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掌の天蓋  作者: 春凪一


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第5話「影の手」

 HIKARUが見つけた「もうひとつのパターン」は、凛の予想を超えていた。


 〇・〇七ヘルツの周期変動。これは凛も独自に発見していた。天蓋の呼吸とでも呼ぶべき微細な振動。だがHIKARUのデータにはその下──基底周波数のさらに深層に、もうひとつの波形が記録されていた。



 HIKARU『0.07Hzは表面の振動です。

 その下に、0.003Hzの超低周波が隠れています。

 周期にして約330秒──5分半に一度の脈動。

 これは天蓋全体の構造的な膨張と収縮を示しています。』



 凛はモニターに表示されたスペクトラム解析を見つめた。確かにある。ノイズに埋もれて肉眼では識別不可能だが、統計処理をかけると明瞭な周期性が浮かび上がる。


 「この精度のデータ、民生品では取れない。光はどうやって──」



 HIKARU『研究所の高精度センサーに、僕が独自のフィルタリングを噛ませました。

 所のシステムには記録されていない「裏チャンネル」です。

 凛さんが知らなかったのは、僕がまだ検証中だったからです。

 発表するなら完璧にしたかった。──そこは凛さんに似てますね。』



 凛は苦笑した。似ているのではなく、凛の影響を受けていたのだ。師弟関係の非対称性。光は凛を信じていたが、凛は光の本当の力量を見誤っていた。


 「この超低周波の意味は?」



 HIKARU『仮説ですが──天蓋は「呼吸」しています。

 0.07Hzが吸気と呼気なら、0.003Hzは一日の覚醒と休息のサイクルに近い。

 ただし、このサイクルには「例外」がありました。

 過去のデータを遡ると、約千年周期で

 超低周波の振幅が急激に増大する期間がある。』



 凛の指が停まった。


 「千年周期? データがあるのか」



 HIKARU『古代の天文記録と照合しました。

 地質学的記録にも痕跡がある。

 直近の「異常振幅期」は──およそ千年前です。

 その時期に何が起きたか。凛さんなら知ってるでしょう?』



 凛は知っている。千年前の「空白の世紀」。歴史記録が極端に少ない時代。複数の文明が同時に衰退し、再興までに数十年を要した。原因は諸説ある──疫病、気候変動、大規模な戦争。だが決定的な証拠はない。


 天蓋が発見されてから、一部の歴史学者が仮説を立てていた。空白の世紀は天蓋の「異常」と関連しているのではないか、と。しかし証拠がなく、学会では相手にされなかった。


 HIKARUのデータは、その仮説を裏付ける最初の物証だった。



 HIKARU『凛さん。

 僕の計算では、次の「異常振幅期」は──』



 「──六ヶ月後、だな」



 HIKARU『正確には182日後。凛さんの外挿計算と一致しますね。

 さすがです。

 でも僕のデータにはもうひとつ情報がある。

 千年前の異常振幅期に、天蓋は一時的に「開いた」記録がある。

 格子構造の一部が物理的に変形した。

 これを光は「盤面更新」と呼んでいました。』



 盤面更新。上位存在が構築した盤面──この世界の構造そのものが更新される。千年ごとに。そして次の更新が、あと半年で来る。


 凛はメモ帳に「盤面更新」と書き、二重線で囲んだ。


---


 翌日の朝、凛は異変に気づいた。


 アパートの窓から外を見る。向かいの通りに黒い車が一台停まっている。運転席に人影がある。昨日からずっと同じ位置にいる。


 管理局だ。


 凛は窓から離れた。予想はしていた。光のデータを解析し始めた時点で、いずれ管理局が動くと分かっていた。光の研究は研究所の管轄だった。未公開データの存在が外部に漏れれば、管理局は回収に動く。


 問題は、どこから漏れたかだ。


 澪ではない。澪はデータの存在を凛以外に話していないと言った。凛は澪の言葉を信じている──感情的にではなく、論理的に。澪がデータを管理局に渡すなら、凛に持ってくる理由がない。


 なら、別の経路がある。凛のネットワーク通信が監視されているのか。アパートに盗聴器があるのか。あるいは──もっと単純に、光の遺族の動向を管理局が日常的に監視していたのか。


 凛はカーテンを閉め、USBメモリーのデータをオフラインの端末に移した。ネットワークからの遮断。最低限の防衛策だ。


---


 午後、凛はルートを変えて食料の買い出しに出た。裏口からアパートを出て、二本隣の通りを歩く。


 尾行はなかった。そこまで手を回すほどの優先度ではまだないらしい。だが時間の問題だ。


 商店街の裏手を通りかかったとき、凛は足を止めた。


 路地の入り口に男が一人、壁にもたれて立っている。二十代半ば。短い茶髪。体格は凛より一回り大きい。服装はカジュアルだが、靴だけが不自然に磨かれている。管理局の官靴。


