1-6 根拠の無い真実
真一の脳裏にあの夜、意識を失う前に見た、最後の情景が鮮明に浮かび上がった。。
吹き荒れる風のように、黒い獣が衝撃をまき散らしながら暴れまわり、異常な連中諸共真一を吹き飛ばす。それらの間から見えたのは、街灯の下、主役を照らし出すスポットライトのように闇を切り取る光の中で、傍らに一際大きな獣を従え、誰もが地に伏す中、唯一の支配者のように昂然とそれらを見下ろす少女。
「あー! あれはお前か!」
一度思い出してしまえば忘れるのが難しい程、印象的な情景だ。
ただ、支配者然とした風格があったように思える少女も、正体がカレンだと思えば、傲慢で腹立たしいとしか思えない。
「ふん! ようやく気付いたの? 間抜けにもほどがあるわ」
「おま、ふっざけんなよ! お前、あの場に居たんなら何であのまま放置しやがった!」
「うっさいわね。もう死んでると思ったのよ」
「馬っ鹿野郎が! 死んでたら放置していいのかよ!」
「こっちだって命がけなんだから、死体のお守りなんて、やってる余裕ないのよ!」
「こ、こいつ……」
あんまりな物言いに、真一は絶句する。
「ま、まぁまぁ、落ち着いて。―――カレンも、もう少し言い方に気を付けて」
「……はい」
「フン!」
仲裁する御幸に真一は不承不承頷き、カレンは鼻息で返事をする。
「まあ、今のでわかって貰えたと思うけど、真一君が遭遇した事態の一部を、私たちが知っているのはそういうわけなの。―――それで、君の事情は大体分かったから、ここからは私たちが知っている事を話すわね」
御幸は真一が落ち着くのを待つように前置きをして、説明を始めた。
「まずは君が『異常な連中』とか『赤い女』とか呼んでいる存在について、私たちはそれらを『鬼』と呼んでいるの。細かく言えば『異常な連中』は『赤い女』が操る『屍鬼』と呼ばれる、下級の鬼なんだけど、まとめて鬼でも間違ってないわ。分かり易く言えば、妖怪みたいなものだと思って貰えれば間違ってないわ」
「妖怪、ですか?」
「ええ、妖怪、化け物、モンスター。本当は何でもいいんだけど、つまりは古今東西で想像上の存在だと思われている人外。日本ではそういったモノを古くから総じて鬼と呼んでいるの」
自分自身が信じられない話をした側の真一だったが、妖怪などと言われてしまうと、どうしても胡散臭さが先に来てしまう。
「信じられない?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「いいのよ。最初っから全部信じられるわけないもの」
「すみません」
真一を見れば口では否定しつつも半信半疑、実際には八割方疑いの気持ちがあり、表情に出ている。
そして、本人もそれを自覚しており、恐縮する真一だったが、御幸はそれを笑って許し、説明を続ける。
「世の中にはそういった存在が確かに居て、金曜の夜に君が遇ったように時折、人に害を成す。でも、一般的に鬼の存在が認められていないのはなぜか? それは、鬼がこの世界とは別の世界に人を引きずり込んで襲うからよ」
また胡散臭い単語が飛び出したが、真一は黙って続きを聞く。
「そして、この別の世界―――私たちは真の夜と書いて『真夜』って呼んでいるんだけど―――普通の人は自力で真夜から現世に戻っては来られない。ただ、普通の人でなく、鬼に対抗する力を持ち、真夜と現世の境界を越えられる者達も居るわ。そういった者達の事は『越境者』と呼ぶの」
「越境者……」
「そう。カレンや―――君のような者の事よ」
「え?」
聞いた事も無い単語とその意味を飲み込むだけで精一杯、情報の正否も判断できないまま、話を聞くしかない真一は、御幸が告げた事を聞き逃しそうになる。
ただ、自分と結びつくはずの無い単語が自分と紐づけされた。
それだけはわかった。
「びっくりするわよね。―――あの夜、私たちは君を襲った鬼を取り逃がしてしまった。鬼が倒されていない状態で真夜に残された普通の人が、自然に現世に復帰した事例は過去一例も無い。つまり、君は越境者となって、自力で真夜を越えたのよ」
真一が金曜の夜に体験した出来事は、常識的に考えて現実離れし過ぎている。自身の記憶以外に確認出来るものが何も無いこの状況では、自信をもって確かにあったとは言えない。だから、確信が欲しくて、手掛かりを探している内にカレンと出会い、今、御幸から話を聞いているのだが、そこで更にファンタジーな単語がゴロゴロと出て来る。その上、自分が越境者なんていうものになった等と言われては、どんどん信用出来なくなってくる。
真一は自分でも信じられない話を聞いてくれた御幸に対して感謝していたのに、御幸の話を信じられない自分に後ろめたさを感じた。
それまでの常識と、かけ離れた話の連続と、感謝する相手を信じきれない罪悪感から真一は目を伏せ、混乱しつつも自分の中で今得た情報を整理しようと試みる。
そして、そんな真一の様子を見て、御幸は乾いた口を飲み物で湿らせながら、真一が落ち着くまで待つ事にした。
真一は気絶する前にカレンを見ていて、そのカレンも真一が鬼に襲われて、死にかけていたと言うのだから、それは本当にあった事のはずだ。では、鬼、真夜、越境者についてはどうだろう?
