『男爵令嬢にはお譲りできません〜公爵令嬢の優雅な外注大作戦〜』
「エレナ、君は最近、仕事の話ばかりだね」
婚約者であるカイル王太子殿下にそう言われた瞬間、私は手にしていた紅茶のカップを落としそうになった。
「……何とおっしゃいました?」
「せっかく二人でお茶を飲んでいるのに、予算だの報告書だの、そんな話ばかりじゃないか」
殿下は少し不満そうに眉を寄せた。
「リリア嬢は、もっと楽しそうな話をしてくれるよ」
リリア・ベルモンド男爵令嬢。
最近、殿下の周囲に頻繁に現れるようになった少女である。
桃色のドレスがよく似合い、愛らしい笑顔で誰にでも話しかける。
そして、何かにつけて殿下のお手伝いを申し出ているらしい。
「カイル様。私が仕事の話ばかりするのは、その仕事が終わらないからでございます」
私はできるだけ穏やかに答えた。
「王宮の予算案、慈善事業の報告書、各領地からの陳情書、式典の準備。それらを確認しているうちに、一日が終わってしまうのです」
「でも、君は昔から優秀だっただろう?」
「……ありがとうございます」
褒められているはずなのに、少しも嬉しくない。
優秀だから。
公爵令嬢だから。
未来の王太子妃だから。
そんな理由で、次から次へと仕事が回ってくる。
一方、殿下は私と過ごす時間が減ったことを寂しがり、楽しそうに笑う男爵令嬢に心を和ませている。
……何だか、納得がいきませんわ。
そのときだった。
「カイル様ぁ!」
庭園に甘い声が響いた。
振り返ると、リリアが小走りに近づいてくる。
「まあ、エレナ様もいらしたんですね!」
「ごきげんよう、リリア様」
「ごきげんよう! カイル様、昨日のお仕事、とっても楽しかったです!」
殿下が微笑んだ。
「そうか。助かったよ」
「私、カイル様のお役に立てるなら、何でも頑張ります!」
リリアは頬を染め、殿下を見上げた。
「エレナ様はお忙しそうですものね。私が代わりにお手伝いできたら嬉しいです!」
私は静かに微笑んだ。
「まあ。それはありがたいお申し出ですわ」
リリアの笑顔が一瞬だけ固まった。
「えっ?」
「お仕事をお手伝いいただけるのでしょう?」
「え、ええ……もちろんです!」
「では、明日から慈善事業の支出記録を整理していただけますか?」
「し、支出記録?」
「領地ごとの報告書と照合して、金額に間違いがないか確認するお仕事ですわ」
リリアは目を泳がせた。
「そ、それは……」
殿下が苦笑する。
「エレナ。リリア嬢は君のように専門的な教育を受けているわけじゃないんだ」
「まあ」
私は微笑んだ。
「では、無理をお願いしてはいけませんわね」
リリアはほっとしたように胸を撫で下ろした。
けれど、私の胸には小さな疑問が残った。
なぜ、私だけが何でもできなければならないのかしら?
