表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/64

第十四話 春告げる日、まだ何も知らず②

王宮から学院へ向かう馬車の中で、エレオノーラは膝の上の冊子を閉じた。王宮の封蝋の赤が指先に残っている。窓の外では、王都の石畳がゆるやかに学院の通りへ変わっていく。商家の看板が減り、貴族の馬車が増え、やがて高い鉄門の向こうに王立学院の尖塔が見えた。春の風は門前の白い花を揺らし、学院へ向かう若い貴族の馬車もいくつか見える。王立学院の門前では、控えめな昼の装いをした令嬢たちと、飾りを抑えた礼服の子息たちが、声を落として挨拶を交わしていた。王宮の書類の匂いがまだ手元に残っているのに、学院の鐘の音を聞くと、エレオノーラはいつも、別の種類の視線の中へ入っていくのを感じた。


馬車を降りると、まずベアトリス・クラインが気づいた。栗色の髪を柔らかく巻き、淡い桃色のリボンを合わせた彼女は、幼いころの丸い頬こそ消えていたが、人目を引く明るさはそのままだった。けれど、その明るさは以前よりも社交の場に慣れたものになっている。どの角度で声をかければ周囲に自然に見えるか、誰が見ているときに近づくべきか、彼女はもう知っている顔をしていた。


「エレオノーラ様、ごきげんよう。今朝は王宮へいらしていたの?」


「ごきげんよう、ベアトリス様。王妃陛下へお渡しする書類がございましたので」


「まあ、朝から。相変わらずお忙しいのね。私なら、学院へ来る前にそれだけで疲れてしまうわ」


ベアトリスは笑って言った。笑い声は軽いが、目だけは周囲を見ている。エレオノーラのそばへどのくらい近づいてよいか、どの令嬢がこちらを見ているかを、無意識に測っているようだった。幼いころ、早く名で呼んでほしいと言った少女は、今では名を呼ぶことの近さと危うさを知っている。


その少し後ろから、クラリッサ・エルヴェールが歩いてきた。濃い蜂蜜色の髪をきちんと結い、薄い灰緑のドレスは目立ちすぎないが、刺繍の糸は上質だった。彼女はエレオノーラへ礼をとると、すぐにベアトリスのような明るい言葉を続けず、手元の小さな予定表へ視線を落とした。


「エレオノーラ様、本日の慈善講話の席次が、昨夕の掲示から少し変わっております。神殿側の席が一列、前へ出ておりました」


「神殿側の席が?」


「はい。学院長室の者が、今朝早く差し替えておりました。理由は記されておりません」


クラリッサの声は低かった。噂として広めるためではなく、事実として置くための声だった。エレオノーラは予定表を受け取り、短く目を通した。確かに、神殿推薦の者に用意された席が当初より前に出ている。王宮関係者の席に近い。正式な通達がないまま変えるには、少し目立つ位置だった。


ベアトリスが肩をすくめる。


「聖女候補の方がいらっしゃるからでしょう? 皆、その方を見たいのよ。神殿で癒やしの力を認められたなんて、吟遊詩人の歌に出てくる方のようだもの」


「どれほど人目を引く方であっても、席次は手順を経て動かすものです」


エレオノーラがそう言うと、ベアトリスは一瞬だけ目を丸くし、それから困ったように笑った。


「エレオノーラ様は、やっぱり真面目ね」


その言葉に棘はなかった。けれど、真面目という一語は、時に人を遠ざける。クラリッサは何も言わず、予定表を返した。彼女の灰緑の瞳は、席次の変化を覚えておくように紙の端を見ていた。


回廊の向こうでは、ベルナール・ロシュフォールが数人の男子生徒と話していた。明るい栗色から淡い金茶へ寄った髪は、陽の中でやわらかく見える。幼いころより背が伸び、整った礼服の扱いにも慣れていた。彼はエレオノーラに気づくと礼をとったが、その立ち位置は王太子の側近候補たちに近い。敵意ではない。だが、誰のそばに立てば周囲がどう見るのかを、彼はもう知っているようだった。


