Day Dreamer & Over Thinker 1
以前、フロンティア文学賞に応募したもの。
おお、このレベルでも応募するやつがいるのか、とみんなが思うことで、もっと気軽に小説を応募する人が出てきて、面白い作品がたくさん世に出ることを願います。
1.
ヤマモト=トオルは、自分の家族を、ちょっとした地獄だと思っている。
家族というのは、「いいもの」だ。
そう思っている人は、多いかもしれない。
「家族」という言葉に、そういうイメージを感じる人も、多いかもしれない。
しかし、トオルが、「家族」という言葉に持つイメージは、「地獄」というのが、一番近かった。
トオルがうまれたとき、「父」と「母」がいた。
そこまでは、よくある家族だった。
ある日、「母」の浮気が発覚した。
相手は、「父」の弟だった。
トオルは、「母」と「父」の弟との間の子供だった。
そのことを知った、「父」の弟と、「父」の弟の妻が、離婚した。
「父」は、「母」を見ていると、自分がつらくなるので、離婚した。
しかし、そのとき、「母」は、わりと精神を病んでいてボロボロだったために、「父」の家で面倒をみることにした。
そうしているうちに、「父」と「父」の弟の妻が接近して、結婚した。
「母」は、正体不明の病気にかかって、めざめないまま、死んだ。
だから、今、トオルが一緒に住んでいるのは、「父」と「父」の弟の妻である、サナさんだった。
めちゃくちゃな家族構成だな、とトオルは、自分の家族を考えるたびに思う。
父も、サナさんも、よくしてくれる。
でも、いまだに、サナさんのことを、お母さんとは呼ばない。
トオルが呼びたくないからだ。
トオルにとっては、お母さんは、あの死んだお母さんであり、それ以外はない。
サナさんを、お母さんと呼ばないことが、父とサナさんの結婚を、トオルが認める条件だった。
トオルは、たまに、思う。
自分がうまれなければ、と。
自分がうまれていなければ、たぶん、もっとスムーズに話は進んだのではないか。
たとえ、母が精神を病んでいたとしても、僕がうまれていなければ、簡単に縁を切ることができたんじゃないか。
そうすれば、父と、サナさんは、普通に結婚して、普通に家庭を持てたのではないか。
自分が、ここまで、頑固な性格でなければ、こういう性格で生まれていなければ、もっと三人とも、楽しく過ごせたのではないか。
自分の存在が、父とサナさんにとって、目の上のたんこぶになっているのではないか。
考え出すと、きりがない。
しかし、ふとした拍子に、そういう風に、思ってしまうのだ。
まるで、そう考えるのが自然なように。
自動的に、そのような思考が、頭の中にはいってくるのだった。
そういうわけで、トオルは、家族という言葉を聞くと、地獄、というイメージが浮かんでしまうのだ。
おおげさかもしれない。
しかし、どうにも、家族という言葉に、しあわせというイメージが、トオルには結びつかないのだった。
しかし、トオルは、別に、父が嫌いだというわけでもなければ、サナさんが嫌いというわけでもないのだった。
ただ、自分の生まれた環境や、離婚や再婚などのごたごたなどを見るにつけ、そんなに家族っていいものでもないよな、と思っただけなのだ。
いいものじゃないなら、どんな言葉が適当か、と思ったときに、「地獄」という単語が出てくるあたりは、自分ならではなのかもしれない。
朝、父とサナさんと一緒に、食卓をかこみながら、トオルは、そんなことを思う。
朝おきたばっかりのときは、どうにも、気分が落ちこみがちなことがある。
そういう人は、他にもいるらしいと、トオルは前に本で読んだ。
「ごちそうさま」
そういって、父がたちあがる。
父は、てばやく食器を、流しに片付けると、玄関に出て行く。
「いってらっしゃい、しないとね」
そういって、サナさんは、うれしそうに、玄関に、父を追って出て行く。
楽しそうな声が聞こえたあと、「いってらっしゃい」、「いってきます」という声が聞こえる。
「いってらっしゃい、お父さん」
「おう、トオルも、いってらっしゃい」
テーブルの上で、ごはんを食べながら、その声を聞く。
今日も、父とサナさんは、なかむつまじいようだ。
よいことだ、とトオルは思った。
トオルも、朝ごはんを食べ終えると、食器を片付けて、学校に行くしたくをする。
「サナさん、いってきます」
お母さんと呼ばない以外は、けっこう慣れたかな、とトオルは思う。
「うん、トオル、いってらっしゃい」
にっこり笑って、サナさんは、トオルを送り出した。
トオルの通う学校は、すこし、特殊だ。
どこぞの官庁の付属機関で、いろいろ、「先進的な」教育をしているものらしい。
なにか、正式名称では、次世代教育機関だかなんだか、というのだと、トオルは聞いたことがある。
要するに、よく覚えていられないような、漢字ばっかりの難しい名前だ。
だが、トオルの考えでは、要するに、次世代教育「実験」施設である。
次世代に、どのような教育がふさわしいのか、いろいろためすのだ。
そのかわり、学校教育に、トオルたちは、まったくお金をかける必要がない。
教材から、食事のお金、遠足の資金など、まったく払う必要がないのだ。
おさななじみのハルカに言わせれば、「実験」というのは、トオルのひねくれた見方らしい。
ハルカは、「最先端の教育」を受けられて、しかも「タダ」なのだから、こんなにおいしい話はない、と言っていた。
もっと素直に好意を受け取ったらどう?