---
その夜。
私は執務室で、机いっぱいに積まれた書類を眺めていた。
王宮の予算書。
孤児院への補助金の報告。
領地からの陳情。
式典の招待客名簿。
どれも大切な仕事である。
けれど、そのすべてを私一人で処理する必要があるのだろうか。
私はふと、父の言葉を思い出した。
『エレナ。優れた領主とは、自分一人で何でもできる者ではない。人の力を見極め、適切に任せられる者だ』
父は公爵家の広大な領地を治めている。
けれど、父自身がすべての帳簿を計算しているわけではない。
財務官がいて、書記官がいて、各地の管理官がいる。
父は彼らの報告を確認し、必要な判断を下している。
……そうですわ。
どうして今まで気づかなかったのでしょう。
私は机の引き出しから、王宮の古い職務規定を取り出した。
未来の王太子妃に関する条項を調べる。
すると、興味深い一文が見つかった。
『王太子妃候補は、必要に応じて私費により補佐人を雇用することができる。ただし、機密情報の取り扱いについては王宮の承認を受け、最終的な判断と責任は本人が負うものとする』
私は思わず笑みを浮かべた。
まあ。
こんな便利な規定があったなんて。
翌朝、私は父に相談した。
「お父様。私、補佐官を雇いたいのです」
父は少し驚いたあと、愉快そうに笑った。
「ようやくその気になったか」
「ご存じだったのですか?」
「もちろんだ。お前がいつ気づくかと思っていた」
「まあ! 教えてくださればよろしかったのに」
「自分で気づいたほうが身につくだろう?」
父は書類を一枚取り出した。
「公爵家の人材紹介所に、腕のよい者が何人かいる。面接してみるか?」
「ぜひ!」
こうして、私の外注大作戦が始まった。
---
最初に雇ったのは、ルーカスという青年だった。
まだ二十代半ばだというのに、数字を見る速さが尋常ではない。
「こちらの予算書ですが、三か所に計算間違いがあります」
面接で渡した書類を、彼はわずか数分で確認してしまった。
「まあ。どこかしら?」
「この補助金の合計額、それから運送費の計上、最後にこちらの食料品の単価です」
私は目を見開いた。
「本当ですわ」
「特に、この小麦の単価はおかしいですね。通常の三倍になっています」
「三倍?」
「はい。単なる計算間違いではない可能性があります」
私はすぐに採用を決めた。
二人目は、セシリアという女性だった。
彼女は大量の書類を分類し、必要なものを瞬時に取り出せる仕組みを作るのが得意だった。
「エレナ様。この書類の山ですが、内容別に分類すれば、探す時間を大幅に減らせます」
「まあ。そんなことが?」
「はい。それに、毎回同じ形式で作成する報告書は、ひな形を用意すればよいのです」
私は感動した。
今まで私は、同じような文章を何度も何度も書いていたのである。
三人目は、ミシェルという青年だった。
彼は情報収集に長け、人脈も広かった。
「必要な情報を、信頼できる相手から集めるのが仕事です」
「噂話もお得意なのかしら?」
私が尋ねると、ミシェルは笑った。
「噂は調査のきっかけにはなります。でも、裏付けが取れなければ、ただの噂ですよ」
私は大きくうなずいた。
「素晴らしい考え方ですわ」
こうして三人を雇い、王宮の許可を得たうえで、守秘義務と担当範囲を明確にした。
報酬は、一般的な王宮書記官の三倍。
安くはない。
けれど、優秀な人材には、それにふさわしい対価を支払うべきだ。
「皆様。どうぞよろしくお願いいたします」
私が頭を下げると、三人は驚いたように顔を見合わせた。
「公爵令嬢が、私たちに頭を下げるんですか?」
ルーカスが尋ねた。
「もちろんですわ。これからお力をお借りするのですもの」
セシリアが微笑んだ。
「精いっぱい務めさせていただきます」
ミシェルも楽しそうにうなずいた。
「面白い仕事になりそうですね」
---
三人の働きぶりは、想像以上だった。
ルーカスは予算書を整理し、支出の不自然な箇所を次々と発見した。
特に孤児院への小麦の納入価格が高すぎる件は、ミシェルの調査によって、特定の商会が不当に利益を得ている疑いがあることがわかった。
「この商会、王宮の一部の役人とつながりがあるようです」
ミシェルが報告した。
私は資料を確認し、正式な監査を依頼した。
調査の結果、不正な請求が明らかになり、関係者は処分された。
一方、セシリアは書類の管理方法を一新した。
報告書は種類ごとに整理され、確認が必要な箇所がひと目でわかるようになった。
私が最終確認する書類も、以前の半分以下になった。
「……信じられませんわ」
私は片づいた机を見つめた。
「こんなに早く仕事が終わるなんて」
セシリアが微笑んだ。
「エレナ様が判断なさるべきことと、私たちが処理できることを分けただけです」
ルーカスも肩をすくめた。
