表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

あ がなうには

 暗い部屋の中を、花菜はかまわず歩き続けていた。

 詩帆がながめる絵本はとうにおしまいのページをすぎていて、それでも小さな指はなにもない空間をめくっていた。

 妻子を殺された。なのに警察をよべない。被害者なのにこの後の処遇に困って、途方に暮れている。

 そんな早朝にいきなり、その女はおしかけてきた。

「花菜いる? ねぇ、花菜よ。いるの? それとも、まだ生きてるの?」

 ぼさぼさの髪に、寝ていないのか目の下がどす黒い。全身から酸っぱい臭いをさせている。

「どちらさんですか? 今、ちょっとたてこんでいて……」

 頭のおかしい路上生活者なのか。いや、花菜の名を呼んでいるので敬大の知らない友人だろうか。

 どちらにしても、今、家にあげるわけにはいかない。

 家に上がり込もうとする女と、敬大は狭い玄関先でもみあう。

「ねえ、なんで警察に言わないの? なんで? わかった、あれでしょ、保険金」

 女は、得心したようににんまりと笑った。

「どうやるの? かくしておいたら倍になる方法とかあるの?」

 ぎらぎらした目の女は、敬大に詰め寄りその二の腕を遠慮なくわしづかみ、唾を飛ばしてしゃべり続けた。

「だったら、わたしにもそのお金分けて。半分、ううん、四分の一でいいわ。だって、私が殺してあげたんだもの。花菜とそのこども。お礼くらいくれなきゃ、ね?」

 私が殺してあげた。

 花菜とそのこども。

 女が連発する意味のわからない言葉の中で、それだけがすっと敬大の耳に染みこんできた。

 それは毒の水のように、敬大の手足をしびれさせ、じわりと頭の芯が熱くなる。

「あんたが、殺したのか……? 花菜と詩帆を?」

「そうよ、私が殺してあげたの。だから――」

 浅く速くなる呼吸。割れそうな鼓動。ブレーカーが落ちるように、敬大の五感のすべてがそぎ落ちて――。


「おまえは、あほぅだな」


 その声で、我にかえる。

 鰐口を鳴らすような低くくぐもった声に、清明を取り戻す意識と視界。

 敬大は女に馬乗りになり、女の首を絞めていた。

 油粘土のような湿り気をおびた気色の悪い感触に、指が喰いこんでいる。もぎ離そうにも、なぜか離れない。

 そして声の主は、獅子舞のように倒れた女の頭をくわえて歯をならしていた。

 黒い犬だった。

「……死神……」

 黒い犬は、敬大の固まった手を鼻先で押した。ひんやりと湿った感触。

 はりつく手はあっさりとはがれて、敬大は力なく尻もちをついた。

 女の死体を挟み、にらみ合うことしばし。黒い犬が鼻を鳴らして言う。

「おれたちは、死神なんかじゃねぇよ」

「うそだ。お前、死神なんだろう。お前が来たあとに、父さんが……」

 幼いころみた老人の家でも、父の病室でも、こいつが訪れた後、死が訪れた。

「ちがう。おれたちは、死んだ体から魂をひっこぬくのが役目だ。

 人が死ぬ。すると、おれたちがよばれて、役目を果たす。ただそれだけだ」

 黒い犬の声はどこまでも静かで、感情の波も色もない。

 キッチンを行き来する花菜の足音だけが、緩慢に響いている。

「なんで……なんで、おれだけが見えるんだ? なんかおれに恨みでもあるのか?」

「おまえがなんでおれたちが見えるかなんて、知らねぇよ。たまたま、そういうこともあるんだろうさ。

 恨みもつらみもねえよ。ただ、おれたちは、おれたちの役目を果たす。ただそれだけだ」

 黒い犬の役目。死んだ体から魂を抜くこと。それを敬大が邪魔をした。だから花菜と詩帆の身体は死んだのに、魂が残っているために、生きている時と同じように動き続けている。そういうことだろうか。

「じゃぁ、連れていってくれよ。花菜と詩帆を。このままなんてかわいそうすぎるだろう」

 愛しい二人が無残な死体のまま、身体が朽ちるまであのままなど、敬大には耐えられない。一秒でも早く、救ってほしい。

 そう願い、身を乗りだすようにして黒い犬につめよった。

「おれたちに、()()()はねぇんだよ」

 しかし、黒い犬は淡々と告げた。顔をのぞきこみ、問いを重ねようとする敬大を避けるように、ゆっくりと歩いていく。

 リビングに入ると、歩く花菜と絵本を読む詩帆をじっと見つめた。

 ふらふらとその後をついていく敬大の目の前で、先っぽの白い指し尾がゆらりゆらりと動く。そののんきさに、わずかにいらついた。

「このままでは、コトワリがユガム。おっつけ、ヨジレをタダスやつらがくるだろう」

「なんだ、それ……? まさか、これ以上ふたりに痛い思いとかさせるんじゃないんだろうな?」

「そいつらがどんなんで、どうやるかなんておれたちは知らない。ただ」

 黒い犬は自分を捕まえようとする敬大の手からひらりと逃げると、なぜか開いていた履きだし窓から外に出た。

 茂る夏椿の横で、立ちすくむ敬大と、その隣に座りめくるページのなくなった絵本を読む花菜を見遣る。

「おしまいにつづきなんてねぇんだよ」

 言い残し、身軽く黒い犬はかけ去っていく。どこか憐れむような声に聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