さ きぶれもなく
「詩帆ちゃん。パパね、今日はやく帰ってくるって」
「ほんと?」
「うん」
メールを着信した携帯電話を見せながら花菜が笑うと、四歳の詩帆もぱぁっと顔をほころばせた。
枕元の白黒のぬいぐるみを抱き上げると、その長い鼻に自分の鼻をくっつけて、ウフフと笑いながらお話をはじめる。
「モゥちゃん。パパがはやくかえってきますってよ」
詩帆が「モゥちゃん」と命名してかわいがっているのは白黒模様の、ウシならぬマレーバクである。なぜか詩帆にかかると、パンダもパトカーもハチワレ猫も、みんなひとしく「モゥちゃん」にされてしまう。
「ママ、ごはんを作らなきゃいけないから、いい子にしててね」
「うん」
少し伸びた髪をなで、小さな額にふれて熱が下がっているのを花菜は確認する。
「うん」とうなずいた詩帆は、キッチンと一続きの居間に敷いた布団の上で、モゥちゃんと絵本をながめ始める。
その様子を少し眺めてから、花菜はキッチンへと戻った。
バスの乗り継ぎがうまくいけば、敬大は六時過ぎには帰ってくるだろう。
あと一時間弱。夕飯を急がないと。
お昼がうどんだったので、夜はみそ仕立てのにゅう麺。たぶん敬大は頼んだ買い物ついでに、プリンも買ってくるだろうから、茶碗蒸しはやめて甘い卵焼きにしよう。これだけだと敬大には物足りないだろうから、トリモモの照り焼き丼も作ろう。うどんにのせた温泉卵が残ってるから、ちょうどいい。
ざっと献立を組み立てて、花菜が冷蔵庫のドアを開けた時だった。
玄関のチャイムがなった。
ドリップパックに湯を細く注ぐと、こんもりまるく盛りあがり、いい匂いが立ち上る。
香しい湯気に顔をなでられながら、花菜はちらりとキッチンカウンターに座る彼女を見やった。
高校時代、同じグループだったが卒業してから縁が切れていた。結婚式にも呼んでいない。なのに、いきなりおしかけてきた。おまけに先日、別の友人から嫌な話を聞いたばかりである。
娘が風邪をひいているとか、夕食の準備があるとか、遠回しに拒んだが、受け流され上がりこまれてしまった。
「どうぞ」
出されたコーヒーを、顎をしゃくるようにして受け取った史絵は、高校時代から明るいタイプではなかったが、ひときわ陰気になったように思う。ずいぶんやせたようだし、目元に険がある。
電話越しのイラついた三奈の声を思い出す。
――史絵が、急に訪ねてきてね。それも夜の九時半すぎよ。わたし夫の両親と同居でしょ。もう、それでお義母さんに「ずいぶん常識のないお友達ね」とか、チクチク嫌味言われたわよ
史絵は、コーヒーに三本のスティックシュガーと二個のミルクを投げこんで、おざなりにかき混ぜている。
――ほかの子から聞いたんだけど、史絵。会社の上司と不倫して、それがばれて、二人ともクビにされたんだって。相手の人は離婚して、籍だけはいれてくれたみたいだけど。再就職先みつからなくて
「今日はどうしたの?」
「引っ越し祝い。すごいよね、新築の一軒家なんて」
「べつにすごくないよ、建売だし。平屋だから広く見えるけど、十二坪しかないのよ」
引っ越したのは去年の秋で、半年も前だ。それをなにをいまさら、手ぶらで引っ越し祝いもなにもあったものじゃない。
やはり三奈の言っていたとおりの用件なのだろう。
ぺらぺらと史絵は、すごいねすごいねと、口先だけの賛辞を吐きだし続けている。
聞いているだけでうんざりしてきた。壁の時計を見上げれば、五時四十五分。夕飯は、材料を冷蔵庫から出しただけで、お湯しか沸いていない。
「ごめん、史絵。今日、彼、早く帰ってくるってメールがあったの。だから」
そろそろ帰ってくれないかと言いかけた花菜の言葉をさえぎり、
「ねぇ、花菜。お金、貸してくれない?」
上目づかいに史絵が言った言葉は、花菜の予想どおりであり、三奈にも過日、告げたせりふだった。
――誰彼かまわず借金、申し込んでるらしいのよ。花菜も気をつけたほうがいいよ
「少しでいいのよ。ちょっと今、生活が苦しくて。ね、おねがい」
手をあわせて必死さのアピールを、花菜は冷えた目で見つめた。思わずため息がもれた。
「三奈から聞いているよ。三奈のところにも行ったんだってね」
作り物めいた笑いをはぎ取った史絵は、じっとりと暗い目で花菜をにらみつけた。
「やめなよ、こういうの。よくないと思う。相手の人とかお母さんとかと、ちゃんと話しして……」
「ちょっと自分は幸せだからって、いいこぶらないでよ」
いきなり史絵がカップを花菜めがけて投げつけた。冷蔵庫にあたり、鈍い音を立てて砕ける。飲み残しの飛沫がたらりと垂れる。
突然の大きな音に、居間の詩帆がモゥちゃんを抱きしめて目を丸くした。
「なにするのよ、やめてよ」
「うるさい」
怒鳴りかえすやいなや、史絵はキッチンカウンターの上の食器や雑貨を手当たり次第に投げつけてくる。
なにが史絵を激昂させたのか、花菜にはわからない。
「ちょっと、史絵。やめて、落ち着いて」
おびえて顔をひきつらせている詩帆にまで、危害を加えられてはたまらない。
花菜は史絵を止めようとカウンターを回り、なんとかその体を押さえこもうとした。