「全部自分でやっていたら、時間がいくらあっても足りませんよ」
「本当に、そのとおりですわね」
私は心からうなずいた。
そして、久しぶりに午後の時間が空いた。
そう。
カイル殿下と、ゆっくりお茶を飲む時間が。
---
「エレナ。今日はずいぶん早いんだね」
庭園で私を迎えた殿下は、驚いたように目を見開いた。
「ええ。お仕事が終わりましたので」
「もう?」
「はい」
「でも、あれほど大量の書類があっただろう?」
「優秀な補佐官を雇いましたの」
私はにっこり微笑んだ。
「仕事を分担したら、驚くほど効率がよくなりましたわ」
殿下は感心したようにうなずいた。
「なるほど。そういう方法があったのか」
「ええ。おかげで、こうしてカイル様とお茶を楽しめます」
殿下の表情が柔らかくなった。
「それは嬉しいな」
そのときだった。
「カイル様ぁ!」
聞き覚えのある声が響いた。
リリアである。
「まあ、エレナ様! 今日もいらっしゃるんですの?」
「ええ。お仕事が終わりましたので」
「もう終わったんですか?」
リリアは驚いたように目を丸くした。
「はい」
「で、でも……エレナ様のお仕事って、ものすごく多いんでしょう?」
「ええ。ですから、補佐官を雇いましたの」
「補佐官?」
「会計、文書管理、情報収集。それぞれ専門の方にお任せしております」
リリアはしばらく黙っていた。
そして、ぱっと顔を輝かせた。
「まあ! それなら私にもできますわ!」
私は瞬きをした。
「……と、おっしゃいますと?」
「人を雇えばいいんでしょう? だったら、私だってできます!」
リリアは得意げに胸を張った。
「エレナ様ばかり褒められるなんて、ずるいですもの!」
殿下が困ったように笑った。
「リリア嬢。人を雇うには、仕事を任せる立場と責任が必要だよ」
「大丈夫です! 私だって立派にやってみせます!」
そう言って、リリアは勢いよく立ち去った。
私はその背中を見送りながら、そっと紅茶を飲んだ。
……何だか、妙なことになりそうですわね。
---
それからしばらくして、王宮に大きな仕事が舞い込んだ。
五か国の使節団を招く、外交晩餐会である。
「エレナ。君にも準備に参加してほしいんだ」
カイル殿下が申し訳なさそうに切り出した。
「もちろん、君一人に任せるつもりはない。僕も一緒に準備するよ」
私は少し驚いた。
以前の殿下なら、私にすべて任せていたかもしれない。
けれど今は違う。
「ありがとうございます、カイル様」
私は微笑んだ。
「では、まず確認したいことがございます」
「何だい?」
「賓客の正式な敬称、席順、食事制限、アレルギー、お誕生日、好きな花、趣味、贈り物の好みについて、資料はございますか?」
殿下は瞬きをした。
「……誕生日?」
「ええ」
「好きな花まで?」
「もちろんですわ」
私はにっこり微笑んだ。
「外交とは、国と国のお付き合いであると同時に、人と人のお付き合いでもございますもの」
殿下は感心したようにうなずいた。
「なるほど。さすがエレナだね」
「ありがとうございます」
私は優雅に微笑み返した。
ただし。
今回も私一人で、すべてを調べるつもりはございませんわ。
---
翌朝。
私は三人の補佐官を招集した。
「皆様。本日から外交のお勉強を始めますわ」
「外交ですか?」
ルーカスが眼鏡を押し上げた。
「今度は外国の帳簿でも調べるんですか?」
「いいえ。もっと大切なことです」
私は机の上に、五か国の名前を記した資料を広げた。
北方のノルディア王国。
海洋国家セレスタ王国。
花と芸術の国フローリア公国。
商業国家ヴェルディア共和国。
そして山岳国家アルディス王国。
「皆様には、賓客について必要な情報を整理していただきたいのです」
セシリアが筆を構えた。
「具体的には、どのような情報でしょう?」
「正式な敬称、ご家族、誕生日、好きな花や色、趣味、食事制限、アレルギー、贈答品に関する規則。それから、各国の外交儀礼です」
ルーカスが目を丸くした。
「……そんなに調べるんですか?」
「ええ。ただし、私生活を詮索するわけではございません。必要な情報を正式な外交窓口から確認するのです」
ミシェルが楽しそうに笑った。
「なるほど。相手の好みを知って、失礼のないおもてなしをするわけですね」
「そのとおりですわ」
私は微笑んだ。
「例えば、ある王女様が百合の花をお好きだとしても、花粉に敏感でいらしたら、寝室に飾るべきではございませんでしょう?」
「確かに」
「それに、お誕生日を知っていても、ご本人が公に祝われることを望まない場合もございます」
セシリアが深くうなずいた。
「つまり、情報を集めるだけでなく、その扱い方も重要なのですね」
「ええ。外交とは、相手を知り、尊重することから始まるのです」
こうして、外交賓客台帳の作成が始まった。
