あ がなうには
暗い部屋の中を、花菜はかまわず歩き続けていた。
詩帆がながめる絵本はとうにおしまいのページをすぎていて、それでも小さな指はなにもない空間をめくっていた。
妻子を殺された。なのに警察をよべない。被害者なのにこの後の処遇に困って、途方に暮れている。
そんな早朝にいきなり、その女はおしかけてきた。
「花菜いる? ねぇ、花菜よ。いるの? それとも、まだ生きてるの?」
ぼさぼさの髪に、寝ていないのか目の下がどす黒い。全身から酸っぱい臭いをさせている。
「どちらさんですか? 今、ちょっとたてこんでいて……」
頭のおかしい路上生活者なのか。いや、花菜の名を呼んでいるので敬大の知らない友人だろうか。
どちらにしても、今、家にあげるわけにはいかない。
家に上がり込もうとする女と、敬大は狭い玄関先でもみあう。
「ねえ、なんで警察に言わないの? なんで? わかった、あれでしょ、保険金」
女は、得心したようににんまりと笑った。
「どうやるの? かくしておいたら倍になる方法とかあるの?」
ぎらぎらした目の女は、敬大に詰め寄りその二の腕を遠慮なくわしづかみ、唾を飛ばしてしゃべり続けた。
「だったら、わたしにもそのお金分けて。半分、ううん、四分の一でいいわ。だって、私が殺してあげたんだもの。花菜とそのこども。お礼くらいくれなきゃ、ね?」
私が殺してあげた。
花菜とそのこども。
女が連発する意味のわからない言葉の中で、それだけがすっと敬大の耳に染みこんできた。
それは毒の水のように、敬大の手足をしびれさせ、じわりと頭の芯が熱くなる。
「あんたが、殺したのか……? 花菜と詩帆を?」
「そうよ、私が殺してあげたの。だから――」
浅く速くなる呼吸。割れそうな鼓動。ブレーカーが落ちるように、敬大の五感のすべてがそぎ落ちて――。
「おまえは、あほぅだな」
その声で、我にかえる。
鰐口を鳴らすような低くくぐもった声に、清明を取り戻す意識と視界。
敬大は女に馬乗りになり、女の首を絞めていた。
油粘土のような湿り気をおびた気色の悪い感触に、指が喰いこんでいる。もぎ離そうにも、なぜか離れない。
そして声の主は、獅子舞のように倒れた女の頭をくわえて歯をならしていた。
黒い犬だった。
「……死神……」
黒い犬は、敬大の固まった手を鼻先で押した。ひんやりと湿った感触。
はりつく手はあっさりとはがれて、敬大は力なく尻もちをついた。
女の死体を挟み、にらみ合うことしばし。黒い犬が鼻を鳴らして言う。
「おれたちは、死神なんかじゃねぇよ」
「うそだ。お前、死神なんだろう。お前が来たあとに、父さんが……」
幼いころみた老人の家でも、父の病室でも、こいつが訪れた後、死が訪れた。
「ちがう。おれたちは、死んだ体から魂をひっこぬくのが役目だ。
人が死ぬ。すると、おれたちがよばれて、役目を果たす。ただそれだけだ」
黒い犬の声はどこまでも静かで、感情の波も色もない。
キッチンを行き来する花菜の足音だけが、緩慢に響いている。
「なんで……なんで、おれだけが見えるんだ? なんかおれに恨みでもあるのか?」
「おまえがなんでおれたちが見えるかなんて、知らねぇよ。たまたま、そういうこともあるんだろうさ。
恨みもつらみもねえよ。ただ、おれたちは、おれたちの役目を果たす。ただそれだけだ」
黒い犬の役目。死んだ体から魂を抜くこと。それを敬大が邪魔をした。だから花菜と詩帆の身体は死んだのに、魂が残っているために、生きている時と同じように動き続けている。そういうことだろうか。
「じゃぁ、連れていってくれよ。花菜と詩帆を。このままなんてかわいそうすぎるだろう」
愛しい二人が無残な死体のまま、身体が朽ちるまであのままなど、敬大には耐えられない。一秒でも早く、救ってほしい。
そう願い、身を乗りだすようにして黒い犬につめよった。
「おれたちに、二度目はねぇんだよ」
しかし、黒い犬は淡々と告げた。顔をのぞきこみ、問いを重ねようとする敬大を避けるように、ゆっくりと歩いていく。
リビングに入ると、歩く花菜と絵本を読む詩帆をじっと見つめた。
ふらふらとその後をついていく敬大の目の前で、先っぽの白い指し尾がゆらりゆらりと動く。そののんきさに、わずかにいらついた。
「このままでは、コトワリがユガム。おっつけ、ヨジレをタダスやつらがくるだろう」
「なんだ、それ……? まさか、これ以上ふたりに痛い思いとかさせるんじゃないんだろうな?」
「そいつらがどんなんで、どうやるかなんておれたちは知らない。ただ」
黒い犬は自分を捕まえようとする敬大の手からひらりと逃げると、なぜか開いていた履きだし窓から外に出た。
茂る夏椿の横で、立ちすくむ敬大と、その隣に座りめくるページのなくなった絵本を読む花菜を見遣る。
「おしまいにつづきなんてねぇんだよ」
言い残し、身軽く黒い犬はかけ去っていく。どこか憐れむような声に聞こえた。




