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わ すれられない

 あれは、敬大が四歳になったばかりのころ。春風がぬるくて、真新しい通園帽が窮屈だった。

 通園バスを降りて帰る途中で、母が知りあいの女性と行き会い、立ち話を始めてしまった。

 あまりうろろうすると叱られるので、敬大は電柱の根元の草を掘ったり、ブロック塀の隙間から伸びている葉っぱをむしったりしていたが、すぐに飽きた。

 母の話が飽きる様子はない。

 なにかおもしろいことはないかなと辺りを見回していると、するりと路地の奥をなにかがよぎった。

 犬だ。

 ちらっと見えただけだったが、たしかに黒い犬だった。

 敬大は後を追った。

 犬は一軒の古い家へと迷いなく入っていく。引き戸の玄関のすきまから、つるりと中へと消えた。

 いいな、さわりたいなと、敬大がブロックの門柱から中をのぞきこんでいると、庭の奥から女性が出てきた。

「なにしてんのよ? あんた、どこの子?」

「犬……いたから……犬……さわりたくて」

「犬? いないわよ、いるわけないでしょ。変な嘘ついて、なんか悪さする気なんでしょ?」

 剣突を喰わせる声を聞きつけたのだろう。母がとんできた。

 二三の押し問答の末、ようやく敬大と母はようやく解放された。

 帰り道もずっと「犬がいたんだ」と言いはる敬大を、母はいささかあきれたように諭した。

「見間違いよ。あそこのお宅、たしかおじいちゃんがずっと寝たきりで大変だって、きいたことがあるもの。いい? よそのお宅に勝手に入ったらダメだからね」

 翌日。ぜったい犬を見つけてやると息まく敬大が見たのは、黒白の幕にまかれた玄関だった。


 そして十年後の中学生の時。

 検診で病巣が見つかり、父は三年ほど前から入退院を繰り返していた。

 母は父の代わりにフルタイムで働き始め、学校帰りに病室で洗濯物を受け取るのが敬大の日課になっていた。

 放課後がつぶれることよりも、「毎日でなくていいよ」と病み衰えた父の笑う顔が知らない老人のようで正直つらかった。

 その日も重い気分で廊下を歩いていると、つっと視界を見慣れないものがよぎった。

 父の病室へと吸いこまれるように消えた、黒い尻尾の先の白。

 いや、病院に生き物がいるわけない。タオルかなにかを見間違っただけだ。

 そう思おうとして、さっきのあれがどうしても幼いころに見た犬のように思えてならない。 

 しんと静まり返った病室の、夕食前の静かなひと時。

 カーテンに区切られた小さな空間までが、ひどく遠く感じた。

「父さん、ただいま。さっきさ犬がいたよ。気のせいかもしれないけど。でも、見たんだよ。黒くて尻尾の先だけが白いような――」

 枕頭の丸椅子に座りせき込むように話しかけて、敬大は息をのんだ。

 父はもう、息をしていなかった。

 文字通り眠るように、死んでいた。


 父の葬儀後、敬大は考えた。

 あの黒い犬は、きっと死神なのだ。

 あの黒い犬が、死を連れてくるのだ。

 なぜそんなモノが自分に見えたのか。それはわからない。

 だがあの時、あの黒い犬を追い払えていれば、父はまだ死なずにすんだのかもしれない。

 だから、敬大はあの黒い犬を見つけたとき、無我夢中で追ったのに。

 ただ、花菜と詩帆を守りたかっただけなのに。

 どうして、なぜこうなった。

 リビングのすみに座りこみ、敬大は頭を抱え続けている。

 その目の前に、詩帆はちょこんと座っていた。

 折れた首は左肩にめりこむほど傾いだまま、絵本をながめている。いつもいっしょのモゥちゃんは、開けっ放しにされた掃き出し窓から、庭に落ちていた。

 ぱた、ぱた、と緩慢にスリッパを鳴らして、花菜は歩いている。

 リビングからキッチンへと行くと、冷蔵庫を開け、そして閉める。リビングに戻り、詩帆のそばにしゃがむと、またキッチンへ。

 延延と同じ行動を繰り返す彼女は、ぼろぼろだ。

 ばさばさに乱れた髪。あきらかに伸びたカーディガンの袖。

 キッチンの床はカウンターの物が散乱し、足の踏み場もないほど散らかっていた。

 なにがあったのかは明白だった。

 花菜は誰かと乱闘になり、そして殺された。

 胸の下にねじこむように並んだ二つの小さな丸は、キッチンばさみの柄。そこだけじわりと濡れて黒ずんでいた。

 なぜ二人は死んでいるのに、動いているのだろう。

 夜になり暗い室内でもかまわず、花菜は同じコースを歩き、詩帆は絵本をのぞきこんでいる。

 庭から拾い上げたモゥちゃんを右手に握り、リビングのすみにうずくまる敬大には、もうどうしたらいいのかわからない。

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