だけれど、トオルに言わせれば、それこそ相手の思惑にのっている、「おめでたい」見方なのであり、もっと「引いた」目線が必要なのだ。
「おはよっ、トオル!」
家から歩きだして、五分もしないうちに、後ろから声をかけられた。
トオルの知り合いで、トオルを下の名前で呼ぶのは、留学生の一部のように下の名前で呼ぶ文化の影響を受けている人物か、そうでなければ、ただ一人だけだ。
「おはよう、ハルカ。今日も元気だね」
「そっちはいつもどおり、朝は暗いねっ」
別に暗いとは思わないぞ、とトオルは言い返す。
相手に「暗い」というのは、ハルカにとっては別に悪口でもなんでもないんだろうなあ、と思いながら。
「これが僕のいつもの状態だ」
「ふーん、ね、一緒に学園行こうよ」
ハルカは、いつもの状態だろうが、いつもの状態でなかろうが、まるでそんなのはどっちでもいいや、といった口調だ。
「うん、いいよ」
ハルカは、おさななじみだ。
離婚騒動のころからつきあいがある、長い友だち。
トオルは、だれかに、家族のことを深いところまで話すと、相手に変に気をつかわせてしまうときがあり、それを少しめんどくさいと思っていた。
だから、ハルカのように、すでに状況を知っている人間は、ありがたかった。
自分とすでに深く関わっている人間。
自分の家庭の事情を知っている人間。
それでも、別に気がまえることなく、自分とつきあえる人間。
もし、そういう条件にすべてあてはまる人間を、トオルにあげろといったら、ほぼ間違いなく、思いつくのは、この目の前の女の子だけだろう。
もともと、トオルは、交友関係がせまいので、条件に該当する人間と該当しない人間をあわせても、たいした人数はいないのであったが。
トオルに、ハルカを紹介させると、きっと以下のようになる。
運動神経は、かなりいい。
たしか、なにかの運動で、全国大会にいったことがあるはずだ。
勉強は、普通にできる、という認識をしている。
あえていうなら、国語がちょっと苦手なようだ。
あまり本を読まないらしい。
交友関係が広く、いろんな友だちがいるみたいだ。
部活も、いろいろかけもちしているらしい。
運動部にも文化部にも顔がきく、ちょっとした学園の有名人だ。
あまりくわしくないが、それなりにモテるらしい。
恋人がいるかどうかは、不明。
あまり相手のプライベートには踏み込まないようにしているので、はっきりとしたことはいえないが、以上が、ハルカのおおまかな説明だ、と、こういう具合に紹介するだろう。
トオルたちの通う教育施設は、「学園」と呼ばれている。
教育施設を中心として、学生寮や、食料品店、ごく普通の住宅などが、円をえがくようにして建てられている。
それ全部を総称して、「学園町」、と呼ばれていた。
学生用のフリーパスを使って、公共交通機関を使い、学園町に入る。
実は、半分くらいの人間は、学園町の住宅や、学生寮に住んでいるので、あまり公共交通機関を使う必要がないのだ。
だから、通学時間ではあるが、そこまでぎゅうぎゅうづめではないので、トオルとハルカは、ふつう、快適に通学できていた。
「ねえねえ、ちょっと小耳にはさんだんだけどさ」
ハルカが首をふる。
少し栗色に近い黒色の髪が、肩のあたりでゆれて、なにかシャンプーのような甘いかおりが、トオルの鼻をくすぐった。
あんまりおしとやか、という言葉が似合わない女の子から、甘いかおりがすると、なんとなくどきりとする。
そんなことを考えながら、トオルは続きをうながす。
「なんかね、転校生が来るらしいよ」
「学期はじめとは、ちょっとずれているね」
「まぁ、いろいろあるんでしょ。ほら、うちはわりと『来るもの拒まず、去るもの追わず』だし、普通の学校よりは、なじみやすいんじゃない? なにか事情があったとしても、そういうことで、ごちゃごちゃ話題になったりしないしね」
実験的なことをやっているため、学園の中には、学期の制度が違うものや、「クラス」といった概念のないものなど、いろいろなパターンの教育がなされている。
だから、人の流動も、ふつうの学校にくらべるとはげしく、いろいろな人がくるため、学園生は、あまり自分と違う人間を、攻撃したりしないのだ。
そこは、とてもいい文化だよな、とトオルはいつも思っている。
「で、うちのクラスに来るわけ?」
「らしいね、なんか友だちの友だちが担任のスズキ先生から聞いたって言ってた」
「それ、信用できる情報なのか?」
「えー、友だちが、その友だちが言ってる、って言ってるんだから、だいじょうぶでしょ」
「すでに一次情報ではない」
担任が言ったことなら、それは情報源そのものなので、信用できる。
しかし、その担任から話を聞いた友だち、の友だち、から聞いた話だ。
それはもう、うわさというものじゃないのか?
