い ぬがいる
夕暮れの街はまだ明るく、空は黄金色。影は長く伸びる。
歩きながらとりだした携帯電話のメール画面をひらいて、敬大は笑う。
『熱はもうさがったよ。お昼に、おうどんも食べたよ。もう大丈夫みたい。あと、帰りにリンゴジュースをお願いです。花菜』
本文の後に、額に冷却シートをはって花菜お手製のリンゴのシラップ煮をほおばる、詩帆の写真が貼りつけられている。
今朝、起きると詩帆はいつになくおとなしかった。色白の頬は真っ赤だったし、息も苦しそうだった。熱を測ると、三七度六分もあった。
おろおろする敬大を、大丈夫だからと花菜はそっけなく仕事に送り出したのだ。
総勢四名の会計事務所で一般事務を務める敬大は半日そわそわと仕事をこなし、三時過ぎに受け取ったメールで定時退社を決意する。
「五時に帰ります宣言」を所長は苦笑とともに受けとめ、残りの者も笑って追い出した。
敬大が愛妻家であることも、子煩悩パパであることも、よっく知っているからだ。
事務所を出て駅までバスで十五分。ここから自宅方面への路線に乗り換え。この間、十分ほどある待ち時間で、花菜に早く帰るとメールを送り、敬大は手早くコンビニで買い物をすませた。
乗り換えたバスに二十分ほどゆられて、児童館前でおりる。
のんびりと歩く敬大の右手で、コンビニの袋がかさりと鳴る。
中身は、頼まれた紙パックのリンゴジュース。それと、とろけるプリンに、イチゴと生クリームのエクレア。ほろ苦ティラミス。
詩帆と花菜へのお土産だ。仲間外れにされたくないから、自分の分も買った。夕飯の後、いっしょに食べよう。
静かな住宅街はまだ造成されたばかりで、ふいに人影が途切れる。
そんな一瞬だった。
敬大の目の前を、一頭の犬が横切った。
ぴんと正三角形の耳をたてた柴犬くらいの黒い体。大きくはない。マズルと四足と差尾の先っちょだけ塗り忘れたように白い。
とりたててかわいい外観でもない、どこかの軒先で昼寝でもしていそうな普通の犬。
だが敬大にとって、あれはオソロシイモノだった。
あれは、オソロシクフキツナモノ。
縫いとめられたように立ちすくむ彼に気づくことなく、犬はてこてこと一軒の家に入っていこうとした。
それは、敬大の家だった。
中では、花菜と詩帆が敬大の帰りを待っている。
「……ぁぁぁぁぁああああああああああぁ」
とっさに敬大は、意味もなにもないおたけびをあげた。
なぜかわずかに開いていた玄関ドアの隙間に、鼻を突っこみかけていた犬はびくりと振り向き、叫びながら突進してくる敬大に気づくと、ぴょんと跳びあがった。
うろうろと顔を左右に振り、それから夏椿の木を飛び越えていった。
外まで後を追ったが、道路のどこにも犬の姿はない。
追い払えた。
あいつを追い払えた。
これで、もう大丈夫。
あがった息を整え、満足げに笑って敬大は玄関のドアを開ける。
「ただいま」
いつもなら笑顔の花菜と詩帆が「おかえり」と出迎えてくれる。今日は、それがない。
廊下の先のドアのすりガラスにちらちらと、花菜らしき影が動いているからいるのだろうが。
敬大は違和感を無理矢理にのみこもうとした。いやな予感に喉がひりつく。
もどかしく靴を脱ぎ散らかし、わざと足音を立てて廊下を歩いた。
「ただいま。詩帆、気分はどうだ? お土産買ってきたぞ」
居間のドアを開け、陽気に上げた声はむなしく凍りつく。
おどけるように目の高さに掲げたビニール袋は、とさりと落ちた。
プリンは割れてしまっただろう。
エクレアは潰れてしまっただろう。
もう、食べられない。
もう、食べてもらえない。




