1-2 死を拒絶する
既に日は完全に沈んでおり、街灯もまばらで薄暗い小さな公園。隅っこに古い遊具がぽつぽつと並び、一歩踏み込むだけで、全体を見渡せる程度の広さしかない。
紅子が言った通り、公園に入ってすぐの所、電灯の下に木製のベンチがあった。
雨曝しのベンチは少し痛んでいたが、座るのを躊躇う程ではない。真一はそれに腰掛け、紅子を大人しく待つことにした。
スマホを取り出して時刻を確認する。
午後7時20分。
夜の時間だ。
「委員長、遅いな」
紅子は自販機に行くと言っていた。
真一が豊ヶ原高校に通うようになって一ヶ月弱。通学路で迷う程ではないが、その道の中、どこに自販機があるか等、いちいち覚えていない。そんな状態で迎えに出た所で行き違いになるかもしれない。
真一は浮かしかけた腰を降ろし、公園の入り口を気にしながら、もう少し待つ事にした。
待つことしばし。
「あっ」
公園の入り口に人影が現れた。
「委員長―――?」
一瞬、やっと委員長が来たと思い、ほっとした真一だったが、どうも様子がおかしい。
電灯の光に慣れた目では、暗がりに居る人影は見づらい。ただ、人影は女性にしては大柄で、体を左右に揺らしているように見えた。
それは酔っ払いのような頼りない足取りで、ゆっくりと真一の座るベンチに向かって来る。
近づくにつれ、だんだんとその姿がよく見えるようになってくる。
人影だった人物が、電灯の光で浮かび上がる。
年は真一より少し上位だろうか、ダボっとした服装をして、短く刈った髪を金色に染めた、全体的にやんちゃそうな雰囲気の男性だ。体も頭もふらふら揺らし、パッと見では酔っぱらっている様子だが、視線だけはぴたりと真一に定められている。
目がばっちりと合い、真一は自分が相手を凝視していた事に気づき、慌てて目を逸らす。
足取りが不確かで、見た目穏やかに思えない相手を凝視してしまった場所は夜の公園だ。変に絡まれる条件は十分に充たされている。
男は真一から二メートル程離れた位置で立ち止まった。
足元に落とした真一の視界の端に、男の足先が見える。視線を戻して確認するまでも無く、痛いくらいの視線を感じている。
粘度が増したような重い空気の中、どれくらいそうしていただろう?
真一としては長く感じていたが、実際はほんの数秒後の事だ。
じゃりじゃりと砂を踏む音が聞こえてきた。
男の足は視界の端で動かないまま。
居心地の悪い空気を変える存在の登場に、真一は顔を上げた。
しかし、そこに居たのは無関係の第三者ではなかった。
じゃりじゃりと足音をたてる人々。
そう。真一に向かって来るのは一人二人ではなく、正面だけで五人。視線を巡らせればベンチを囲むように十人以上の人影が見える。
そして、男が入って来た入り口やそれ以外の入り口からもまだ入って来ているようで、その数はどんどん増えていく。
主婦らしい普段着の女性、スーツ姿の中年男性、どこかの学校の制服を着た女の子。その年齢性別はバラバラだが、背を丸め、脱力してだらりと手を垂らした姿勢で、視線だけがまっすく真一を捉えているのは全員共通。
「え? え?」
男だけにじっと見つめられていた時の比ではない異様な状況に、真一の頭は完全に空回りし始めた。
せわしなく視線を往復させ、無意味な声を漏らすだけで、どんどん増える人影を見ている事しか出来ない。
突然放り込まれたホラー映画の一場面のような状況。
映画であればこの後はお決まりの展開だ。
つまり、真一は何も意味のある行動を取れないまま、異常な連中に完全に取り囲まれた。
次の瞬間。
「や、やめろ! やめろ、来るな、やめろ!」
みっちりとした人垣を作り、真一を完全に囲んだ連中が一斉にその手を伸ばし、それまでの緩慢な動きとは打って変わって獰猛に掴みかかって来た。