「僕は、うわさを信用しない」
「あー、なんか昔、そんなこと言ってたなあ。トオル、ぜんっぜん知らない女の子のこと好きっていううわさ、小学校のときにながされたことがあって、それいらい、うわさを全然信用できなくなったんだっけ?」
なんでハルカはこんなことまでよく覚えているんだ。
それが顔に出ていたのか、ハルカは、にやっと笑う。
「ハルカちゃんは、案外、こういうことは忘れないのだ!」
へへっ、と自信ありげに笑って、
「でも、たしかに、そんなうわさ流れたら、うわさってものを信用できなくなるよね」
「いや、もともと、人のうわさなんて信用してなかったって」
「そっか。ま、でもさ」
今日が楽しみ! という表情で、ハルカは、
「そのうわさの真偽は、これからすぐにわかるよ。今日来る、って話だったんだから」
そして、それは真だった。
「みなさん、はじめまして。ナカタ=イツミです」
そういって、一礼。
まっすぐな黒いロングヘアが、さらりと流れ落ちる。
美少女。
あまり友だちに使わないような言葉が、びったりあてはまるような少女だった。
「かわいい」や「美人」というよりも、美少女。
気のせいかもしれないが、なんとなく、教室の雰囲気が、そわそわしているように感じられる。
おもに、男子のあたりが。
ふと、トオルと目があって、その美少女――イツミは、にっこりした。
トオルは、自分の顔が、熱をおびたように感じる。
ぎこちない笑みをかえして、あわてて目をそらす。
「今日から、この学校に転校してきて、一緒に勉強することになりました。ここは実験的な教育環境だということで、なれないこともあると思いますが、みなさん仲良くして下さい。よろしくおねがいします」
顔をみんなのほうにむけて、ほほえんだ。
どこからともなく、拍手がおこる。
「じゃあ、ナカタさんの席は、あの後ろの空いているところね。後ろのほうだけど、視力、大丈夫かしら?」
自己紹介もおわり、担任のスズキ先生が臨時で休みなので、代わりの年配の先生が、イツミの席を教える。
「はい、大丈夫です」
そのまま、先生にいわれた、教室の一番後ろの席へと、歩みを進めた。
「はい、それじゃあ、さっそく授業をはじめるわよ」
先生の声で、トオルは、教科書を取り出す。
今回は、ハルカの教えてくれたうわさは、正しかったわけだ、と思いながら。
トオルは、実はかなり成績がいい。
優等生、という言葉をあてはめても、そう違和感はないだろう。
特に、現代文などは、別に授業を聞かなくても、それなりの点数は取れる実力はあった。
だから、目の前で、現代文の授業を、ただ聞かされていると、ふらふらと、ものおもいにふけってしまうことがあるのだ。
ああ、前にやった、体験型の現代文の授業は面白かったなあ。現代文が不得意な人間に、得意な人間が教えるとか、自分で問題を作ってみるとか。
まあ、こういうオーソドックスな授業もやらないと、成績の比較検討実験にならないんだろうけどさ。
そんなふうに、授業をどこかで聞きながら、頭で別のことを考えていると、だんだん、頭の思考のほうに、意識がひきずられていく。
無意識に。
まるで夢を見るように。
ぼうっと授業を聞いているときに、、なにか深遠なものごとについて、知らず知らず考えてしまう。
宇宙のはじまりとか、地球の最後とか、なにかそんな、深遠なものごとについて。
きっと、そんな経験は、トオルだけではなく、案外、けっこう多くの人が体験しているものなのだろう。
そして、ご多分にもれず、今日のトオルもそうだった。
小学校六年生のときだった。
自分がいることは、確信できるけれど、それ以外の人のことは、存在していると確信できないよなあと思った。
自分だけは確かであるというこの発見に、僕はうれしくなって、まわりの人に話したりした。
その後、中学の数学のワークブックで、デカルトについて知った。
コギト・エルゴ・スム。
我思うゆえに我あり、と翻訳される、そのラテン語。
それと、その意味。
ワークブックには、こういう百科事典的なコラムがあって、僕の知識欲を満たしてくれて、好きだった。
僕と、似たようなことを考えているやつがいた。
うれしくなった。
「君と僕は一緒だね!」
そのときに、なんとなく、僕が考えていることは、過去にだれかが考えたか、あるいは未来にもだれかが考えることで、僕独自の考えというのは、特に存在しないんじゃないだろうかと思った。
きっと、アインシュタインじゃなくても、相対性理論は、いつかだれかが見つけただろう。
ソクラテスとはまったく関係なく、無知の知について思いついた人は、ソクラテスの前にも、ソクラテスの後にもいたに違いない。
僕は、そういうことも、そのとき、思ったのだ。
自分以外のものは存在しないかもしれない、とまわりのひとに話をしたときに、ちょっとおどろいたことがある。
自分以外のものも、はっきりと存在していると確信している人間がいたことだ。
厳密にいえば、まわりのものが存在しているとは、理性によっては結論づけられないはずだと思う。
感覚として、まわりのものが存在していると「わかる」、「確信できる」。
そういうことは、もちろんある。
でも、理性的に考えれば、それは錯覚かもしれないということが、「わかる」、「理解できる」はずだ。
自分の実感は、錯覚かもしれないと想像する。
そして、その想像を否定する理論は、たぶん、この世界のどこにもない。
しかし、それにもかかわらず、自分以外のものの存在を、はっきり確信できている人がいる。
理論的に考えたら、そう、たとえばこの世界が夢であるという可能性を排除できないわけだし、それでも確信できるのか。
しかし、できる人がいるのだ。
だって、あるものはある。
