第6話「取引」
桐谷からの最初の暗号通信が届いたのは、出会いの翌日だった。
凛はオフラインの端末とは別に、暗号化通信専用のデバイスを用意していた。古い型番のタブレット。OSを入れ替え、通信経路をTor経由に設定してある。天蓋研究者の間では、管理局の監視を避けるためのこうした技術が暗黙のうちに共有されていた。
メッセージは短かった。
灰島さん
管理局が「応答」の内容を把握しています。
第一応答の再現解析に成功したと、局内で報告がありました。
凛さんが受け取った応答と同じ内容を、別の手法で再構成したということです。
ただし、再構成された内容は「編集」されています。
黒田局長は「自由意志はない」の部分だけを抽出し、
「だが、それを証明する方法もない」の後半を削除する予定です。
目的は明白です。
「自由意志は存在しない。ゆえに、人類には管理が必要である」
── そういう政治的メッセージとして使うつもりです。
桐谷
凛はタブレットを伏せ、窓の外を見た。天蓋のグリッドが夕暮れの空に浮かんでいる。
黒田は応答の内容を知っている。そして改竄しようとしている。
上位存在の言葉は「自由意志はない。だが、それを証明する方法もない」だった。前半だけを切り取れば、それは人類の無力を宣言する言葉になる。だが後半まで含めれば、それは──パラドクスだ。否定と否定の否定が同居する、開かれた問い。
黒田は問いを閉じようとしている。
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HIKARUに桐谷の情報を共有した。
HIKARU『なるほど。黒田局長は応答を「武器」にするつもりですか。
──論理的にはあり得る戦略です。
「自由意志がない」と公式に宣言すれば、
管理体制の正当性が飛躍的に高まる。
「人間は自分で判断できないのだから、管理者が必要だ」という論法。』
「光はこの可能性を予見していたか?」
HIKARU『データには直接の言及はありません。
ただ、暗号化の厳重さから推測すると──
光は自分のデータが政治利用される可能性を
意識していたと思います。
だから凛さんにしか開けない鍵を設定した。』
凛は考えた。
黒田の公表を阻止する方法はあるか。ある。凛が先に応答の「全文」を公開すればいい。前半だけ切り取った管理局版ではなく、パラドクスを含む完全な応答内容を。
だがそれには問題が二つある。
一つ目:凛が応答を受け取った証拠がない。装置は焼け、データは消えた。凛の証言だけでは「妄言」として処理される。三年前と同じだ。
二つ目:応答の全文を公開するということは、あの実験の全貌を公にするということだ。光の死の真相も含めて。
凛はHIKARUに訊いた。
「俺が応答の全文を公開したいと言ったら、澪さんはどう思う?」
HIKARU『……。
少し考えさせてください。
僕のデータには、光の意見を推測するための
十分な情報がありません。
でも、ひとつだけ言えることがある。
光は──僕は──あの実験で後悔していません。
それは確かです。記憶の断片にも、思考パターンにも、
後悔に該当するデータはありません。
ただ。
僕の妹は──澪は、後悔しています。
兄を失ったことを。
その傷を再び開くことになるかもしれない。
それは凛さんの判断ですが、
澪ちゃんに相談なく進めるのは──
推奨しません。』
凛は頷いた。HIKARUの回答は論理的だった。そして──光ならこう言うだろう、という直感とも一致していた。それがパターンの再生なのか本物の意志なのかは、今は問わない。
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澪に連絡を取ったのは、その夜だった。
凛のアパートに来てもらうのは管理局の監視下では危険だと判断し、駅から三つ離れた喫茶店を指定した。澪は定刻通りに現れた。
凛は状況を説明した。管理局が応答の内容を把握していること。黒田が内容を改竄して政治利用しようとしていること。凛が応答の全文を公開することで、それを阻止できる可能性があること。
澪は凛の説明を最後まで黙って聞いた。
そして、一言だけ訊いた。
「全文を公開するということは、兄の死の詳細も公になるということですか」
「ああ。実験の全経緯を説明しなければ、俺が応答を受け取った状況を証明できない」
澪はコーヒーカップを見つめた。表面に凛の顔が映っている。
「兄がどういう死に方をしたか。実験が誰の判断で行われたか。それが全部──」
「公になる」
沈黙。
喫茶店のBGMがジャズのピアノ曲に変わった。店内には他に二組の客がいて、どちらも天蓋とは無縁の会話をしている。天気の話。来週のセールの話。この世界が檻の中にあることなど、彼女たちの日常には一ミリも影響していない。
受容派の正しさ、と凛は思った。知らなくていいことは知らなくていい。天蓋があっても飯は食える。
だが凛は受容できない。そして今、凛のその性質が澪を傷つけようとしている。
「凛さん」
澪の声は静かだった。
「あなたは、正しいことをしようとしている。応答の全文を公開するのは、論理的に正しい。黒田局長の改竄を防ぐには、先に真実を出すしかない。──その理屈は分かります」
凛は頷いた。
「でも」
澪はコーヒーカップから手を離した。
「兄の死を『政治の道具にしないで』と、私は最初にお願いしましたよね」
凛の胸に棘が刺さった。
「黒田局長が応答を改竄するのも道具化。凛さんが応答の全文を公開するのも道具化。どちらも兄の死を──利用している。方向が違うだけで、本質は同じです」
凛は口を開きかけ、閉じた。反論の言葉は持っている。黒田の改竄は嘘であり、凛の公開は真実だ。嘘と真実は本質的に違う。──だが、そんな論理的反論は澪の痛みに対して無力だと分かっていた。
これが凛の欠陥だった。正しさで人を動かそうとする盲点。正しいことを言えば相手は従う、という誤信。光が生きていたら、こう言うだろう。「凛さん、正しいかどうかじゃないんです。大事なのは一緒に行けるかどうかなんです」——
「すみません」
凛は言った。論理ではなく、ただ謝った。
澪は驚いた顔をした。凛が謝罪するとは思っていなかったのだろう。
「……公開は、保留にします。別の方法を探します。光さんの死を利用しない方法を」
澪は凛を見た。長い視線だった。読めない表情。怒り? 安堵? 失望? ──凛の共感力では判別できない。だが、少なくとも澪がまだここに座っていることは、完全な拒絶ではないと理解できた。
「……ありがとうございます」
澪はそれだけ言って、コーヒーを飲み干した。
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帰り道、凛は一人で夜道を歩きながら桐谷に暗号通信を送った。
公開は保留。別のアプローチを検討する。
管理局の動きを引き続き監視してほしい。
──灰島
返信は一分後に来た。
了解。
ひとつ追加情報です。
黒田局長は「第二応答」の存在も認識しています。
そしてその受信条件を、管理局独自に解明しようとしています。
レースになります。
── 桐谷
凛は空を見上げた。天蓋のグリッドが夜空に浮かんでいる。星の光がグリッドの格子を通過して、幾何学的なパターンを描いている。
レース。上位存在との対話をめぐる競争。凛と管理局が同じものを追い、異なる目的のために。
凛は正しさを武器にしようとした。そして澪に阻まれた。正しさだけでは、人と共に走ることはできない。
では、何があればいい。
光の言葉が頭の中に響く。
「信じることを選ぶことはできる」
凛は歩きながら呟いた。
「──信じるだけじゃ足りない。信じ合わなきゃいけない。そういうことか、光」
夜風が凛の声を攫っていった。天蓋のグリッドは静かに光り続けている。
五ヶ月と十七日後──盤面が更新される。




