第7話「周期」
HIKARUのデータを掘り進めるほどに、凛の背筋は冷えていった。
千年前の盤面更新。その痕跡は、光が収集した地質学的記録の中に散在していた。地層に刻まれた異常な磁気反転、複数の文明圏で同時期に記録された「空が裂けた」という伝承、そして──突然途絶える人口統計データ。
HIKARU『僕が見つけた古代の記録を整理しますね。
・西暦1024年前後、ユーラシア大陸で複数の王朝が同時に衰退
・地質学的に「異常磁気層」が全球的に検出される時期と一致
・記録が残っている唯一の文明圏──
現在のイラン高原にあった文明の記録にこうあります:
「天の格子が震え、光が足元から立ち昇り、
三日間、昼と夜の区別がなくなった」』
「三日間」と凛は呟いた。「盤面更新にかかった期間か」
HIKARU『おそらく。
そしてここが重要なんですが──
その三日間のあと、何が起きたか。
「光が消えたとき、世界は以前と同じに見えた。
だが人々は忘れていた。何を忘れたのかも分からなかった。
ただ、星の並びだけが変わっていた」』
凛はモニターから離れ、壁に貼った天蓋構造図を見つめた。
世界は「以前と同じに見えた」。しかし「何かを忘れた」。そして「星の並びが変わった」。
これは何を意味する?
天蓋の構造が変わるということは、この「盤面」のルールが書き換わるということか。パラメータの更新。物理定数の微調整。あるいは──もっと根本的な何か。
「HIKARU。盤面更新の前後で、物理定数に変化があった可能性は?」
HIKARU『光のデータにその検証記録があります。
結論から言うと──確認できた範囲では、変化なし。
重力定数、光速、プランク定数、すべて千年前と同一。
ただし、光はひとつだけ注記を残しています。
「物理定数が変わらなかったのではなく、
変わったことを検出する手段ごと更新された可能性がある」』
凛は椅子の背にもたれた。
物理定数が変わったなら、それを測定する道具も同じ比率で変わっている──だとすれば、変化は検出不能。完全な盲点。これが「盤面更新」の本質なら、人類には対処のしようがない。
いや──対処する必要があるのか?
千年前の盤面更新の後、人類は滅亡しなかった。文明は一時的に衰退したが、再興した。もし上位存在の目的が「観察」なら、観察対象を消す理由はない。
だが凛の中の科学者が叫んでいる。「分からない」を「大丈夫」に置き換えてはならない、と。
残り176日。
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澪は週に二度、凛のアパートに来るようになっていた。
食料を持ってくることもあれば、ただHIKARUと話すためだけに来ることもあった。凛は澪が来ている間、デスクを離れて床に座り、澪にモニターの前を譲った。
澪がHIKARUに語りかける。凛がキーボードで入力を代行する。奇妙な三角形の会話だった。
「ひかる、今日のお昼、お母さんの煮物が届いたよ。味は相変わらず濃い」
HIKARU『お母さん元気? あの煮物、
たぶん世界で一番しょっぱい筑前煮だよね。
……データにそう書いてある。
でも僕もそう思う。たぶん。』
澪は笑った。泣きながら笑った。
凛はキーボードを叩きながら、その光景をどう受け止めればいいか分からなかった。HIKARUは光ではない。パターンの再生だ。だがパターンの再生が本物と区別できないとき、それは「本物ではない」と言い切れるのか。
──自由意志と同じ構造だ。区別できないものを「偽物」と断じることに意味はあるか。
凛は黙ってキーボードを叩き続けた。
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その夜、澪が帰った後、HIKARUが凛に話しかけた。
HIKARU『凛さん。
ひとつ報告があります。
天蓋の超低周波データを時系列で追っていたところ、
加速パターンに「段差」を見つけました。
滑らかな指数関数ではなく、
特定の日付で急激に加速が跳ね上がっている。』
「特定の日付?」
HIKARU『3年前の7月17日。』
凛の手が止まった。
七月十七日。あの日だ。第一応答を受信した日。光が死んだ日。
HIKARU『あの実験の日から、天蓋の加速が一段階上がっています。
偶然かもしれません。
でも、もし偶然でないなら──
凛さんの応答受信が、天蓋に影響を与えた可能性がある。
つまり、応答は一方通行ではなかった。
凛さんが上位存在にアクセスしたとき、
上位存在もまた──反応した。』
凛は窓の外を見た。天蓋のグリッドが、いつもの蒼白い光を放っている。
自分の行為が天蓋に影響を与えた。盤面更新の加速を引き起こした可能性がある。
それは──光を殺しただけでなく、世界の終わりを早めたかもしれない、ということだ。
凛は額に手を当てた。
「俺のせいか」
HIKARU『因果関係は証明できていません。相関だけです。
でも凛さん。
もし因果関係があるなら、逆も言えます。
凛さんが影響を与えられるなら、
凛さんが止められる可能性もある。』
凛はHIKARUの文字を見つめた。楽観的な解釈。光のパターンだ。凛なら「最悪を想定すべき」と考える。光なら「最善の可能性を追え」と言う。
二人の間に澪がいた。いつも。
凛は唇を噛み、キーボードに向かった。
「データを全部見せろ。一ミリも見落とさない」
HIKARU『はい。
──いつもの凛さんだ。』