現に、あるじゃないか。
そこまで、自分の感覚を信用できる人間がいることに、おどろいたものだ。
そういうことを考えていない人間がいることにおどろいたんじゃない。
そういうことを説明しても、納得しない人間がいることにおどろいたのだ。
理論的に考えればそうかもしれないが、実感としてそうは思えない、という感じではなかった(もちろん、それは、錯覚かもしれない)。
この世界が夢であるなんてありえないし、ありえないのだから、僕の言っていることは理性的というわけではない。
むしろ、こんな表現のほうが、そのとき、その人が言った言葉の印象に近い。
つまり、理性的にも、感覚的にも、この世界は実在していると、信じられる、考えられる人間がいるのだ。
これは、自分には、ちょっとびっくりするようなことだった。
このようなことを考えるのが、トオルは好きだった。
だが、学園生活も、いいことばかりではない。
「おい、ちゃんとサーブいれろよな」
不愉快そうな声で、男がトオルに声をかける。
「あはは、ごめんごめん」
初心者なんだから、しかたないだろ。
笑顔をつくりながら、心の中で悪態をつく。
今日の体育は、バレーだ。
ここ数週間は、ずっとバレーで、さらに、この数週間、トオルはサーブが一度もはいっていなかった。
反対に、トオルに声をかけた男は、バレーがうまい。
あたりまえだ、バレー部なのだから。
だからといって、バレーなんて今までの人生で一回もやったことのない人間がサーブを全然いれられないからといって、そんな厳しいことをいうのは、納得がいかない。
トオルは、成績がいいほうだが、成績の悪い人間について、バカにするようなことを言ったことは一度もない。
それは、卑怯なことだからだ。
弱いものいじめだからだ。
こういう、自分の得意なことについていばっていて、できないやつをこきおろす人間が、トオルは大嫌いだった。
しかし、男に対する怒りだけではない、なにかが心の奥からわきあがってくる。
自分に対する情けない気持ちが、心の奥からわきあがってくる。
ちゃんと自分の言いたいことを言えない自分が、一番きらいだ。
ちゃんと、そういうこと言われると傷つくからやめてほしい、とか。
ちゃんと、初心者なんだから、できなくてもしかたないだろ、とか。
ちゃんと、そういう風に言い返したい。
自分の気持ちを、伝えたい。
でも、なぜだか、うまく伝えられない。
そんな自分が、一番嫌いだ。
プライドのせいかな。
自分は、別にバレーでこまってなどいない。
だれかの発言に傷ついてなどいない。
そんなみじめな存在じゃない。
助けてなんて、恥ずかしくて言えない。
自分が困っているなんてこと、認めたくない。
自分は幸せで、ちゃんと楽しく学校生活を送っているのだと、思いたい。
だから、いやなことは、なかったことにして、存在しないかのようにふるまう。
本当は、傷ついているのに。
それは、まちがっているのだし、ちゃんと先生に相談したりすべきことだと、心のどこかではわかっていた。
でも、自分が、がまんすればいいことだ。
そう、トオルは思ってしまうのだった。
先生に、だれかに、助けをもとめるなんて、かっこわるいから。
たとえ、このストレスが、数週間続いていたとしても。
いやなことがあると、深遠なことを考えたくなるのは、トオルのくせである。
お弁当を一人で食べたあと、体育の時のいやなことを思い出して、いらいらがはじまったので、頭を切り替えようとした。
一人でできる、簡単な頭の切り替え方は、なにか別のことを考えることである。
それも、自分の興味あることや、勝手に頭がいろいろ考えてくれるようなこと。
神さまはいるのだろうか。
もう何度考えたか、思い出せないことを、また考える。
トオルは、何度も、同じようなことを考えてきた。
思考のどうどうめぐり。
それは、別に悪いことではないと、トオルは思っている。
しかし、今日は、あまり今まで考えたことがないような発想が出てきた。
神が存在するとして。
さらに、この世界を作ったとして、この世界に干渉できるとして、そして自分とコミュニケーションできるとしたら。
僕は、何をするだろう。
きっと、話をしたいと思うだろう。
なんで、このような世界を作ったのか、と。
そして、世界に干渉できるなら、もっとましな世界を作るべきだろう、と。
もし、神が、僕たちにはわからない深い理由で、この世のいやなことを放置しているとしたら。
きっと、僕は、そのような存在は、神というよりも、悪魔に近いだろう、とその「神」にいうだろう。
なぜなら、だれかが納得できないことに対して、納得のいく理由をあたえずに、無視や暴力で神の意志を押し通すのであれば、それは非常に独裁者のやり方に近いからだ。というか、独裁者そのものである。
それをする理由は僕にはわからないから黙っていろといい、そして僕が見てひどいと思うことをやるのなら、それは神とは思えない。
もし、それが神ならば、神とは力ということになってしまう。
だが、僕は、暴力的で、力があって、ひどい奴を現実に知っている。
そういう人間に会ったことがある人間は、けっこういると思う。
だから、そのような存在に似ている存在が神だとは、どうしても思えない。
神は、僕たちを救う存在のはずだ。
善なる存在のはずだ。
そのように、理由をあたえずに、悲惨を放置する存在が、救いになるとは思えない。
少なくとも、僕の救いにはならない。
この世界には、いやなことがたくさんある。
もし、神さまがいるのなら、どうしてこういう状態を放置しておくのか。
自由意志の尊重なのだろうか。
でも、僕は、この世界の残酷さが、まったく好きになれない。
