悠久の。
夜の帳が昼の支配者を西の山裾に追いやるのを、ジルはただ一人静かに眺めていた。人々は太陽が去り際に残す輝きを美しいと賞賛するが、彼には僅かな感動もない。まるで心が凪いでいる。
間もなく訪れる闇の世界は、自身や同胞にとって本来の活動時間であり、故に大きく力が増す。その時を今か今かと待ち構える同胞たちの影が、そこかしこで蠢いていた。興奮が此方にまで伝わるようだが、それさえもジルの心を高揚させる事はない。
振り向けば、西陽を受けた自身の影が、長く長く石畳の道を切り裂いている。
一度死んで、蘇った。その時に落としてきたものが、多くある。拾いに戻ることは叶わなかった。歪な形にかけたまま、死した器に閉じ込められた魂は、二度と元には戻るまい。
美しい夕景も、見る者が自分一人では無価値に等しい。嘲笑しながら、ジルは人気のない街路を歩き始めた。
街の者は皆、日が傾く頃に仕事を切り上げ、家の中へ篭ってしまった。窓も戸も固く閉ざされ、一筋の灯りさえ漏れてはこない。唯一、宿を兼ねた酒場だけが、営業の賑わいを零していた。
入店を知らせる鐘が鳴る。ジルが身を屈めて木戸を潜ると、店内の喧騒は波が引くようにして静まり返った。二メートルを超す長躯の男が突然現れたのだから、驚くのも道理である。
感嘆や驚愕の声が、そこかしこで湧き始める中、ジルはカウンター席に腰を下ろした。マスターらしき初老の男が、すかさずオーダーをとりにやってきた。
「ブランデーを頼む。それから、宿をとりたいのだが、部屋は空いているか?」
「ええ、空いてございます。しかし、その……お客様のお体に合うベッドの用意が……」
「構わぬ。ひと部屋、用意してくれ」
「かしこまりました」
どうせ寝る必要のない身体である。ベッドのサイズなど、どうでもよいことだった。
いつの間にか、店内は前までの騒々しさを取り戻していた。すでに酔いの回った客たちは、ジルの異様さにも寛容であった。
「この街は一日を終えるのが早いな」
「そういう習慣なのです。この辺りの街は、どこもかしこもそうですよ。お客様は、遠くからおこしで?」
ブランデーを注ぎながら、マスターがジルを横目で見やる。怪しげな客の正体が気になって仕方ないらしい。
「世界中を旅して回っている」
「それは楽しそうですな。お仕事ですか?」
「ああ、怪奇事件の噂を取材しているのだ。この街にも、そういう話があると聞いた。何か知っている事はあるか?」
「知っている事でございますか……」
ブランデーの入ったグラスが、ジルの前へ配された。琥珀色の液体が揺れ、光を反射して輝く。
「街の者なら皆が知っている程度の事しかございませんが」
「それでいい。話してみてくれ」
「では……」
ある夜、一人の男が姿を消した。仕事場から自宅へ帰る間の事だ。
酒も女もやらぬ真面目な男で、仕事を終えると真っ直ぐに、愛する妻のもとへと帰っていく。それが、その日は帰らなかった。
それを皮切りに、街の男が次々に行方を晦ました。長い間に、何人も。いずれも日が暮れてからの事である。
やがて街の男たちは、夜間に出歩くのをやめた。仕事は早朝から始め、日没までに切り上げる。それで、消える者は格段に減った。
そうして、すっかり新たな行方不明者が出なくなった頃、消えた男たちが一度に見つかった。正しくは、消えた男たちだった物、である。
それは語るのも悍ましい、酷い死に様で、街から続く山道の森に打ち捨てられていた。どの遺体にも、二つの小さな穴が並んでつけられていた。
誰の仕業か、分からぬ者はいない。山道を進んだ先にある古い館に、吸血鬼が住んでいる事は、昔から噂されていたのである。
「今はもう昔の話で、吸血鬼を恐れて始まった習慣が残っているだけなのです。もちろん吸血鬼なんて、いやしませんが。こうして集まった旅の皆様に、お酒を楽しんで頂ける程度には安全な街ですよ」
そう言って、マスターは話を締めくくった。
ジルはティーカップに注がれた紅茶の色に、当時のブランデーを思い出していた。千年来の友人にこの話題を振ったのは、きっとこの琥珀色によるところが大きい。それまでは、すっかり忘れていたのだから。
「言っておきますが、僕はやってませんよ」
話を最後まで静聴していた友は、そう感想ともつかぬ呟きを零した。
「分かっている。ヴァンピルゲンとは異なる街だ。しかし、程近い場所ではあった。立地条件もよく似ている。お前の伝説を耳にした模倣犯の仕業であろう」
「分かっていて行きましたね?」
「なかなか豪胆な犯行だ。人の所業とは思えぬ残酷さがよい」
「勧誘ですか……。当人である僕は迷惑しているというのに」
「今のお前にとっては、煩わしい事であろうな。いや、しかし、始祖の再来とまで言われた、あのクラウス・ミュラーが、まさかヒトの女を愛していようとは」
「貴方こそ、しばらく見ないうちに家族ごっこを始めたとか」
お互いに皮肉を言うだけで、言及するような事はしなかった。ジルは元々口数の多い方ではない。クラウスもまた、多くを語るような男ではなかった。友人関係が千年以上も続いているのは、丁度良い具合に双方の空気感が合致したからであろう。
「さて、私はそろそろ行くとしよう」
カップに残った最後の紅茶を飲み干して、ジルは席を立つ。クラウスは座したまま、それを見上げた。まだ、その場に居座るようである。
「そうですか。では、またいずれ」
それがいつの事になるのか、当人たちにも分かりはしない。数十年、あるいは数百年の後かもしれない。
いずれにせよ、二人の時の流れは、この先も果てしなく続くのである。
Cirque du abime 番外編クロスオーバー。
フォロワーの佐古さん( @otinpokosan )のキャラクターからクラウスさんをお借りしました。