直接的な暴力に曝され、それまで有効な行動が一切取れていなかった真一もようやく抵抗を始める。大声を出し、腕を振り回して伸びて来る手を片っ端から叩き落とす。
しかし、全周囲を囲まれた状況でそんな抵抗は無意味だ。
すぐに背後から伸ばされた無数の手に、服や髪を掴まれ、背中から地面に引き倒された。
「かはっ」
乱暴に引き倒された結果、真一は肺の空気を一気に吐き出し、衝撃で次の息を吸う事も出来ない。
もだえる真一の様子に頓着する事無く、周囲から無数の手が伸び、押しつぶすような勢いで足、腕、体、頭が地面に押し付けられる。
真一の顔はかろうじて上を向いていたが、その視界に入るのは、自分を地面に押し付ける無数の腕。そして、感情の無い顔ばかり。星の無い夜空すら見えない。
真一は恐怖した。
この後、自分がどうなってしまうのか分からなかったし、完全に抑え込まれた絶望的な状況だ。この何の感情も無く異常な行動を起こす群れが、次にどんな行動に出るか想像も出来ない。
しかし、これで終わりでない事は確かだ。
(いやだいやだいやだいやだ)
ガタガタと体が震えようとするが、それさえも抑え込まれ、体中に力が貯まり、石のように固まってしまう。
あまりの恐怖に涙が溢れ、真一の視界がぼやける。
そして―――
「お退きなさい」
真一のフーフーと荒い呼吸音だけが響く、静かな夜の公園に、場違いな程穏やかな声が加わった。
真一を拘束していた腕が次々離れていく。
完全に自由にはならなかったが、腕と足、最低限の拘束を続ける以外の連中が、真一から離れ、人垣が割れる。
見通しの良くなった視界に現れたのは赤い女性。
安っぽい白い電灯の光が、ステージのスポットライトに変わったように感じる程、華やかな女性。
ストレートの長く艶やかな髪も、その身に纏ったドレスも、艶然と笑みを浮かべる口元さえも赤い。
頬や首元、大胆に開かれた胸元は血の気が感じられない程白いのに、その女性はどこまでも赤だった。
地面に組み伏せられた真一からは逆光になり、容貌の細部は見通せないが、美しいと感じた。
女性は状況も忘れ、見惚れる真一の様子にクスリと笑い、無言でその身を寄せる。
豪奢なドレスが土に汚れるのにも頓着せず、跪くと真一の胸元に指を伸ばす。愛しむように優しく、指先で胸元を撫でまわした後、心臓の上に手を置いた。
根本的に状況は改善されていないくせに、雰囲気だけ一変してしまい、真一は混乱の極みにいた。
女性の絶妙な指使いに、恐怖以外の理由で心臓が跳ね、それに気づいた女性が笑ったように思えた。
女性は真一の胸に手を置いたまま、上半身をゆっくりと倒す。顔は真一の顔に向けたまま、胸元に頬を寄せ、ゆっくり、ゆっくりと真一の身体の上を登って来る。
状況を忘れたように真一は、女性の淫靡な仕草と、笑みを浮かべる口元から意識が離せずにいる。
やがて女性の顔は肩を超え、首元に辿り着く。
ぞわりと痺れたような震えが、真一の背筋を電気のように走り抜けた。
ぺちゃぺちゃと湿った音が響く。
真一の首筋に顔を埋めた女性が、そこに舌を這わせているのだ。
「く、あぁっ」
初めての感じる快感に、真一の口から吐息が漏れる。
困惑から混乱、暴力に曝され、恐怖に震え、呆然として快感に翻弄される。
目まぐるしい状況の変化に、真一の中の現実感はすっかり失われてしまった。
固まっていた身体からは力が抜け、腕や足を抑える幾つもの手の感触は薄れる。首筋を這いまわる女性の舌の感覚だけが、その存在感を増していく。
真一が快感に酔っている事を感じた女性はくすりと笑い、舌の動きを止める。
快感が止み、真一が状況を思い出す前に、力が抜け、緩んだ緊張感の穴を抜ける様に、女性は真一の首筋に喰らいついた。