もし、創造主というものがいるのなら、もっと完璧な世界を作るべきだった。
そこまで考えたところで、トオルは考えを打ち切った。
神さまは、もっと完璧な世界を作るべきだった。
それは、トオルにとって、正論だった。
しかし、それを言っても、トオルは、ただ、さらに落ちこむだけなので、教科書を取り出して、授業の予習をすることにした。
トオルは、お弁当を一人で食べるのが好きだ。
一人で勉強をするのも好きだ。
少なくとも、自分では、好きだと思っている。
どうも、友だちとは、話があわないので、一人で食べるほうが、気が楽で、楽しいのだ。
また、自分の世界に入ることができるので、勉強は楽しい。自分のペースでできるのも楽しいし、知らないことがわかるのも楽しい。
友だちと一緒にいるよりも、ひとりのほうがしあわせなのだ。
まわりと意見が違うので、自分は少し、浮いているのかな、とトオルは自分で思っている。
それは、さみしいけれど、自分を変えてまわりにあわせるよりも、自分をつらぬくほうを、トオルは選んでいる。
だって、そっちのほうが、しあわせなのだ。
自分をねじまげて、まわりにあわせると、自分の心が病気になってしまう。
そんなことになるより、一人でいるほうが、ずっとずっとしあわせなのだ。
自分は、ある程度変えられる。
このことに、トオルは賛成するだろう。
だけど、自分はどんなようにでも変えられる。
このことには、トオルは絶対、賛成しないだろう。
人間は、自分を変えられる。
でも、それには限界がある。
どうしても、「そういう人間にはなれない」、「そういう行動をとり続けることはできない」という境界線が存在する。
それを、トオルは、自分の体で知っていた。
これは、トオルにとっては、人によって意見が違うような「解釈」や「価値」の問題ではない。
自分の体験から知っている、単なる「事実」の問題である。
ほかの人間もたぶんそうだろうが、少なくとも、自分は、どんな人間にもなれる、というわけにはいかない。
トオルは、別に、まわりにあわせようとしたことが、それほどあるわけではない。
まったくないわけでもなく、自分なりに、そこそこ、あわせようとしてきた。
しかし、それでも、とても抵抗がある局面だって、あったのだ。
なぜだかよくわからないが、どうしてもできないことがあった。
そもそも、そんなことをする人間にはなりたくないから、そういう自分に、自分を変えることができない、ということもあった。
無理にそれをねじまげて、自分を殺して、自分を変えたら、自分が壊れてしまうだろう。
だから、そんなことになるくらいなら、ひとりのほうが、ずっといい。
そして、トオルは、ひとりも悪くないことを知っている。
友だちがいないと、不幸だなんて、だれが決めたんだろう。
それは錯覚だ。
結婚していないと、不幸であるのと、同じくらいの錯覚だ。
結婚も友人も、相性が大事だ。
結婚しても、結婚相手と相性がよくなければ、しあわせにはなれない。
友だちだって、その友だちと相性がよくなければ、しあわせにはなれない。
ひとりでいたって、自分と仲良くなれれば、しあわせになれる。
人は、ひとりでは生きていけないというけれど、本当かな、とトオルは疑問だ。
動物としてなら、ひとりでも生きていけるのではないか。
いや、赤ちゃんのころに死んでしまうか。
でも、ある程度の年齢になったら、ひとりでも生きていけるはずなのだと、トオルは思っている。
もし、人間が、狩りのやり方を教わりつくしたら、きっとひとりでも、野生の世界で生きていけたはずだと、思っている。
それにそもそも。
他人はいろいろ言うけれど、他人は自分の人生の責任を取ってくれるわけじゃない。
だれかが、えらそうに、自分にお説教をたれたところで、アドバイスをくれたところで。
それで失敗したとして、そいつはなんの責任もとってくれないのだ。
この世で一番無責任な行為のひとつは、他人への命令や助言やお説教だ。
なぜなら、それで相手が失敗しても、基本的に、命令や助言やお説教をたれた人間は、責任を取らないからだ。
いや、まともな社会なら、責任を取るのかもしれない。
まともな会社なら、命令を出したことで失敗したのなら、その命令を出した人間に責任を取らせるのかもしれない。
まともな助言者なら、自分の助言で失敗した場合、あやまったり、失敗をフォローしたりするのかもしれない。
しかし、学校にいけという人間は、そのことで、言われた人間が不幸になったとしても、責任を取ってはくれないのだ。
これは、非常に邪悪なことだと、トオルは思う。
他人はいろいろ言うけれど、他人は自分の人生の責任を取ってくれるわけじゃない。
自分のやったことで失敗したら、納得がいく。
他人の命令を聞いて失敗したら、納得がいかない。
全然納得がいかないし、つらすぎるし、目もあてられない状態だ。
だから、自分で決めて、自分で動く。
それが、一番、納得のいく生き方だからだ。
他人はいろいろ言うけれど、他人は自分の人生の責任を取ってくれるわけじゃない。
この言葉は、いつでも自分に勇気をくれる。
他人の言葉にまどわされず、自分のものさしで生きることが、責任ある生き方なのだと確信できる。
自分の自由を教えてくれて、人生が少し楽しいような気さえしてくる。
他人の言葉にしたがっていれば、安全で、しあわせになれそうに思えてしまうときがある。
でも、他人に責任を求めても、なにも返ってこないのだ。
返ってくると言ったとしても、保証はどこにもない。
だから、自分にしたがうことが、一番安全なのだ。
やり場のないうらみを、抱え続ける必要がないから。
しかし、もし、うっかり他人の声に耳をかたむけてしまったらどうしよう。
それで、失敗してしまったら?