---
最初に問題となったのは、食事だった。
「エレナ様。晩餐会の献立に問題があります」
ルーカスが持ってきたのは、厨房から提出された献立表だった。
「セレスタ王国のマリーナ王女には、甲殻類に重いアレルギーがあるそうです」
「まあ」
私は献立を確認した。
前菜は海老のクリーム仕立て。
魚料理には蟹のソース。
スープの出汁にも海老が使われている。
「……これはいけませんわね」
「ええ。王女殿下のお皿から海老だけを取り除けばよい、という問題ではありません」
私はすぐに料理長を呼んだ。
「マリーナ殿下のお食事は、先方の担当者と確認のうえ、別の調理工程でご用意くださいませ。調理器具や食材の混入にも注意が必要です」
「承知いたしました」
「それから、可能であれば、ほかのお客様と同じように美しいお料理にしてくださいませ」
料理長が顔を上げた。
「同じように、でございますか?」
「ええ。安心してお食事を楽しんでいただくことが目的ですもの。王女殿下だけが寂しいお皿になってしまっては、申し訳ございませんわ」
料理長は嬉しそうに微笑んだ。
「お任せくださいませ!」
続いて問題になったのは、席順だった。
「エレナ様。こちらが儀礼局の作成した席次案です」
セシリアが広げた紙には、長い晩餐テーブルを囲む賓客の名前が記されていた。
私は一か所を指さした。
「ノルディア王国の大使と、アルディス王国の王弟殿下が隣同士になっていますわね」
「はい」
「この二国は、昨年まで通商権を巡って対立していたはずです」
セシリアが資料をめくる。
「現在も交渉中ですね」
「隣同士が必ずしも悪いわけではございません。ですが、双方の意向を確認せずに決めるのは危険ですわ」
さらに、フローリア公国の公女の席も、公式の序列に照らして確認が必要だった。
「席順とは、ただ椅子を並べることではございません」
私はセシリアに説明した。
「相手の立場を尊重し、安心して会話できる場所を作ること。それも外交の一部ですわ」
セシリアは感心したように筆を走らせた。
「では、正式な序列、各国の関係、通訳の配置、移動のしやすさを考慮して、新しい案を作成いたします」
「お願いいたします」
こうして、晩餐会の準備は順調に進んでいった。
少なくとも。
あの男爵令嬢が現れるまでは。
---
「エレナ様ぁ!」
王宮の廊下に、聞き覚えのある甘い声が響いた。
振り返ると、桃色のドレスをまとったリリアが立っていた。
「ごきげんよう、リリア様」
「ごきげんよう! エレナ様、外交晩餐会の準備をなさっているんですって?」
「ええ」
「ふふっ。私も参加することにいたしましたの!」
私は瞬きをした。
「まあ。そうなのですか?」
「ええ! 私、気づいたんです!」
リリアは得意げに胸を張った。
「エレナ様があんなにお仕事を早く終わらせられるのは、人を雇っているからでしょう?」
「ええ。それも理由の一つですわ」
「だったら、私にもできますわ!」
私は紅茶を飲みかけていたら、きっとむせていただろう。
「……と、おっしゃいますと?」
「私も優秀な人を雇いましたの! これからは、私だって難しいお仕事を全部お任せして、カイル様のお役に立てますわ!」
なるほど。
そう来ましたか。
「それは素晴らしいことですわね」
私は素直に答えた。
人を雇うこと自体は、何も悪くない。
むしろ、適切な仕事を任せられるなら大歓迎である。
ところが、リリアは私の反応が気に入らなかったらしい。
「ふふん。エレナ様ばかり褒められるのも、これでおしまいですわ!」
そう言い残して、足早に去っていった。
私はその背中を見送りながら、小さく首をかしげた。
……何でしょう。
妙な胸騒ぎがいたしますわ。
---
リリアが雇ったのは、三人だった。
一人目は、元王宮外交顧問を名乗る男、バルド。
立派な口ひげをたくわえ、豪華な衣装を身につけ、いかにも偉そうに振る舞う人物である。
二人目は、若い花職人のアンナ。
花の扱いに優れ、王都の花屋で働いていたという。
三人目は、元伯爵家の侍女マルタ。
長年、貴族の屋敷で働いてきた経験があり、礼儀作法には詳しいらしい。
「どうですの、エレナ様!」
リリアは三人を従えて、得意げに私の執務室へやって来た。
「私も立派な専門家を雇いましたの!」
「まあ。皆様、よろしくお願いいたします」
私は三人に微笑んだ。
アンナは緊張した様子で頭を下げ、マルタは丁寧に一礼した。
しかし、バルドだけは大げさに胸を張った。
「ふむ。公爵令嬢ともあろうお方が、外交の何たるかをご存じないとは困りますな」
「まあ」
私は微笑みを崩さなかった。
「では、ぜひご教授くださいませ」
「外交とは、相手の心をつかむことです。高価な贈り物をすれば、どこの王族も喜びますぞ」
……あら?
