一 発端
どの国でも同じことだが、何代にもわたって同じ領国を統治し続けることは稀なことだ。徳川家の一族である松平家でさえ、領国の仕置き不手際を理由に九州は日田へ国替えを命じられてしまった。後釜として乗り込んできたのは、本多家。徳川の譜代大名である。
領主が交替したところで庶民の暮らしに大きな影響はないはずだ。藩の許可が必要な商いにしても、一から仕切りなおすことなどありえない。また、領主が交替する度に沽券が無効になったのでは、住むところすら失ってしまう。つまりは、領主の交替は庶民とは無縁のことともいえる。なるほど大商人は藩の御用達を安堵してもらおうと日参し、これを機に藩とのつながりをもとうとする商人も日参する。しかし庶民の暮らしに変化はないはずであった。
この話の発端は、領主の交替が切っ掛け。つまり、今から二年前のことである。
新しい領主がやってきて、最初の一ト月か二タ月は何事も無く過ぎていった。異変がおきたのは三月目に入った、端午の節句がすんだばかりの蒸し暑い日だった。
その日の仁平は、患者がないことを幸いに菖蒲の手入れをしていた。患者が少ない日は珍しくはないが、朝から一人も来ないまま昼を迎えるということは久しくなかったことだ。日ごろ忙しくしていることへの、天からのご褒美なのだろうと仁平は思うことにした。そんな日くらい、行儀見習いへの指導も休ませてもらおう。むしろ、自分が口出ししないほうが円滑に事が運ぶというものだ。あと一ト月もすれば紫の花が庭を彩ってくれるはず。その時にはアジサイも青い花を楽しませてくれるだろう。ここが終わったらアジサイの手入れもしておこう。不要な脇芽をチョンチョン切りながら、花咲く庭を想像して楽しんでいた。
来客を告げに来たお園の顔が強張っていることを不審に思って訊ねてみると、供を二人従えた武士が、主人に用があると偉そうなもの言いをしているという。更に、供侍は険のある目つきで睨んだのだと訴えた。どちら様か訊ねる間さえ与えず、主人を呼べと横柄に言ったのだそうだ。
供を従えるくらいなら、ひとかどの立場にいるのだろう。が、訪ねた先で横柄な態度はいただけない。仁平はかるく手をゆすいで玄関へ行ってみた。
「遅い、何をいたしておるか。主はまだ参らぬか」
供侍の一人が声を荒げているのを仁平はまざまざと目撃した。戸惑っている咲のすぐ脇に、毅然と相手を見つめ返す絢女がいた。
「これはお待たせいたしました。主の仁平でございます」
慇懃に挨拶をしたのだが、供侍は横柄だった。
「何をいたしておるか。物産方与力の内藤様を待たせてなんとする」
来客を知ってすぐに応対に出たのだから、そんなには待たせていないはずだ。それとも自分をさがすのに園が手間取ったのだろうか。とはいっても屋敷内のことだから相手を怒らせるほどは待たせていないはずだというのに、いやに高圧的だ。
「申し訳ございません。物産方与力様がお越しとはついぞ存知上げませんで、前もってお報せいただければお待たせすることはなかったかと存じます」
仁平が深く頭を下げて詫びたのに納得しようとしない供侍は、嵩にかかって言い立てたが、当の仁平は涼しい顔をしている。
「中へ御案内しないことは御容赦ください。なにぶんにも女ばかりで暮らしております。どなた様であれ、手前の指図がなければ玄関先にてお待ちいただくよう命じておりますので」
恐縮して何度も頭を下げてみせた仁平は、そういって玄関先で待たせたことの説明をした。そして用向きを訊ねたのだが、このような場所では話せない内容だと供侍が吐き捨てるように言った。仁平にはその意味するところがまったく想像できない。たとえば借財の申し出のようなことならもっと裕福な店へ行くだろうし、かといって通じの施療をたのむわけでもなさそうだ。
用件がわからないことに加えて相手の素性も定かでないとあってはおいそれと奥へ通すわけにもいかず、仁平は黙って立ちつくしていた。するとますます供侍が声を荒げた。
「先ほども申し上げましたが、どのような御用でお越しになられたのか見当がつきません。それと、申し上げているように女ばかりの暮らしでございます。もしもの不安がございますので、どうか用向きをお聞かせいただきますよう」
