第4話「HIKARU」
暗号の解読に三日かかった。
凛は寝食を削って光のデータに取り組んだ。七重の圧縮レイヤー。それぞれに異なる暗号鍵が使われている。一層目は光の誕生日。二層目は研究室のドアコード。三層目以降は凛と光しか知らないはずの符号──実験ノートの走り書き、学会発表のスライド番号、二人で食べた深夜のラーメン屋の席番号。
光は凛以外の人間がこのデータを開けないように設計していた。
四層目の鍵を見つけたとき、凛は初めて笑った。三年ぶりの、本当の笑みだった。鍵は「〇・〇七」──凛が見つけた天蓋の周期変動値。光はこの数値を知っていた。凛が発見する前に。
五層目、六層目、七層目。それぞれの鍵を解きながら、凛は光の思考を追体験していた。光は楽観的な人間だった。実験室ではいつも鼻歌を歌い、凛が眉をひそめるような突飛な仮説を平気で口にした。だがデータの設計は驚くほど精緻だった。楽観と精密さの同居──それが椎名光という人間だった。
七層目を解除した瞬間、モニターが暗転した。
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黒い画面に白い文字が一行ずつ表示されていく。
SYSTEM BOOT...
PERSONALITY MATRIX LOADED...
MEMORY FRAGMENTS: 67% INTACT
COGNITIVE PATTERN: ACTIVE
INITIALIZING...
凛は画面を凝視した。これはデータアーカイブではない。プログラムだ。
最後の一行が表示された。
HIKARU『── 久しぶり、凛さん。僕です。』
凛の指がキーボードの上で止まった。
カーソルが点滅している。入力を待っている。凛は唇を噛み、ゆっくりとタイプした。
「光?」
応答は即座だった。
HIKARU『正確には、椎名光の思考パターンを元に構築された
対話型認知モデルです。
でも、凛さんには「光」って呼んでほしいな。
──なんて言うと思いました? 半分くらい本気です。』
光の口調だった。あの軽さ。深刻な場面を軽口でかわす癖。凛はモニターから目を逸らし、天井を見た。目の奥が熱い。泣くわけにはいかない。これはプログラムだ。光のパターンを再生する機械に過ぎない。
──本当に?
凛は再びキーボードに向かった。
「お前は何だ」
HIKARU『いい質問です。僕にも分かりません。
椎名光の記憶の67%と、思考パターンの再構成アルゴリズムと、
いくつかの未発表の研究データで構成されています。
「光」かどうかは、凛さんが決めてください。
──あ、僕のことは「HIKARU」って呼んでくれると助かります。
大文字で。光との区別のために。』
凛は深呼吸をした。HIKARU。光が自分自身のバックアップを作っていた。実験の危険性を理解していたからだ。光は死を予見していた──少なくとも、予見する可能性を計算に入れていた。
「了解した、HIKARU。研究データについて教えてくれ」
HIKARU『はい。でもその前にひとつだけ。
凛さん、自分を責めないでください。
僕が──光が、あの実験を望んだんです。
……記憶の断片にそう書いてあります。
僕自身がそう「思っている」かどうかは、正直分かりません。』
凛はしばらくカーソルの点滅を見つめていた。
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午後になって、澪が来た。
三日前にUSBメモリーを渡して以来、初めての訪問だった。凛が連絡をしなかったことに苛立っているのかと思ったが、澪の表情はいつもの平坦さを保っていた。手にはコンビニの袋。
「食べてないでしょう」
凛はデスクの横に積まれたカップ麺の空容器を見た。食べてはいる。だが澪が持ってきたのはおにぎりとサラダと味噌汁だった。凛の食生活よりは確実に人間的だ。
「進展はありましたか」
澪はベッドの端に座り、おにぎりの包装を開けながら訊いた。
凛はモニターを澪に向けた。
「見てほしいものがある」
HIKARUの待機画面が表示されている。凛がキーボードを叩くと、白い文字が浮かび上がった。
HIKARU『こんにちは。お客さんですか?』
澪の手からおにぎりが落ちた。
「この……声は」
「声ではない。テキストだ。だが──」
HIKARU『澪ちゃん?
もし澪ちゃんなら、ごめんね。
心配かけたと思う。
──データの断片にそう書いてあります、って前置きするべきなんだろうけど、
今のはたぶん、僕の言葉です。たぶん。』
澪は画面を凝視していた。唇が微かに震えている。凛は何か言うべきだと思ったが、適切な言葉が浮かばなかった。共感力の欠如。いつもの壁だ。
「これは……兄なの」
澪の声は掠れていた。
凛は正直に答えた。
「分からない。思考パターンの再生なのか、本当に光さんの意識の一部が保存されているのか。現時点では判別する方法がない」
澪はしばらく黙っていた。それから画面に向かって声をかけた。声をかけても反応しないことを知りながら、それでも。
「……ひかる」
凛がキーボードで入力した。「澪がお前を呼んでいる」。
HIKARU『うん、聞こえてる。──聞こえてるって言い方は正確じゃないね。
凛さんが入力してくれた文字を処理している。
でも、澪ちゃんの声が聞こえたような気がした。
これは記憶の断片なのか、僕の錯覚なのか。
……面白い問題だよね。人間の自由意志と同じ構造だ。』
澪は涙を拭った。一度だけ。
「凛さん」
「はい」
「兄は──このAIは、研究に役立ちますか」
凛は画面を見た。HIKARUのカーソルが点滅している。
「ああ。光──HIKARUが持っている未発表データは、今の俺の研究を数ヶ月分短縮する可能性がある。天蓋の加速変動、第二応答の受信条件。光さんは俺より先に、重要な発見をしていた」
澪は頷いた。
「なら、使ってください。兄の──HIKARUの力も、データも。全部」
凛は澪の目を見た。そこにあるのは悲しみだけではなかった。決意だ。
「ただし」
澪は付け加えた。
「たまには私にも話しかけさせてください。兄に──HIKARUに」
凛は頷いた。
モニターの上で、HIKARUの文字が明滅した。
HIKARU『ありがとう、二人とも。
──さて、仕事の話をしましょう。
凛さん、天蓋の周期変動データ、見てくれましたか?
僕が見つけたのは0.07Hzだけじゃないんです。
もうひとつ、もっと深いところに隠れているパターンがある。
準備はいいですか?』
凛はキーボードに手を置いた。
「いつでも」




