1-3 素人探偵の捜査と推理
五月の空は抜けるように青く、爽やかな風が吹き抜ける。
暑くも無く、寒くも無い絶妙な気候で、定年まで秒読みに入った古典担当の男性教師の授業は、お経か何かの呪文を聞いているようで、教室の中では机に突っ伏す生徒もちらほら、船を漕いでいる生徒は更に多い。
弛緩しきった月曜日の午後。真一はそんな教室の中、真剣な表情で席に座っていた。
授業を真面目に受けているわけでは無い。真一は黒板では無く、本日無断欠席をした榊原紅子の席をじっと見つめて考える。
先週金曜日の放課後、真一は紅子と一緒に下校した。
そして、通学路の途中にある小さな公園で、異常な集団と赤い女に襲われ、死ぬような怪我をした―――はずだった。
あの日、無数の獣と少女が現れた後、真一は意識を失った。
首筋に大けがを負った状態で気絶したのだ。そのまま失血死するのが普通だ。
しかし、そうはならなかった。
何がどうなったのか全く理解出来なかったが、真一は公園で人が倒れている、と通報を受けた警察官二名に揺り起こされ、何事も無く目を覚ました。その場には異常な集団も赤い女も獣も少女も、誰も居なかった。
赤い女に喰いつかれた首筋は一切傷ついていなかったが、制服のワイシャツはべっとりと血に汚れており、あの異常な出来事が夢では無いと強烈に主張していた。
夜の公園で、血まみれで倒れている男子高校生。本人に怪我は無いが、事件の匂いがプンプンする。追求は簡単な職務質問で済むわけが無く、パトカーで警察署へ連れて行かれ、結構な追及を受けた。
しかし、本人でさえ信じられない事態なのだ。警察が納得する説明など出来る筈もない。
結局、真一は公園に居た理由までは事実の通りに、なぜ倒れていたのか、制服を赤く染める血は誰のもので、どうして付着したのかについては何もわからないで押し通した。
結果、現在の保護者である叔父を呼び出される事態にまでなってしまった上、一晩、警察署に泊まる事となる。
翌日、何とか解放された真一だったが、その際、紅子が行方不明と聞かされ、後日、捜査への協力を求めるかもしれないと言われた。
公園で遭遇した連中が何者なのかも、自分がなぜ未だに生きているのかも、居なくなった紅子の行方も、一切全てがわからない。
もしかして全て夢だったのではと思い、傷の無い首筋を撫でるが、血まみれだった制服がそれを否定する。そして、行方不明の紅子の存在が混乱する思考を更にかき乱す。
警察の反応は完全に真一を疑っているものだった。
正直、あまりに異常な事態である為、真一自身も「ひょっとしたら」と考えてしまう。
ひょっとしたら、制服の血は自分では無く、紅子の血で、それは自分が紅子を―――と。
そこまで考えて、真一は首を振って嫌な想像を振り払う。
確かな物は何も無い。
今は紅子が無事に見つかる事を祈るだけ、そう自分に言い聞かせて集中できないまま、授業に意識を戻した。
結局、身が入らないまま、全ての授業を消化した真一は帰り支度を手早く済ませる。今日は記憶を辿りつつ下校し、紅子にしろ、あの夜の出来事にしろ、何かしらの手掛かりを探すつもりなのだ。
◇◇◇
通学路の途中、角を曲がればあの公園がある場所に、シャッターの閉まった元商店がある。その前で真一は立ち止まった。
看板の文字は掠れて読み取れず、いつも降りたままのシャッターは全体的に錆ついていた。この元商店が営業していたのは随分前の事なのだろう。
ただ、その元商店の前には自動販売機が設置されており、そちらは現役で使われている。
真一が登校時に確認したところ、これが公園を過ぎて最初にある自動販売機だった。
自動販売機前から直接公園は見えないが、角を曲がればすぐに公園で、自動販売機と公園の間はゆっくり歩いてもすぐだ。
公園前から自動販売機に行き、商品を購入して戻る。そこまでしても五分もかからないだろう。
紅子がこの自動販売機に飲み物を買いに来たのであれば、一人目の不審な男が公園に現れる前に、真一と合流出来たはずだ。
つまり、紅子は真一が連中に遭遇より前に、何かしらのトラブルに見舞われており、それは公園から見えない自動販売機前が怪しい、という事だ。
真一は何か手掛かりはないか自動販売機の周辺からはじめ、元商店、周辺の路地裏をうろうろと探し回った。
しかし、所詮は素人の探偵ごっこだ。
そう簡単に手掛かりなんて見つかるはずもない。
いい加減、少なくない通行人に不審な視線を受けた為、真一は自動販売機周辺の探索を一旦止め、公園へと向かった。
元商店の周囲をそれなりに時間をかけて探索したが、まだ日は沈んでおらず、公園には遊具で遊んだり、サッカーボールを取り合うグループ等、何人もの子供とその母親だろう一団が居た。
死にかけたせいで若干足が鈍っていた真一は、思わずほっと息を吐いた。そして、入ってすぐにある、あのベンチに腰を降ろし、あの時と同じように入り口に視線を向ける。
小さな公園は一メートル強のフェンスで囲まれていたが、網目状のそれは目隠しとしての役割は無く、自動販売機へ向かう角も見える。
あの日は太陽が沈んだ後だったが、月明かりがあり、人影が来るかどうかくらいは見て取れたのだ。
やはり、紅子に何かあったとしたらあの角の先、元商店の周辺に間違いないと真一は再確認する。
その考えに一つ頷いた後、今度は公園全体を見回す。
時間帯が違うので印象は大分変わるが、あの時は見渡す限りわらわらと、異常な連中が溢れていた。改めて考えると本当にとんでもない人数に囲まれていたのだと気づき、ぞっとした。
そこで、何か違和感を感じた。
何だろう?