「贈答品には、国ごとの規則や慣習がございますけれど」
「そんな細かいことを気にしていては、大物にはなれません!」
バルドは豪快に笑った。
リリアが嬉しそうに手を叩く。
「ほら! やっぱりエレナ様は考えすぎなんですわ!」
私は静かに扇を開いた。
どうやら、少々困ったことになりそうである。
---
それから数日後。
リリアは外交晩餐会の一部装飾と、歓迎用の贈答品の準備を担当することになった。
もちろん、正式な決裁権は私と儀礼局にある。
けれど、リリアはその違いを理解していないようだった。
「アンナ! フローリア公国の公女様には、この真っ赤な薔薇を百本用意してちょうだい!」
「ですが、リリア様。公女殿下は白薔薇がお好きだと伺っております」
「白なんて地味ですわ! 赤いほうが豪華でしょう?」
「ですが……」
「私が雇い主なのよ? 言うとおりになさい!」
アンナは困ったようにうつむいた。
さらに、リリアはマルタに席次表の変更を命じた。
「私の席を、カイル様のお隣にしてちょうだい」
「リリア様。それはできかねます」
「どうして?」
「王太子殿下のお隣には、正式な席次に従って賓客が座られます。リリア様のお席を移すには、儀礼局の承認が必要でございます」
「そんなの、あなたが何とかすればいいでしょう!」
「ですが……」
「もう! 使えないわね!」
マルタは唇を結んだ。
一方、バルドはリリアにこう助言した。
「お嬢様。外交の場では、目立った者が勝ちですぞ。王族の近くに座り、豪華な贈り物を渡せば、皆がお嬢様に注目するでしょう」
「まあ! さすが先生ですわ!」
リリアはすっかりその気になった。
しかし、問題はそれだけではなかった。
バルドは自分の報酬を増やすため、必要のない装飾品や高価な贈答品を次々と注文していたのである。
その費用は、すべてベルモンド男爵家に請求されていた。
---
「エレナ様。少々、気になることがございます」
晩餐会の一週間前。
ミシェルが私の執務室を訪れた。
「リリア様の雇われたバルドという人物ですが、王宮の記録を調べたところ、外交顧問を務めた事実がありません」
「まあ」
「以前、儀礼局の臨時書記として三か月ほど働いていたようですが、それだけです」
私はため息をついた。
「やはり、そうでしたか」
「しかも、男爵家にかなり高額な請求をしているようです」
ルーカスが帳簿を広げた。
「こちらをご覧ください。歓迎用の花と贈答品の費用が、当初の予定の五倍になっています」
「五倍?」
「ええ。高価な花器や宝石箱まで注文しています。しかも、納入業者の一つはバルドの親族が経営する商会です」
私は眉を寄せた。
「……困りましたわね」
セシリアも資料を差し出した。
「さらに、リリア様が作成させた席次案が、正式なものと異なっております」
「まあ」
「王太子殿下のお隣に、リリア様のお名前がございます」
私はしばらく黙った。
そして、ゆっくりと扇を閉じた。
「皆様。まずは事実関係を整理してくださいませ。推測だけで誰かを責めるわけにはまいりません」
「承知しました」
「それから、リリア様に正式な確認の場を設けましょう」
ミシェルが首をかしげた。
「直接注意なさるのですか?」
「ええ。晩餐会は各国の賓客をお迎えする大切な場ですもの。失敗するまで放っておくわけにはまいりません」
私は静かに微笑んだ。
「勝負をするなら、別の場所でお願いしたいですわ」
---
翌日。
私はリリアと、彼女の雇った三人を会議室に招いた。
「リリア様。準備の進み具合はいかがかしら?」
「もちろん順調ですわ!」
リリアは得意げに胸を張った。
「私の専門家たちが、すべて完璧に仕上げてくださいますもの!」
「それは何よりですわ。では、確認させてくださいませ」
私は一枚の資料を差し出した。
「フローリア公国のアメリア公女殿下に、赤薔薇を百本贈る予定になっておりますね」
「ええ! 豪華でしょう?」