たぶん、それは、責任をその他人に求めてもいいのだろうと、トオルは思う。
最悪、その人を殺してしまったり、その人の財産をうばったりしても、正当な補償である場合があるのだろうと思う。
でも、本当は。
そんなことは、だれだってしたくないはずだし、そんな補償を求めなければならないほどの失敗なんて、したくないだろうと思う。
実際、なかなか、自分の人生をねじまげた他人に、正当な補償を求めるのも難しいはずだ。
だから、やっぱり、他人の意見は、聞く必要がない。
なぜなら、他人はいろいろ言うけれど、他人は自分の人生の責任を取ってくれるわけじゃないからだ。
「ねっ、トオル、いっしょに帰ろっ」
夕暮れの教室。
ハルカが声をかけてきた。
「ああ、いいよ。いっしょに帰ろう」
学校には、友だちがいる。
友だち。
そう呼んで、さしつかえないと、トオルは思っている。
お弁当はひとりで食べるけれども、別に、クラスのみんなと話すのが気まずいなんてことはないからだ。
ふつうに、緊張せずに話せるから、友だち。
だけど、一緒に帰ろうと声をかけてきてくれるのは、たぶん、この学園の中で、ハルカだけだろうな。
トオルは、そう思うと、なんだか温かい気持ちが、胸のところにひろがっていくのを感じる。
いつもありがとう。
本当は、口に出したほうがいいのかもしれない。
でも、こんなこと急に言ったら、ハルカは面食らうかもしれない。
ちょっと迷ったけれど、結局、いいことは言っても何も損はしないはずだ。
「ね、ちゃんと転校生来たでしょ?」
言葉を出す矢先に、ハルカが、楽しそうにしゃべりかけてきた。
「うん、ちゃんと転校生が来た」
「すごい?」
にやっ、と笑って、ハルカがたずねる。
「ああ、すごいよ。いつもながらの情報収集能力だ」
そのあと、ぽろりと、
「いつもといえば、いつもありがとう」
ぴく、とハルカの肩が動いた。
「えー、なになに? どうしたの? なんか特別なことしたっけ?」
心配と好奇心がいりまじった目を、ハルカはトオルに向けた。
「いや、特別なことをしたわけじゃないけど、なんか、こう、いろいろ助けられてるな、と思ってさ」
「ふうん? そうか、それなら、どういたしましてだね」
それから、少しいたずらっぽく笑って、
「じゃあ、あたしがピンチのときは、たすけてよね」
トオルは、ちょっと笑って、
「ああ、たすけるよ」
「ふふっ、約束」
「ああ、約束」
二人は、にっこり笑いあった。
それから、昇降口を出て、二人は歩き出す。
しばらくすると、少し暗めの声で、ハルカが口を開いた。
「あの、さ」
「うん?」
いつになく、遠慮がちな声に、トオルは疑問を感じた。
いったい、どうしたんだ?
なにか、悩みでもあるんだろうか?
「例の病気、学園で出たらしいね」
トオルは、思わず足を止めた。
「その、言わなくてもいずれ耳にはいるし、なんか、隠しておくのも違うかなあって」
ごめんね? と上目づかいで、ハルカはあやまる。
「いや、別にいいよ。ありがと。ハルカに言われるのが、一番楽だったかもしれないし」
例の病気。
眠った人間が、眠ったままで、目覚めない病気だ。
世界中で起こっていて、原因も解決方法も不明。
ただ、全員が死ぬわけではなく、回復している人間もいる。
そして、その病気の第一患者にして、初の死亡者が、トオルの産みの母親なのだった。
「そうか」
そう一言、言っただけで、トオルは歩き出す。
その表情からは、何を考えているのか、うかがいしることができない。
実をいえば、トオル自身も、特に何か具体的な感情が浮かんでいるわけではなかった。 ただ、なんともいえない、あまりにも微弱な、あまり心地よいとはいえない感情を感じただけだった。
「大丈夫?」
ハルカが、心配そうな顔で、こちらを見ている。
ありがたいな、とトオルは思った。
「大丈夫、心配ないよ。でも、だれが?」
言いにくそうに、ハルカは口を開く。
「その、すずちゃん、らしい」
思わず顔をしかめた。
すずちゃん。つまり、担任のスズキ先生のことだ。
急に休んだと思ったら、そういうことか。
心配そうに、ハルカがこちらに顔を向けている。
「大丈夫だよ」
それを察して、トオルは笑った。
「本当に?」
本当だ、と返す。
「でも、なんかあったら、すぐに相談してよね」
「ああ、相談できることなら、相談する」
「相談できないと思ってることでも、相談してほしいんだけどなあ」
ハルカとは、そのあと、なんでもない雑談をして、家に帰った。
宿題をして、食事をして、勉強をして、お風呂に入って、適当に本を読んだりして過ごす。
今日も、特にひどいことは起こっていない一日のように見える。
だが、あの病気が学園で出たことが、トオルに、なにか不吉なものを感じさせていた。
バレーボールの話よりも、あの病気の話のほうが、ずっと不吉な感じは強い。
ハルカと話したときには、なんとも感じなかったのに、ここにきて、急に不安を連れてきたようだ。
「夜だから、いろいろ考えちゃうのかな」
夜ラブレターを書くな、というのは、いい意味でも悪い意味でも、いろいろな思いがあふれ出てくるからなのだろう。
こういうときは、さっさと寝るに限る。
トオルは、そう思って、布団に入った。
「ここ、どこだ?」
はじめに目が覚めた時、最初に出てきた言葉は、それだった。
巨大な、学校。
それが、トオルの第一印象だった。
ただ、体育館の大きさが、気のせいでなければ、よく知っている大きさの二倍くらいある。