もうひと粘りを仁平は試みた。そこまで相手が拒んでいることを察すれば、用向きを明かしはしないかと考えたのだが、これほどに高圧的な物言いをするということは、おそらく相当な無理を言いにきたに違いないとも思った。
仁平の応対は更に供侍を激高させたらしい。無礼者と言い捨てるなり、刀の柄に手をかけた。
驚いたふうをよそおいながら、仁平は相手の動きをじっと観察していた。供を言い付かるくらいだから、腕に自信があるのだろう。が、顔が強張っていると同様に肩が怒っている。たいした腕ではないなと見切った仁平の視界の中に、懐剣に手をやっている絢女があった。
「お武家様、ご冗談にも程がございましょう。手前どもがどんな御無礼をはたらいたと申されるのですか。用向きも申されず、そのうえ短気を起こされるようなお方とは話ができかねます。失礼ながら、このなさりようを止めない与力様も、同じ考えでおられるのでしょうか。だとすれば、手前がお役に立つことはないかと存じます」
顔を強張らせて怖がっているふりをしながら、仁平は言外に帰ってくれと言い放った。すると供侍は、「なにっ」と言うなり鯉口を切ってしまった。すかさず絢女が柄をわずかに引くのが視界に入った。
「絢女!」
鋭く制した仁平は主人と思われる侍に向き直り、冷たく言い放った。
「物産方与力様と申されましたな、たしか内藤様だとか。ですが生憎なことに手前はそのお方を存知上げておりませんのでな、お前様方が何者なのかを知りません。与力様の名を騙る不届き者かもしれませんでな」
「おのれ無礼な」と供侍が刀を抜きかかるのを制して、初めて主人らしき者が声を出した。
「儂が偽者だと申すか。何ゆえそう思うのだ」
「与力様ともあろうお方ならば、他人の屋敷で刀を抜かせるようなことはありますまい。いや、そのように短慮な供を伴うことすらなさらないでしょう。用向きも言わずただ闇雲に奥へ通せなど、どう考えても道理を外しております。いったん刀を抜いたら、相手を斬るのがお侍だそうですが、抜いたその刀をどうされるのですかな? 手前をお斬りになるのですか。なんと怖い、まるで押し込みでございますな。与力様ともあろうお方がそのようなことをなさる筈がない。違いますかな?」
相手を挑発するかのようなもの言いだ。
「いやそうではなく、儂は内藤だ」
すっかり疑われているというのに、偉そうな言い方を改めない。それでは話がまとまるはずがなく、不毛な押し問答が繰り返された。
「まことに申し訳ございませんが、手前からお招きしたわけではございませんし、用件を仰っていただけません。それでは埒が明きませんので、今日のところはお引き取りを」
ポツポツと雨が降り出したのを幸いに、仁平は三人を追い返してしまったのだった。
いったい何者だったのだろう、なんの用だったのだろうと話の種になったのも二日か三日のこと。日々の暮らしに追われていつのほどにか話題にすら上らなくなった。
物産方から呼び出しがあったのは、五日ばかり後のことだった。
物産方組屋敷で案内を請うと、あの供侍が姿を現した。そして狭い部屋で長らく待たされたのだった。
物産方与力の内藤という人物も、先日の人物であった。
「其の方、目付けに注進したようだが、この通り正真正銘の与力であることがわかったか」
勝ち誇ったような言い方だ。仁平は、なるほどと言ったきり口をつぐんだ。
「まあ良い、先の無礼は不問としよう。ところで仁平、当藩も国替えになったばかりで市中のことがよくわからぬ。また、国替えにともない財政がきつくなっておる。そこでだ、其の方に藩の御用を許そうと思い立ったのだ」
「仰ることの意味がわかりかねます。それに、手前は物産方に差配されるような商いをしておりません」
先の無礼とは、玄関先での不毛なやりとりのことだろうか、それとも目付けに訴え出たことだろうか。鞘走る所業を詫びるどころか、高圧的なもの言いが我慢できなかった。それに、藩の御用を許すということは、手先になれと言っているのではないか。それも恩着せがましく。しかし内藤は、仁平が鼻白んでいることなどには頓着せずに続けた。
「松平公は、余人の思いつかぬことをなされたとか。なんでも、お世継ぎに恵まれぬ大名に子を授けておられるそうな。それにより少なからず財政を持ち直しておるとの噂だ」
