそのままだ。

「留十さん、そんなところから入らなくても。お疲れでしょう、すぐに濯ぎを用意しますからね」

 即座に箸を置いた咲が立とうとしたそのとき、私がと言ってつやが立った。それを仁平が穏やかに見つめた。

「留十さん、挨拶は後でいいから手早く濯いで早く席についておくれ。皆が食べられないではないか」

 仁平をはじめ一同が箸を置いて待っている。そして案内された席には自分の食事が用意されていることを知って、留十は何度も頭を下げて詫びた。

 これで越前屋の男手が一挙に倍になったのだった。


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