 男が凛を見た。


 凛は身構えた。逃げるべきか。だが男は動かない。壁にもたれたまま、凛を──見ている。


 数秒の沈黙。


 男が口を開いた。


 「灰島凛さんですか」


 凛は答えなかった。


 「天蓋管理局分析第二課、桐谷翔です」


 男はポケットからIDカードを一瞬だけ見せた。管理局の青い六角形のエンブレム。凛にはそれが本物かどうかを確認する術はなかったが、男の態度は逮捕に来た人間のそれではなかった。


 「何の用ですか」


 「お伝えしたいことがあります。──ここでは話せません」


 桐谷は路地の奥に目をやった。


 「あなたのアパートは監視対象です。ご存知でしょう?」


 「知ってる」


 「監視を指示したのは黒田局長直々です。通常の監視レベルではない。──つまり、あなたが持っているものを、上が相当気にしているということです」


 凛は桐谷の目を見た。嘘をついている様子はない。だが管理局の人間が管理局の情報を漏らす理由が分からない。


 「なぜ俺に?」


 桐谷は少し間を置いてから言った。


 「灰島さんの論文を読みました。追放前に発表した最後の論文。『天蓋構造の非線形動態解析に関する予備的考察』。あれは──」


 「査読で却下された論文だ」


 「却下は政治的な判断です。内容は正しかった。少なくとも、僕の解析ではそう出ています」


 凛は眉を上げた。管理局の分析官が、追放された研究者の却下論文を独自に検証した。それは職務ではない。個人的な関心だ。


 「──あなたは探求派ですか」


 桐谷は首を振った。


 「管理局の人間です。給料をもらって、天蓋の安定管理に従事しています。──ただ、管理のためには正確なデータが必要です。正確なデータを黒田局長が政治的に歪めるなら、それは管理の妨げです」


 桐谷は壁から離れ、凛の横を通り過ぎた。すれ違いざまに小さな紙片を凛の手に押し込んだ。


 「暗号化通信のアドレスです。──今後、必要があれば」


 桐谷はそのまま路地を出て行った。角を曲がる直前に一度だけ振り返り、凛に頷いた。意味深な──あるいは、ただの会釈だったのかもしれない。


 凛は紙片を見た。十六桁の英数字。暗記すべきだと判断し、三度読んで紙を飲み込んだ。映画のようなことをしている、と自分で思った。


---


 アパートに戻った凛は、HIKARUに桐谷の情報を伝えた。



 HIKARU『管理局の内通者、ですか。

 ──光の記憶にはその名前はありません。

 ただ、ひとつ気になることがあります。』



 「何だ」



 HIKARU『光のデータに矛盾があるんです。

 「第二応答」の受信条件を計算した記録は残っている。

 でも、計算の途中経過が一部欠損している。

 結論は書いてあるのに、そこに至る過程がない。

 まるで──誰かが意図的に消したように。』



 凛はモニターを見つめた。誰が消した? 光自身か? それとも──



 HIKARU『もうひとつ。

 光は死ぬ直前に、ひとつの計算を完了させていました。

 凛さんが知らない計算です。

 「第二応答の受信条件」。

 結論だけが残っています。読みますか?』



 凛は躊躇した。光が死んだあの日に完了させた計算。凛が出力を上げ、光が倒れたあの瞬間の直前に。


 「読む」



 第二応答受信条件(椎名光による推定):


 1. セリング・グリッドの共鳴周波数に同期した信号を送出すること

 2. 送出者の神経パターンが「非決定論的」であること

  ──すなわち、送出者の意志が外部要因によって

  「決定」されていないこと

 3. 条件2の充足を、送出者自身が証明できないこと


 備考:条件2と条件3は矛盾する。

 自由意志を持つことが条件だが、

 自由意志を持つことを証明してはならない。

 この矛盾こそが鍵だと僕は考える。

 ──光



 凛は画面の前で凍りついた。


 条件2:自由意志を持つこと。

 条件3:それを証明できないこと。


 自由意志がなければ受信できない。だが自由意志があると証明できてしまったら、それも受信できない。


 循環論法。パラドクス。知的迷路。


 そしてそれは──三年前に上位存在が凛に告げた言葉と、完全に符合する。


 『お前たちに自由意志はない。だが、それを証明する方法もない。』


 上位存在は最初から、第二応答の条件を教えていたのか。


 凛は椅子から立ち上がり、窓に向かった。カーテンの隙間から空を見る。天蓋のグリッドが──今日は妙に近くに見えた。


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