迂闊に言えぬ話とはそのことだったのかと仁平はそこで気がついた。そして、それを持ち出したということは、手伝えという意味なのだろうと察した。だが、子安方を作るのを手伝ったのは、勘定奉行に泣きつかれ、国家老に泣きつかれたからだ。勘定奉行はもちろん、国家老とも信頼関係が醸成されたからこそ尻を上げたのであって、権力に屈したからではない。あんな態度をとる内藤になど協力する気はまったくない。
「しかし上手いことを考えたものだ。子ができたとて男児ばかりとは限らぬからのう。よしんば男子を授かったとて、夭折されるやもしれぬ。二人目、三人目の男児を求めるのは必定。その都度礼金を手に入れることができるのだからのう」
脇息にもたれる姿が、なんともいやらしい。
「聞くところによると、其の方が深く関わっておるようだな、その仕組み作りに。どうだ、本多藩のために一肌脱がぬか。そのかわり、十分に褒美をとらすぞ」
柳の下のドジョウを狙っているようだが、仁平には莫迦にされているようにしか聞こえなかった。他人の助力を求めるのなら、威圧的になって良いはずがない。刀を抜くなどもってのほかだ。更に言えば、呼びつけておいて援助を求めるのも道理を外している。頭を下げるどころか、脇息にもたれるような人物の相手をする気にはならない。
「お言葉を返すようですが、何を仰っているのやら、手前には解しかねます」
「とぼけることはないではないか、調べはついておるのだぞ」
「さて、何を仰りたいのか本当にわかりません。手前は店を放り出された身でございますよ、藩のお役目に関わるなどありえぬことでございます」
それきり仁平は貝になった。内藤が宥めても首をかしげて黙ったままだった。
その後、三日目ごとに呼び出しがあったが、仁平は患者が多いことを理由に断り続けていた。すると、業を煮やしたのだろう、内藤がやってきた。施療中であることを理由に引き取らせようとしたのだが、ついに居座ってしまった。
施療待ちの患者を三人、特に念入りに手当てを施して世間話に付き合ってやると、ずいぶんと時間がたっていた。そして糞便の飛沫が飛び散っている仕事着のまま、庭先から座敷に姿をみせた。
「大変お待たせをいたしました。なかなか頑固な便秘者ばかりで、思わぬ時がかかってしまいました。大慌てで参りましたので、ちと汚れておりますが、どうぞご勘弁を」
沓脱ぎ石から縁にあがり、部屋には入らずに挨拶をしたのだが、衣服から便臭が立ち上っている。臭いを嗅いだだけで内藤はあからさまに厭な顔をした。
「なんという臭いだ。其の方、何をしておったのだ」
「ですから、便秘を治してさしあげるのが手前の務めでございます。手前どもに掛かる前には、皆さん薬でなんとかされているようですが、薬ではどうにもならなくなったお方もございます。五日も十日も腹にためこんでいるのですから、なかなか一筋縄ではまいりません。ですが、早く楽にしてさしあげないと命に関わることもございますので、尻に指を挿し入れて描き出すこともございます。今日も三人ばかり、そうして施療してさしあげたところでございます」
「尻に指だと? ほかにやりようはないのか」
「さて……、それしか思いつきませんもので。あっ、手はきれいに洗ってきましたので御心配なく」
涼しい顔で話を打ち切った仁平は、用向きを促した。
「先日申したことだが、良い返事を聞きに参った」
まさかこんな仕事をしているとは夢にも思わなかったものだから、憮然としている。
「それでしたら身に覚えのないことだと申し上げたはずです。ご覧のようなことをして暮らしておる者が、藩のお手伝いなどできますまい。どうか、その話はこれきりでお止めくださいませ」
中途半端な言葉では埒が明かないと、仁平ははっきりと断りを述べた。
「いやしかし、其の方は町の者に施しているではないか。できぬとは言えまい」
子種屋を指している。大名であれ町衆であれ、同じことではないかと言いたいのだろう。しかし汚物にまみれるのを日常にしていることを理由に、仁平はきっぱりと断り続けたのだった。
それでもなお内藤が助勢を求め始めたとき、諍う声が響いてきた。
慌てて助けを求めにきた咲が供侍と絢女が揉めていると伝えた。何事かと駆けつけてみると、ふて腐れた供侍と、眦を吊り上げた絢女が対峙している。
内藤をつれてくるよう咲に言いつけた仁平は、内藤が来るまでの間ただ黙って二人を見つめていた。
「何があったというのだ。嶋村、わけを話せ」