ほかにも、やたらドアがあり、体育館に二十や三十も扉があるように見える。
どうにも、奇妙に現実感のない場所だ。
見ている場所が、よく知っている場所だけに、なんともいえない割合で混合された、奇妙な現実感と、奇妙な非現実感を同時に感じる。
ただ、一番おかしいことは、ここに来た記憶が、まったくないことだ。
最後にある記憶は、眠ったときの記憶だった。
そこまで思い至ったとき、トオルは、もしかしてこれは夢なのではないかと考えた。
「でも、夢にしては、変に現実感があるんだよなあ」
夢にしては、現実感がありすぎて、現実にしては、夢のような非現実感が漂っている。
「だれかいますかあ」
おそるおそる、声をかけてみる。
次は、もう少し大きな声で。
しかし、返事はない。
とりあえず、いつでもこの大きな体育館に戻ってこれるようにして、探検をしてみることにした。
廊下に出てみると、やはり単なる学校という感じだった。
教室があり、窓の外には昼の景色が広がっていて、おどろおどろしいところは、なにもない。
ただ、やたらと大きいというそこだけが、妙な非現実巻をかもしだしている。
教室はやはり教室で、廊下はやはり廊下に過ぎない。
体育館に戻れなくなるということもなかったし、こうなると、もうちょっと冒険したくなるのが人情というものだ。
トオルは、遠くに見える校舎に向けて、渡り廊下を歩くことにした。
「あれっ?」
視線を横の渡り廊下に見やると、そこには、転校生の美少女が歩いているのが見えた。
心なしか、顔が固い。
こんな奇妙な場所で会えた安心感からか、トオルは足を速めた。
「えっと、ナカタさん、だったよね?」
後ろ姿に声をかけた瞬間、転校生は、ものすごい速さでこちらを振り返り、そして、
抜刀した。
意味がわからない。
気がついたら、喉元に、刀をつきつけられていた。
これは、銃刀法違反なんじゃないか? そもそも、どこから刀なんて出てきた?
「えっと、なに、これ?」
呆然として、声が出ない。
「何者だ」
「へ?」
固い声を崩さずに、鋭い目線で転校生が睨む。それでも、美人が崩れないんだな、とトオルはまったく関係のないことを考えた。
「何者、って、ほら、きみ、今日、転校してきた子でしょう。僕、同じクラス。覚えてないかな、来たばっかりだし。急にこんなところに来て、僕もびっくりしてるんだよ」
そのまま、彼女はゆっくりと刀を、喉元から外した。
「君は、この世界のあるじではないはずだ」
「いや、言ってる意味がよくわからないけど、たぶんそんなわけわかんないものじゃないと思うよ」
世界のあるじってなんだ、この世界の創造主かなにかか。
「すでに、この世界のあるじとは接触を果たした。警戒されて逃げられてしまったが。だとすれば、君は私と同じか」
同じか、と知らない人から突然言われても、僕も困るわけだが。
そのとき、悲鳴が聞こえた。
男の声だ。
どこかで、聞き覚えがある。
ふと前を見ると、転校生がものすごい速さで、悲鳴の聞こえた方向に走っていくのが見えた。
トオルも、それを追いかける。
長い廊下をたくさん駆けて、たどりついたところは、体育館だった。
さきほどよりも広く、そして、なぜか床がぽっかり抜けていて、下は真っ暗な闇が広がっている。
「なんだ、これは」
正直、あまり先に進んで体育館の中に入りたい造形じゃなかったので、トオルは扉のかげで様子を見ることにした。
体育館の床には、ネットのようなものが貼ってあり、そこには三人の人がいた。
転校生はわかる。
あとの二人が問題だった。
休んでいるはずの、病気で起きないはずの、スズキ先生が、転校生の正面に、かなりの距離を置いて立っている。
そして、その足元に一人。バレー部のトオルにいやなことを言う男が横たわっている。
なんで、先生がここにいるんだ?
「あなたが、この夢に侵入した夢魔だな」
転校生が、先生をきっと睨む。
「そうだよぉ。わたしが夢魔」
先生が、どこか甘ったるい声で、転校生に対して囁く。
囁いているはずなのに、やけにはっきり聞こえる。
夢、と転校生は言っていた。
夢だから、こういう現象が起こるのだろうか。
「でも、おかしいなあ。君、なんで夢の中に入ってこれるわけ?」
すらり、と抜刀するような構えを見せた瞬間、転校生の右手には、きれいな日本刀が握られていた。
「それはどうでもいい。とりあえず、あなたを人間に戻す」
ぴくっ、と先生の体が揺れる。
「別に、その必要はないなあ。だって、わたし、幸せだもの」
「しかし、所詮は夢。偽りの幸せだ」
ゆっくりと、先生は首を振る。
「夢は現実の一部。終わらない夢は、現実と同じ」
「言っても、わからないみたいだな。ならば、切り伏せてでも、人間に戻す!」
言い終わるやいなや、転校生はすごい速度で、先生のほうに向かう。
先生も手から、粘液質なものを飛ばすが、すべて切り捨てられる。
あともう少しで、先生に刀が届く、というところで、異変が起こった。
急に床、正確には床に張ってある網が、波うち、転校生を後ろに弾き飛ばした。
それはまるで意志を持っているかのように動き、転校生と、そしてバレー部の男を拘束した。
波打つネットの動きが収まると、Yの字に別れた道の先に、ひとつは転校生、ひとつはバレー部の男が、簀巻きになって転がっていた。
ちょうどYの分かれ目のあたりに、先生が立っていて、Yの下の道の先が、トオルの隠れている扉のところにつながっていた。
もしかして、隠れているのがばれてる?