まずは鬼だ。真一が遭遇した異常な連中も、赤い女も絶対に普通では無かった。ただ、それだけで化け物の類と言えるような異常では無かったと思う。分かり易く空を飛んだり、口が耳まで裂けていたら素直に信じられた。少し苦しいが、あの程度では集団催眠、薬物依存者又は精神病患者の集団と言われれば、その方が現実的に思えてしまう。つまり、証拠不十分。
真夜についてはどうだろう。真一はあの場に自分の脚で歩いて行っており、その間に意識が途切れた瞬間も、誰かに攫われたという事も無い。仮に、真夜という別世界があり、鬼は獲物に何も感じさせないまま、そこに引きずり込めるとしたら、現時点の真一には、その存在を信じる証拠は何も用意できない。よって、証拠不十分。
最後に越境者だが、御幸が言うには越境者とは『真夜』から自力で現世に帰還出来る者の事を差す、との事だ。つまり、真夜の存在が確認できない事には判断しようが無い。真一自身、鬼(仮)に襲われた自覚はあっても、真夜に引きずり込まれた実感は無く、そこから帰還したから越境者と言われても、信用する根拠が無い。だから、これも証拠不十分。
整理してみると、何一つ確信に至る根拠の無い話だった。ただ一つ信じる理由を探すなら、御幸への信用しかないのだが、冷静になって話を整理した結果、真一はある事に気が付いてしまった。
真一が御幸を信用する理由は、自分自身信じ切れていない話を否定せず、真剣に聞いてくれたからなのだが、そもそも御幸には初めから真一の話を疑う理由が無かった。なぜなら、現実離れした部分は御幸の仲間であるカレンが目撃しており、真一からは足りない前後の情報を聞き取りたかっただけなのだ。
騙したわけではないし、それを含めても御幸の人柄は悪くないように思える。ただ、必要以上に感謝したり無条件で信用する理由は無くなった。
真一は俯いていた顔を上げ、御幸と目を合わせる。
「正直、今聞いた話全部を全部、そのまま理解して信じる事は出来ません」
「はあ? アンタが知りたいって言うからわざわざ説明してやったのに、何言ってんの?」
真一の言葉にそっぽを向いていたカレンが、食って掛かった。
カレンのいう事も尤もだが、冷静に考えた結果、これが真一の正直な気持ちだった。
「無理も無いわね。むしろ冷静な判断だと思うわよ。普通の人にとっては、君の体験した事よりずっと突拍子も無い話だもの。いきなり聞かされて、そのまま鵜呑みにするようだったら、そっちの方が心配になるわ」
一方、自らの話を面と向かって信じられないと言われた御幸は、笑って真一の言葉を受け入れる。
その上で、話を続ける。
「現時点で、私達が共有している真実は金曜の夜、あの公園で君が複数の相手に襲われて、死にかけたという事だけ、という事でいいかしら」
「はい」
「では、『死にかけた』君が何故、無事なのかは気にならない?」
そう。
真一は喉に喰いつかれ、制服が真っ赤に染まる程の血を流したはずだ。それほどの傷を負い、血を失ったにも関わらず、現在、真一の首には傷跡一つ無く、貧血にもなっていない。だから、真一は自分自身の記憶を疑わざるを得なかったのだ。気にならないはずは無い。
「理由がわかるんですか?」
「ええ」
真一の問いに、御幸は事も無げに答える。
「カレンから君が無傷で居るって聞いた時から、予想はしていたの。でも、確信したのは今よ」
御幸が苦笑する。
「だって、目の前に証拠があるんだもの」