ピンと張り詰めた空気を感じ取ったか、内藤が供侍に質した。
「何と申して、間違えて部屋を開けてしまったのを咎められました」
嶋村は、まったくの不注意だと自らみとめてみせた。
「嶋村殿と申されたな。よくもそのような嘘を平気で。恥ずかしくはないのですか」
すかさず絢女がぴしゃりと言った。
「武士に対して嘘つきよばわりとは穏やかでないが、そうではないのか?」
「いえ、間違えたことに相違ございません」
内藤が問い質すと嶋村は面目なさそうに答えた。
「嘘の上塗りをなさるか、恥を知りなされ」
すかさずそれを否定した絢女は、さらに眦を上げて嶋村を睨みつけた。
「お女中、念のために申しておくが、武士を嘘つきよばわりするは感心できぬ。万が一にも違っておれば、内々では済まなくなることをよく心得ておくことだ」
絢女は、仁平の妾となってからは帯の結び方を他の者と同じにしている。着ているものも髪型も皆似たり寄ったりだ。だから絢女の素性を知らぬ内藤は町娘と思ってしまったのだろう。が、前回同様に、絢女は懐剣を帯に差している。それをどう捉えているのかは判らないが、内藤は絢女を町娘と勘違いしているようだ。
「内藤様、お言葉ではございますが、これは歴とした士分でございます。相手を貶めるような虚言を申したことなどございませんし、これからも正直であろうと思います。ただいまの申されようでは、これが嘘を言いたてているように聞こえます」
絢女の肩をもつと言われればそれまでだが、仁平は相手を見くびるなと暗に言った。
「士分だと?」
「はい。お赦しをいただいて主家から離れはしましたが、上女中でございました」
「そうか、知らぬこととはいえ、無礼な物言いをした」
おやっという顔をして、形だけ目礼をしてみせたのだが、事の仔細を問い質そうとはせずに、絢女の姓名や城勤めの際の役向きを知りたがった。
「そのようなことは、この揉め事とは係わりがございません」
仁平は答える意思がないことを告げ、絢女にいきさつを話させた。
仁平が内藤と話し始めてすぐに嶋村が用足しを訴えたので、絢女は厠へ案内した。厠の前で待つのは不躾だと思い、近くで娘たちが手習いをしているのを見にいったのだという。暫く待ったが出てきた様子がなく、自分で部屋へ戻ったのかと見に行った。しかし戻ってはいないので迷ったのではないかと探したと言った。そして絢女の部屋の障子が開いていることに気付き、覗いてみたのだという。そこで絢女は、自室を物色する嶋村を見つけたのだそうだ。
「このように申しております。お前様の言うこととは少しばかり違うようですが、どちらが本当のことでしょうか?」
仁平は困ったような顔をつくろって嶋村に問うてみた。
「すでに申したとおり、間違えてしまったのだ」
大きく頷いた嶋村が詫びるつもりか小さく会釈をした。
「この愚か者が。間違えるなど、弛んでおるゆえ無様なまねをするのだ」
内藤が吐き捨てるように言った。が、言ったのはそれだけだった。先を促すつもりで口を挟まなかった仁平だったが、内藤が黙ってしまったのでいくつか訊ねてみることにした。
「では手前からお訊ねしますが、お咲や、お前が最初に嶋村様を部屋へ案内したのだろうと思うのだが、どこへ御案内したのだ」
「はい、玄関を上がってすぐの部屋へ御案内しました」
それは玄関番が詰める四畳ほどの部屋である。
「手洗いに案内した折、部屋の入り口は閉めたかね?」
「いえ、障子は開け放しておりました。この蒸し暑さですので、閉めれば汗まみれになってしまいます」
そう答えたのは絢女だった。そこで仁平は嶋村に障子のことを訊ねたのだが、障子のことなど念頭にないと言った。そこで、部屋の調度が違っているのを不思議に思わなかったと訊ねてみると、妙だと感じたそうだ。そして、悪気はなく部屋に立ち入っただけだと答えた。
「また嘘をつく。ただ立ち入っただけなら、何故手箱の蓋を持っていたのです。箱の中味を漁っていたではありませぬか」
ずっと黙っていた絢女がたまらずに声を上げた。
仁平が絢女をちらっと窺い、更に問い質した。
「話が違いますなあ。お前様は部屋に立ち入ったことはお認めになった。だけど、立ち入っただけだと。しかしこれは、お前様が手箱を漁っていたと申しております。これはいったい、どういうことでしょうかな?」
「いや、それは……。め、珍しかったゆえ、つい蓋を開けてしまった。それだけだ」