「公女殿下は白薔薇がお好きだと、正式な資料にございますけれど」
「でも、赤いほうが目立ちますわ!」
「……そうですか」
私は次の資料を開いた。
「こちらの席次案では、リリア様がカイル殿下のお隣に座ることになっていますわね」
「ええ!」
「その席は、セレスタ王国のマリーナ王女殿下のために用意されております」
「だったら、王女様に別の席へ移っていただけばよろしいでしょう?」
私は静かにリリアを見つめた。
「リリア様。外交晩餐会は、私たちが目立つための場ではございません」
「わ、わかっていますわ!」
「では、なぜご自身の席を、正式な承認なく変更なさったのですか?」
リリアは言葉に詰まった。
そのとき、バルドが前に出た。
「公爵令嬢殿。細かいことにこだわりすぎですぞ。外交とは、もっと大胆に行うものです」
「そうですか」
私は微笑んだ。
「ところで、バルド様」
「何ですかな?」
「以前、王宮の外交顧問を務めていらしたと伺いましたが、何年のことでしょう?」
バルドの表情が固まった。
「そ、それは……ずいぶん昔のことですからな」
「王宮の記録では、儀礼局の臨時書記として三か月勤務されたとございます」
「……っ!」
「もちろん、書記のお仕事も大切ですわ。ですが、経歴を偽って契約を結ばれたのであれば、問題になります」
リリアが目を見開いた。
「えっ? 先生?」
バルドは額に汗を浮かべた。
「い、いや、その……」
ルーカスが静かに帳簿を差し出した。
「それから、こちらの請求書についても説明をお願いします。相場を大きく上回る金額が記載されています」
バルドは顔を真っ赤にした。
「こ、これは正当な費用だ!」
「でしたら、納入業者の見積書と契約内容を確認させていただけますか?」
「……!」
バルドは答えられなかった。
リリアは呆然としていた。
「そ、そんな……私、ちゃんと専門家を雇ったのに……」
私は静かに言った。
「リリア様。人を雇うこと自体は、何も悪くございません」
「……」
「ですが、誰を雇うのか。何を任せるのか。仕事が正しく進んでいるのか。それを確認するのは、雇い主の責任ですわ」
リリアは唇を震わせた。
「でも……エレナ様だって、全部人に任せているじゃありませんか!」
「ええ。任せております」
私はうなずいた。
「ただし、判断と責任まで手放しているわけではございません」
「……っ!」
「私の補佐官たちは、それぞれ得意な分野で力を発揮してくださっています。私はその成果を確認し、必要な判断をいたします」
私はアンナとマルタに視線を向けた。
「こちらのお二人も、優秀な方だと思いますわ」
アンナが驚いたように顔を上げた。
「わ、私が……?」
「ええ。あなたは公女殿下の花の好みをご存じでした。きちんと調べていらしたのでしょう?」
「はい……」
「マルタ様も、正式な席次を守ろうとなさいましたね」
「はい」
「お二人は、ご自身の役割を果たそうとなさっていました」
私はリリアを見つめた。
「それなのに、その意見を聞かなかったのは、どなたでしょう?」
リリアは何も言えなかった。
---
ところが、騒動はそれだけでは終わらなかった。
会議の翌朝。
バルドが姿を消したのである。
しかも、男爵家から前払いされた多額の報酬を持ったまま。
「エレナ様ぁぁぁ!」
執務室に飛び込んできたリリアは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「先生が! バルド先生がいなくなってしまいましたの!」
「まあ」
「お父様からお預かりしたお金も、全部……!」
私は深くため息をついた。
予想していたとはいえ、実際に起きてしまうと気の毒である。
「まずは落ち着いてくださいませ」
「どうしましょう! お父様に知られたら、私……!」
「すでに男爵閣下には、状況をご報告しております」
「ええっ!?」
リリアはその場に崩れ落ちそうになった。