真一は改めて周囲を見回す。
公園の中にはキャーキャーと騒がしい子供たちと、その母親らしき一団。体をゆらゆらさせているような、異常な奴は居ない。公園を囲む住宅からは、布団を叩くパンパンという音が聞こえて来る。フェンスの向こうを歩く、何人かの通行人も何らおかしな様子は無い。
そこまで考えて違和感の正体に気づいた。
そう。公園はフェンスに囲まれてはいるものの、外部からは丸見えなのだ。
あの日、いくら夜と言っても八時前の事だ。
周囲に住宅が立ち並ぶこの公園の中、あんな人数の人が居れば、その異常に誰も気づかないなんて事はあり得ない。
実際、真一を起こした警官は、公園で人が倒れていると通報を受けて来たのだから。
つまり、あの夜、真一が異常な連中に襲われ、赤い女に殺されかけたというのは妄想? 制服を染めた血は紅子のものか?
紅子と自分の身に起こった事の手掛かりを探しに来て、一番あって欲しくない結論を補強するような事に気づいてしまい、愕然とした。
真一はあまりの衝撃に思わず立ち上がっていたが、それが過ぎ去ると今度は力が抜け、ドカリとベンチに腰を降ろす。
確実な証拠ではない。異常な連中に襲われたというのが、夢や妄想の類という可能性は一気に高まったが、それがそのまま、真一が紅子に何かしでかしたという事にはならない。
制服の血が誰のものなのか分かれば良いのだが、それは警察の仕事であって真一に知る術は無い。
そんなはずは無いと思うものの、真一にはそれを証明する術も、自分自身が納得できる理由も無くなってしまった。
混乱、焦燥、不信、若干の恐怖、そして最後に大きな不安。
浮かんでは消え、沸き立ち溢れる様々な感情を、ため息と共に吐き出そうとするが、上手くいかず空を仰ぐ。
日は傾き、夕暮れ空は刻々と茜色から薄墨色へ移り変わっていく。
あんなに騒がしかった公園は徐々にその人口密度を下げ、もの悲しいような雰囲気を醸し出す。
家に帰っても誰も居ない環境になり、真一はこの時間がどうしようもなく嫌いになった。不安に押しつぶされそうなこの状況は、その気持ちを更に加速させるだけだった。
このまま、ここに居ても感情が悪化するだけだ。
真一は何も考えないように努め、ベンチから腰を上げて、ぎょっとした。
いつの間にか公園の出入り口に、真一と同年代の少女が一人立っていて、それがあの異常な男を思い出させたからだ。
しかし、落ち着いて見れば少女の様子に不審な点は無い。
白いブラウスに黒のパニエ、白黒ストライプのタイツ。モノトーンで揃えたファッションは、サイドテールに纏めたアッシュブロンドの髪色を強調する。犬の散歩途中なのか、横にはハスキーのような体つきの大型犬を連れている。
ただ、公園で遊ばせるつもりなのか、少女は犬をリードで繋いでいなかった。
人が少ない時間帯とはいえ、普通の公園で犬を放し飼いにするのは、明らかなマナー違反だ。それも大型犬では事故も心配される。
真一は眉をしかめ、少し遠回りになってしまうが、別の出入り口から公園を出る事にした。
あんな大きな犬に吠えかかられては堪らない。
しかし、踵を返す真一を少女は呼び止めてきた。
「ちょっとアンタ。何無視してんのよ」
「は? 俺?」
まさか声をかけられると思っていなかった真一は困惑する。
しかも無視とはどういう事だろう?
改めて向き合ってみると、少女は灰色の瞳をしており、アッシュブロンドの髪も天然ものだった。ただ、顔だちは日本人に近く見えるので、ハーフなのかもしれない。
真一に外国籍の知り合いは居ないし、ハーフやクウォーターもそうだ。
つまり、知り合いでも無く、挨拶をされたわけでもないので、この場合、無視をしたとは言わない。
しかし、少女の主張は違った。
「アンタ、今私と目が合ったじゃない。それを無視して出て行こうとするなんて、どういうつもりよ」
「いや、そっちから出ようと思ったけど、犬連れてるみたいだから別の所から出ようと思っただけで、無視とかしたつもりはないよ」
「はぁ? ロボがアンタに何かすると思ったっての? ロボを躾がなってないそこらの駄犬と一緒にしないでくれる?」
(公園でリードを外すような飼い主に連れられた犬の躾なんて信用できるかよ!)
一方的に絡んで来た少女の物言いに苛立つ真一だったが、ここで無用のトラブルをしょい込むほど子供でも無い。反論を飲み込み、愛想笑いでやり過ごす事にする。
「気を悪くしたなら謝るよ。でも、犬が苦手だからやっぱりあっちから行かせて貰うね。じゃあ」
別に犬が苦手という事は無かったが、そう言い訳して少女に背を向けた。
「あっ、待ちなさいよ! 話はまだ終わってないんだから」
「まだ何かあるの?」
「そうよ」
少女の高圧的な言い方にはカチンとくるものがあるが、こういった相手は下手に言い返す方が面倒になると思い、先を促す事にした。
「話って何だよ?」
ただ、これ以上変な言いがかりで絡んでくるつもりなら、今度は本当に無視して帰ってしまおうと決め、ぶっきら棒に言う。
しかし、少女の話は真一を驚愕させるのに十分な内容だった。
その最初の一言。
「アンタ、何でまだ生きてんの?」