「っ!!!」
悲鳴は上がらない。
力が抜け、緩み切った肉を一気に、食い破る勢いで喉を締め付けられては、悲鳴も上げられない。
快感から一転した激痛に、真一はめちゃくちゃに暴れようとしたが、両手両足は拘束されており、それも成せない。
真一の首筋から溢れる血を女性はじゅるりじゅるりと音を立てて啜り上げる。
結局、真一は一方的に蹂躙されるしかなかった。
どれくらいそうしていただろう。
一瞬の事だったかもしれないが、その苦しみが永遠にも感じられた。
体から血と共に力が抜けていき、呼吸さえままならないせいで、急速に意識レベルが落ちていった。
いつの間にか、女性は真一の上に馬乗りになり、上半身を起こして、真一を見下ろしていた。
口元から抜ける様に白かった胸元は、真一の血で真っ赤に染まっていたが、逆光の中、満足気に微笑む女性をそれでも美しいと思った。
既に痛みは無く、息が出来ない苦しさも去っていた。
ただ、体から体温が抜け去ったように、寒さだけが感じられた。
(ああ、俺はこのまま死ぬんだろうか?)
真一にとって、死と共に思い出されるのは家族の事。
合格していた地元の高校に通う事も出来ず、叔父一家が住むこの街の高校に転入せざるを得なかった。
真一だけを残し、両親も一つ年下の妹も、一度に事故で失った。
真一は、突然の不幸に呆然としながらも、死を望む事は無かった。
それがこんな形で唐突に訪れるのか。
(嫌だ)
死とは理不尽なもの。
誰もが逃れる事の出来ない、いずれ訪れる終わり。
事故当日の家族も、朝起きる時、家を出る時、事故に遇ったその時でさえ、自らの死を予感したりはしていなかっただろう。そして、そんな唐突な終わりに納得したはずもない。
(嫌だ)
だから、真一はそれを拒絶する。
腕も足も抑え込まれたままだった。
それでも、霞む視界に女を捉え、意思を持って、自らに理不尽な死を運ぶ相手を睨みつける。
「あら、急に元気になるのね?」
真一の瞳に抵抗の意思を見て取った女は、からかうように言い、笑う。
体は感覚を失っているし、自らが望む程、視線に迫力など出ていないだろう事を真一は理解していた。それでも、潔く最後を迎えてやるつもり等、さらさら無くなっていた。
理不尽な死なんて、最後の最後まで納得してやるものか。
そう思い、真一は女を睨み続ける。
「うふふ。ああ、良いわ。その目。命の灯が消える間際。絶望に染まり切らない、強烈な光がゆっくりと抜けていく。そして、かすかに残る輝きが、ふっと消える瞬間。そこには絶望だけが残る―――ああ、堪らないわ」
女は再び上半身を倒し、真一の顔の横に手を突くと、覗き込むように顔を寄せる。
真正面から視線を合わせ、言った通り、意思の光が瞳から消える瞬間を見逃すまいと、額を合わせて覗きこむ。
「ああ、今かしら。もうかしら」
女が歌うように言う。
真一は薄れゆく意思を感じながら、それでも少しでも長く、呪うように女の目を睨み返す。
しかし、終わりは間近に迫っていた。
(ああ、悔しいな)
もう数センチも離れていない女の目さえ見えない。真一の瞳から光が失われようとする、その瞬間―――
女を、周囲の連中も、死を目前に控えた真一さえも巻き込み、黒い風が吹き荒れる。
地面をごろごろと転がり、衝撃が気付けになり、失いかけた真一の意識が一瞬だけ戻る。
不確かな視界で最後に見たのは、吹き荒れる風のように駆ける無数の黒い獣と、女からスポットライトを奪うように入れ替わり、電灯の下に立つ一人の少女。
真一の意識が続いたのそこまでだった。
目の前から女が居なくなったせいか、吹き飛ばされた衝撃が止めになったのか、ぷっつりと終わりが訪れた。