「そんなぁ……!」
私はセシリアに目配せした。
「被害額と契約内容は整理できていますね?」
「はい。正式な手続きに必要な資料はそろっております」
「では、王都の警備局に届け出ましょう」
ルーカスがうなずいた。
「商会への支払い記録も追えます。すべて取り戻せるとは限りませんが、調査の手がかりにはなるでしょう」
リリアは涙目で私を見上げた。
「……助けてくださるんですの?」
「もちろんですわ」
「どうして……?」
私は少し首をかしげた。
「困っている方を助けるのに、理由が必要かしら?」
リリアは何も言わなかった。
ただ、小さく肩を震わせていた。
---
そして迎えた外交晩餐会当日。
王宮の大広間には、五か国の旗が美しく飾られていた。
テーブルには季節の花々が並び、銀の食器が燭台の光を受けて輝いている。
私は淡い銀青色のドレスをまとい、カイル殿下の隣に立っていた。
「エレナ。準備は大丈夫かい?」
「ええ。皆様のおかげで、滞りなく整いましたわ」
「リリア嬢の件は聞いたよ。大変だったね」
「少々、予定外の出来事はございましたけれど」
私は微笑んだ。
「幸い、晩餐会には影響ございません」
実際、アンナの花の知識は大いに役立った。
彼女が提案した白薔薇の刺繍飾りは、フローリア公国のアメリア公女に大変喜ばれた。
「まあ、なんて美しいのでしょう!」
公女は目を輝かせた。
「この花びらの重なり方……素晴らしいわ」
「王都の若い職人が制作したものでございます」
私が紹介すると、アンナは緊張しながら一礼した。
「こ、光栄でございます」
公女は嬉しそうに微笑んだ。
「ぜひ、私の国の工房にも来ていただきたいわ」
アンナは驚きのあまり、しばらく声が出なかった。
一方、マルタが確認に協力した席次表も、無事に役目を果たした。
正式な序列を守りながら、各国の賓客が会話を楽しめる配置になっていた。
セレスタ王国のマリーナ王女には、アレルギーに配慮した料理が提供され、安心して晩餐を楽しんでいただけた。
ノルディア王国の大使には、誕生日が近いことを踏まえ、公式の贈答規定に沿った歴史書を後日お届けすることになった。
華やかな宴は、終始和やかな雰囲気に包まれていた。
そして私は、改めて思った。
優秀な人材とは、肩書が立派な人のことではない。
自分の仕事に誇りを持ち、知識と技術を磨き、誠実に役割を果たす人のことなのだ。
---
晩餐会から数日後。
私は王宮の執務室で、二人の女性と向かい合っていた。
アンナとマルタである。
「お二人に、ご相談がございます」
私は微笑んだ。
「王宮の新しい業務改善室で、働いていただけませんか?」
アンナが目を丸くした。
「わ、私が王宮で……?」
「ええ。花の装飾と贈答品の選定を担当していただきたいのです」
「ですが、私はただの花職人です」
「ただの、ではございませんわ」
私は首を振った。
「あなたの知識と技術は、外交の場でも十分に役立ちます」
続いてマルタに視線を向けた。
「マルタ様には、儀礼と接遇の指導をお願いしたいのです」
「私のような者でよろしいのでしょうか?」
「もちろんです。長年の経験を、ぜひ若い侍女たちに伝えてくださいませ」
二人は顔を見合わせた。
そして、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、エレナ様!」
私は微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
こうして、私の補佐官チームには新たな仲間が加わった。
会計のルーカス。
文書管理のセシリア。
情報収集のミシェル。
花と装飾のアンナ。
礼儀作法と接遇のマルタ。
それぞれの得意分野を生かし、王宮の仕事はますます効率化されていった。
---
その日の午後。
私は庭園でカイル殿下とお茶を楽しんでいた。
「エレナ。君はまた、優秀な人材を見つけたんだね」