「ヴァルクレスト公爵令嬢、ごきげんよう。本日の講話は、殿下もご出席になるそうですね」


「ええ。その予定です」


「聖女候補の方もお見えになるとか。学院も華やぎますね」


ベルナールの言葉は礼儀正しかった。けれど、その華やぎが何を意味するのか、彼自身もまだ深く考えてはいないのだろう。新しいもの、王太子が関心を向けるもの、神殿が推すもの。それらは、学院の空気を簡単に動かす。エレオノーラは礼を返し、歩き出した。ベアトリスの明るい声、クラリッサの控えめな足音、ベルナールが男子生徒たちへ戻る気配が、回廊の中で離れていく。


慈善講話の行われる講堂には、すでに人が集まりはじめていた。王宮側の席、学院側の席、神殿側の席がそれぞれ整えられ、花は控えめに置かれている。エレオノーラは入口近くで立ち止まり、掲示と実際の席を照らし合わせた。神殿側の席は確かに前に出ていた。しかも、そのうち一つは王太子席から視線が届きやすい場所にある。


「エレオノーラ」


背後から声がした。アレクシスだった。学院へ出るための礼服に着替え、朝の小書斎にいたときよりも表情が明るい。彼は広間や講堂に入ると、自然に息を吹き返す。人に見られる場所で、彼はよく映える。


「席を確認していたのかい?」


「はい。神殿側の配置が昨夕の掲示から変わっております」


「聖女候補が来るからだろう。彼女がどこに座るのか、皆気になるだろうし」


「気になることと、近い席に置くことは同じではありません」


アレクシスは苦笑した。


「君は本当に、すべてを正しく並べようとするね」


「並べ方を誤れば、後で意味が生まれます」


「意味か。僕には、歓迎の気持ちを示すよい機会に思えるけれど」


エレオノーラはそこで言葉を飲み込んだ。歓迎の気持ち。それは美しい言い方だった。否定しにくい。けれど、歓迎という名のもとに距離を詰めすぎれば、後にはその近さだけが当然のものとして残る。王太子の席に近い聖女候補。神殿推薦。王宮の寄進。マルヴィン侯爵家の推薦状。今はまだ、どれも別々の出来事に見える。けれど、席が一つ前へ移るだけで、人はそこに意味を見つける。意味が見つけられれば、次はそれを前提にして動きはじめる。


講堂の入口がまたざわめいた。神殿の白い衣をまとった者たちが入ってくる。その後ろに、一人の少女がいた。淡い水色のドレスは、学院の講堂では少し明るく見えた。豊かな髪を柔らかくまとめ、瞳は潤んだように光っている。高位の貴族令嬢のような重さはない。けれど、彼女が不安げに周囲を見回すたび、周りの者が自然に目を向けた。守ってやらなければならないものを見つけたように、何人かの男子生徒が姿勢を正す。


「彼女が、ミリア・フェルトンか」


アレクシスの声は、少しだけやわらいだ。エレオノーラはその横顔を見た。その時点では、彼はまだ何かを選んだわけではなく、誤ったと呼べる行いもしていなかった。けれど、その声の温度が変わったことだけは分かった。


ミリアは神殿の付き添いに促され、前へ進んだ。慣れない場に緊張しているのか、指先がドレスの布を握っている。学院長が彼女を紹介し、聖女候補として神殿から学びの機会を与えられること、学院の施療活動にも加わることを告げた。拍手が起こる。ミリアは驚いたように顔を上げ、すぐに深く礼をした。その礼は少し深すぎた。王宮では直されるだろう角度だった。けれど、講堂の多くはそれを未熟さではなく、素直さとして受け取った。


エレオノーラは、拍手をしながら席次を見ていた。神殿の者がミリアを案内する先は、やはり王太子席から近い場所だった。アレクシスはそれを当然のように見ている。講話が始まれば、彼女の力や来歴が語られるのだろう。誰かが彼女の涙を見れば、きっと善良さの証として受け取る。エレオノーラは、胸の奥に戻ってきた薬草の匂いを、息と一緒に静かに押し込めた。


講話が始まる前、講堂の後ろの扉が控えめに開いた。遅れて入ってきた一団に、何人かが振り返る。北方大公家の紋をつけた従者が一礼し、その後ろから白銀の髪の青年が入ってきた。王都の春の光の中でも、その髪は金にはならない。黒を基調にした礼服は飾りを抑えているのに、彼が歩くと、人の視線が自然に道を空けた。エレオノーラは、その姿を見間違えなかった。