すると絢女は手箱を部屋の真ん中に置き、検めると言って蓋を取った。
一番上に懐紙が押し込まれたように載っていて、その下には櫛と笄が乱雑に重なり合っている。
「蓋を取っただけだと? 謀るでない、漁っておるではないか」
絢女がきっとして振り返った。
「誰かが捌いたというのだな?」
「当たり前です。このように折れ目がついた懐紙を他人に見せられますか」
仁平がそう言うと絢女は手箱を取り上げて仁平に見せた。なるほど、真ん中辺りが斜めに折れた懐紙など、人前に出せぬものである。
「嶋村様、申されることと箱の中味が一致しませんな。ご説明願いましょうか」
仁平の追求が厳しくなった。
「い、いや……。何が入っているのかと気になって」
「珍しいものがありましたかな?」
「いや、松葉に鈴が結わえてあるのが珍しかった。あれなら帯に留めるのに都合が良いと」
それを聞いた絢女が顔を真っ赤にした。
「それで、それをどうするつもりだったのですか。断っておきますが、お前様のしたことは盗賊と同じです。目付けに訴え出ることにいたしますでな」
仁平は刺すような目で嶋村を睨みつけると、内藤に向き直った。
「明らかになりましたな。このお方は用のない部屋へ無断で立ち入ったばかりか、部屋の中を物色致しました。それをしたのは貴方様の供でございます。普通に考えれば、供を叱責するのが道理でしょう。が、貴方様はそれをなさらない。つまるところ、家捜しをさせた。そういうことでございますかな? ではお訊ねいたしますが、なんの嫌疑でございましょうか」
言葉つきは丁寧だが、厳しく内藤を責めたてた。
「そうは申すが、誰しも間違うことはある。ここは穏便に取り計らってはもらえぬか」
道理を通した言い分を聞いていなかったかのようにトンマな返答をする内藤を、仁平は呆れて見つめていた。そして内藤に向かって一歩近づいて念押しを言った。
「間違い……。なるほど、手洗いから右に進むべきを左へ進んだは間違いだと。戸の閉まっている部屋へ立ち入ったのも間違いだと。他人の持ち物を物色したのも、すべて間違いということにせよと仰るのですな? 内藤様、さきほどこのように申されましたな、武士を嘘つきよばわりしたら内々ではすまないと。では、貴方様の供はこの絢女を嘘つきにしようとしました。濡れ衣を着せようとしました。どう始末をお付けになりますか」
ここまで言ってわからぬのなら、それでけっこうだと言っているように聞こえる。まるで見下すかのような言い方だった。その証拠に、内藤がなにか言いかけたのを遮って、仁平ははっきりと言い放った。
「まず嶋村様とやら、今回は目をつむりましょう。ただし、二度と手前どもの近くに寄らないでもらいたい。次は、しかるべきところへ訴え出るから覚悟なさい」
射るように相手の目を睨みつけておいて内藤に向き直った。
「さて内藤様。とうとうこのお方をお叱りにならなかったですな。それはそれで結構。そのかわり、信用できないお方。手前にはそう映りました。手前になにやら手伝わそうとしておられるようです。が、申しましたように手前には心当たりがございません。あらためてお断り申し上げます」
「ま、待て。嶋村のことなればきつく叱りおくゆえ、機嫌を損ねないでもらいたい」
「いえ、もう済んだことでございます。なにも機嫌を損ねてなどおりません。何をさせようとしておられるのかさっぱり判らず、また、判ろうとも思いません。手前ごときにできることなれば、他の誰にでもできましょう。もちろん、手前よりも上手くできるはず。どうか他の者にお申しつけくださいませ」
「そのように短気をおこすものではない。なんと申して、其の方には一日の長がある。余人をもって替え難い」
「話を遮って申し訳ございませんが内藤様、ご用はお済みでしょう。いつ患者が参るか読めぬのが手前の務め。そろそろ施療院に詰めねばなりませぬでな、これくらいでお引取りいただきたいのですが」
表面的には愛想笑いを浮かべているものの、抑揚をつけない話し方はまったくの拒絶を表していた。
「お前様はまだそこにおったのか。早う出て行きなされ。二度と屋敷に近づかないでもらいたい」
嶋村に対しては、吐き捨てるように言ってのけた。非は相手にあるとはいえ、喧嘩腰に聞こえるだろう。しかし、仁平は遠慮などしなかった。