そう思ったのと、声が響いたのが同時だった。
「いるんでしょう? もう一人。さ、仲間を助けるか、それとも、夢魔にとらわれたかわいそうな犠牲者を助けるか、どっちか決めちゃおうか」
ばれているなら、しょうがない。
トオルは、姿をあらわす。
「あら?」
先生は、驚いたような顔をした。
「先生、元気そうで何よりです」
「ヤマモトくんも、元気そうだね。この女の子の仲間だったんだ」
「いや、それは違います。正直、僕にもなにがなにやら」
先生は、それが嘘なのかはかりかねる顔をしたが、にっこりと笑っていった。
「ま、だれであろうと、状況は同じ。どちらを助けるか、って話ね。大丈夫、助けなかったほうも死ぬわけじゃないから。現実の体は死ぬかもしれないけど、でも、決して悪いようにはしないから」
さ、どちらか選んで?
そういって、先生は十秒数えだした。
カウントダウンだ。
トオルは、全速力で駆けだした。
「たっ、たすけてくれぇ」
バレー部の男が、あわれっぽい声を出す。
トオルは、迷わず、転校生のほうに駆けだした。
転校生も、バレー部の男も、びっくりしたような顔をする。
「そ、そんな、え、あ」
ちょうど転校生のところにたどり着いたときに、十秒のカウントダウンが終わった。
「はい、結果が出たね」
そういうと、バレー部の男の体が、ゆっくりと沈み込んでいく。
ぷつりぷつりと、ネットが破れる音がする。
「な、なんで」
男が、呆然として声を出す。
「他者の命は平等じゃない。好きな人間の命は嫌いな人間の命より重い。選択肢の中に、お前が入っていてよかったよ。僕は、良心の呵責を感じずに、この女の子を選ぶことができる。お前が僕にいやな言葉を投げつけてくれていたおかげだね」
「うそ、だろ」
呆然とした顔のまま。
男は、暗い穴に吸い込まれていった。
「ど、どうして」
はじめて、動揺したような声をあげて、転校生がトオルに聞く。
「いや、あいつのこと、あまり好きじゃないから」
ぽかん、とした顔をした転校生。
「ありがとう、でも」
そのまま、何も言えない。転校生の体に巻き付いていた糸は、いつのまにか消えていた。
「へえ、おどろいた。すごく残酷なんだ、君って」
先生が、おどろいたように笑いながら言う。
「別に残酷だとは思いませんけどね。いやな奴をわざわざ殺そうとは思わないですけど、別に死んだってかまわないじゃないですか?」
先生は、それを聞いて、爆笑した。
「いいなあ。君、いいよ、すごくいい。残念だなあ、君たちも夢魔にしないといけないなんて。せっかくいい性格してるのに」
そういうと、ぽっかりと自分の下に穴が開いた。
最初からだれも助ける気がないんじゃないか、むかつくやつだな、と妙に冷静になりながらも、何もできないので、トオルはただぼんやりと状況を眺めていた。
どんっ。
がすっ、といやな音をたてて、トオルの体が体育館の壁にぶつかる。
なにかが飛んできて、自分にぶつかったのか。でも、なにかってなんだ。
状況がよく呑み込めないままに、トオルが先生のほうを見ると、転校生の刀が、ちょうど先生の首をはねとばしたところだった。
どうやら、ラリアットのようなものを喰らって、僕はあの子に助けられたらしい。
その勢いのまま、先生の首をはねたわけか。
妙に現実感のない世界の中で、先生の首がふっとんだせいか、トオルは、そんなことを考えながら、ぞっとするほど何も感じていなかった。
「終わったよ」
転校生が言う。
「先生は、死んだの?」
「いや、生きてる」
そういってから、転校生は、
「さっきは、ありがとう。助けてくれて」
「いや、いいよ。こっちこそ、助けてくれてありがとう」
「うん、それは、いいんだけど、その、友だちが、あんなことになって、大丈夫?」
心配と、それからどことない不安をただよわせて、転校生は質問する。
「うん、大丈夫。友だちじゃないしね」
トオルは、にっこりと笑う。
もしかしたら、この行為は、それなりに相手に恐怖を与えているかもしれないな、と思いながら。
気づいたら、まわりの風景がずいぶん変わっている。
ゆっくりと、白いものが視界を覆ってゆく。まわりが霧につつまれているのだ。
だんだん、目の前にいる転校生の顔も見えなくなっていく。
「気を付けてね」
どこか遠くから聞こえる転校生の声を聴きながら、トオルは何か返事をした。
そして、気がついたら、目が覚めていた。
「やけにリアルな夢だったな」
トオルはつぶやいて、朝の支度をすることにした。