殿下が微笑んだ。
「ええ。とても素晴らしい方々ですわ」
「リリア嬢は、どうしているんだい?」
「男爵閣下のもとで、会計と契約について学び直していらっしゃるそうです」
「そうか」
「今回のことは、よい勉強になったのではないでしょうか」
私は紅茶を一口飲んだ。
「人を雇うのは簡単でも、人を信頼し、適切に仕事を任せるのは、なかなか難しいことですもの」
殿下は感心したようにうなずいた。
「君は本当に、立派な王太子妃になるよ」
「ありがとうございます」
「ところで、エレナ」
殿下は少し照れたように微笑んだ。
「今日は君に贈り物があるんだ」
「まあ。何でございましょう?」
殿下が侍従に合図すると、小さな花束が運ばれてきた。
白い鈴蘭だった。
「以前、君が一番好きな花だと教えてくれただろう?」
私は思わず目を見開いた。
「……覚えていてくださったのですか?」
「もちろん」
殿下は優しく微笑んだ。
「外交では、相手の好きなものを知ることが大切なんだろう?」
「ええ」
「だったら、まずは僕の一番大切な人のことを、もっと知りたいと思ってね」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「……カイル様」
「君の誕生日も、好きなお菓子も、苦手な食べ物も、これからはちゃんと覚えておくよ」
私は思わず笑ってしまった。
「まあ。では、試験をいたしましょうか?」
「試験?」
「ええ。私のお誕生日は?」
殿下は即答した。
「五月十七日」
「正解ですわ。では、好きなお菓子は?」
「苺のタルト」
「まあ、素晴らしい!」
殿下が得意げに笑った。
「これくらいは覚えているよ」
「では、最後の問題です」
私は少し身を乗り出した。
「私が一番大切にしているものは、何でしょう?」
殿下はしばらく考えた。
そして、そっと私の手を取った。
「……僕たちが、こうして一緒に過ごす時間かな?」
私は微笑んだ。
「大正解でございます」
殿下は嬉しそうに笑った。
私はその手を握り返した。
外交も、仕事も、恋愛も。
大切なのは、相手を知ること。
相手の言葉に耳を傾けること。
そして、それぞれの能力や思いを尊重すること。
優秀な人材を雇うだけでは、何も始まらない。
その人たちが力を発揮できるようにすることこそ、上に立つ者の務めなのだ。
私は今日も、たくさんの方々のお力を借りている。
だからこそ、自分一人では到底成し遂げられなかったことが、少しずつ実現している。
「エレナ」
「はい、カイル様」
「明日は一緒に街へ出かけないかい?」
「まあ。お誘いくださるのですか?」
「ああ。君の好きな菓子店に行こう」
私は嬉しくなって、殿下の腕にそっと手を絡めた。
「喜んでお供いたしますわ」
仕事は、適任者にお任せする。
必要な知識は、自分でも学ぶ。
人の意見には、きちんと耳を傾ける。
そして、最後の判断と責任は、自分で引き受ける。
それが、私の選んだ公爵令嬢としての生き方だ。
ちなみに。
リリア様からは先日、一通のお手紙が届いた。
『今度こそ、ちゃんと勉強してから人を雇いますわ!』
と、少々乱れた文字で書かれていた。
私は思わず笑ってしまった。
あの方も、少しは成長なさったのかもしれない。
ただし。
どれほど優秀な人材を雇われても。
どれほど立派な外交術を学ばれても。
これだけは、はっきり申し上げておきたい。
仕事なら、いくらでもお譲りいたします。
面倒な帳簿も、難しい書類も、複雑な外交儀礼も。
適任者がいらっしゃるのなら、喜んでお任せいたしましょう。
けれど。
愛する婚約者と過ごす、この幸福な時間だけは。
男爵令嬢には、絶対にお譲りできませんわ!
私は白い鈴蘭の花束を胸に抱き、カイル殿下に微笑みかけた。
午後の庭園には、甘い花の香りが漂っていた。
そして今日も、私の優雅な時間は、誰にも邪魔されることなく過ぎていくのだった。
――完――