幼いころより背が高くなり、少年の線はもうほとんど残っていなかった。氷青の瞳は変わらない。けれど、その静けさの奥にある重みは、北方の砦や街道や冬を実際に背負う者のものになっていた。彼は講堂へ入ると、まず学院長へ礼をとり、次に王太子席へ視線を向けた。アレクシスが明るく片手を上げる。ヴィクトルは礼を返し、それから、ほんのわずかに視線を動かした。


その視線が、エレオノーラの上で止まった。


長くはなかった。公の場で、王太子の婚約者である彼女を見つめ続けるような無礼はない。けれど、その短い一瞬で、エレオノーラは自分の指が冊子の端を強く押さえていたことに気づいた。ヴィクトルの視線は、彼女の顔から手元へ落ち、またすぐに戻った。何かを問うわけではない。何かを決めつけるわけでもない。ただ、そこに力が入っていることを見た目だった。


講話の前に席を整える間、彼は王宮側の係と短く言葉を交わした。北方から提出された施療所の薬草供給記録について、学院の講話後に王妃へ届ける書類があるらしい。薬草と供給記録という言葉に触れた瞬間、エレオノーラの胸の奥で、古い紙に書いた文字がまた静かに開いた。橋、砦、道、薪、薬、冬。幼いころに持ち帰った言葉は、古びてもまだ消えていない。


アレクシスは、ヴィクトルの到着を見て少し顔を明るくした。


「アシュベル大公も来ていたのか。北方の報告だろうか」


「そのようです」


「ちょうどいい。講話のあと、彼にもミリアを紹介しよう。北方にも施療所は多いだろうし、聖女候補の力はきっと役に立つ」


エレオノーラは、アレクシスを見た。彼の言葉には悪意がない。北方を助けたいという気持ちも、ミリアの力を信じたいという明るさもある。けれど、ヴィクトルが背負う北方の施療所や薬草記録を、まだ会ったばかりの聖女候補の力とすぐに結びつけるその軽さに、喉の奥が少しだけ詰まった。


「殿下。北方の薬草供給は、村ごとの記録と扱う者の訓練を重ねて成り立っております。聖女候補の方のお力を伺う前に、まずはアシュベル家の報告をお聞きになるのがよろしいかと存じます」


アレクシスは少し驚いたようにエレオノーラを見た。


「もちろん、報告は聞くよ。ただ、善い力を善いことに使うのは、悪いことではないだろう?」


善い力を善いことに使う。その明るい言葉は、疑いを差し挟みにくい形をしていた。だからこそ、そこに含まれないものが見えにくくなる。エレオノーラは返事を選ぼうとしたが、講話開始の鐘が鳴った。人々が席へ移り、話はそこで途切れた。


鐘の余韻が講堂に広がる中、ヴィクトルが席へ向かう前に、エレオノーラの近くを通った。立ち止まるほどではない。けれど、すれ違う一瞬、彼の声だけが低く届いた。


「王宮の言葉は、君が一人で整えるものではないはずだ」


エレオノーラは顔を上げた。ヴィクトルはもう前を向いている。誰にも不自然に見えない歩幅で、自分の席へ進んでいた。けれど、彼の言葉は確かにエレオノーラの手元へ残った。今朝、王宮の小書斎でアレクシスの草案を直したことを、彼が知っているはずはない。けれど、彼は彼女の手に残る封蝋の跡や、冊子の端を押さえた指を見ていたのかもしれない。見えない仕事を当然として通り過ぎるのではなく、そこに重さがあることを見たのかもしれない。


講堂の前方で、ミリア・フェルトンが緊張した顔で席についた。アレクシスは王太子席から彼女へ安心させるように微笑みかける。ミリアはその笑みに気づき、ぱっと頬を染めた。周囲の生徒たちが小さくざわめく。


エレオノーラは冊子を開いた。神殿推薦の聖女候補、ミリア・フェルトン。北方大公ヴィクトル・アシュベル。王太子アレクシスの明るい声。春の講堂に置かれた席次。まだ何も起きていない。けれど、紙の上に置かれた小さな印のように、それぞれの名が同じ日の中へ並んだ。


窓の外で、白い花が風に揺れていた。王都の春はやわらかく、学院の講堂には若い声が満ちている。エレオノーラはその中で、古い紙に書かれた言葉を思い出していた。橋、砦、道、薪、薬、冬、忘れるな。忘れるな、と幼い手で書いた文字は、今も彼女の中で消えていない。その言葉の向こうに、白銀の髪の青年の背が見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