第3話「来訪者」
インターホンが鳴ったのは、午後三時だった。
凛は最初、聞き間違いだと思った。このアパートに人が訪ねてくることはない。宅配便はオートロックのない一階の集合ポストに放り込まれるし、大家は家賃の振込を確認すれば用はない。請負仕事の打ち合わせはすべてオンラインだ。
三年間、このインターホンは一度も鳴っていない。
もう一度、鳴った。
凛はモニターから目を離し、玄関に向かった。ドアスコープを覗く。
若い女性が立っていた。
二十代前半。黒いセミロングの髪。華奢な体が薄手のトレンチコートに包まれている。表情は──凛には読めなかった。怒っているのか、悲しんでいるのか、あるいはその両方か。ただ、目に強い光がある。何かを決めてきた人間の目だ。
凛はインターホンのボタンを押した。
「どちら様ですか」
スピーカー越しの声が聞こえたのか、女性は少しだけ姿勢を正した。
「灰島凛さんですか」
声は低く、落ち着いていた。その声に凛は記憶を掘り起こす。知っている声だ。いや──知っている声に似ている声だ。光の声に高さの成分が加わったような。
「そうですが」
「椎名光の妹です。椎名澪」
凛の指がインターホンのボタンから離れた。
数秒間、何も言えなかった。頭の中で名前が反響する。椎名。椎名光の。妹。
光が時々話していた。五歳下の妹。大学で哲学を専攻している。天蓋についてファミレスで議論すると、いつも兄が負けると笑っていた──凛が聞いたのはその程度の断片だ。会ったことはない。
光の葬儀にも、凛は行かなかった。行けなかった。
「──少し、お時間をいただけますか」
澪の声が続いた。懇願ではない。要請だ。
凛はドアを開けた。
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六畳の部屋に二人分の空間は窮屈だった。
凛はモニターの前の椅子に座り、澪にはベッドの端を勧めた。他に座る場所がない。澪は部屋を一度だけ見回した。壁一面の天蓋構造図。数式の走り書き。空のコーヒーカップの列。そこに何かを読み取ったのか、澪は小さく息を吐いた。
「まだ、研究を続けているんですね」
凛は頷いた。言い訳は不要だと判断した。
「兄もそうでした」
澪の声に感情が混じった。一瞬だけ。すぐに元の平坦さに戻る。
沈黙が落ちた。
凛は自分から切り出す言葉を探したが、見つからなかった。「すまなかった」は正確ではない。それは凛の罪悪感の表明であって、澪への償いにはならない。「光は優秀な助手だった」は侮辱に近い。「何の用ですか」は人間として欠陥がある。
結局、凛は黙って待った。
澪が口を開いたのは、沈黙が三十秒を超えた頃だった。
「兄のデータを見てほしいんです」
凛は眉を動かした。
「データ?」
「兄の遺品を整理していたら、出てきました」
澪がトレンチコートのポケットから小さなケースを取り出した。中に入っていたのは銀色のUSBメモリー。古い型番だ。容量は大きくないが、物理的な頑丈さを重視した設計。
「研究所に提出していないデータが入っているみたいです。暗号化されていて、私には中身が見られませんでした」
凛はUSBメモリーを受け取らなかった。手を膝の上に置いたまま、USBメモリーを見つめた。
光の未公開データ。もし本当なら、研究所のアーカイブにもないオリジナルの観測記録が含まれている可能性がある。天蓋の加速変動の手がかりになるかもしれない。科学者としての凛は、今すぐそれを解析したいと叫んでいる。
だが。
「なぜ俺に?」
凛は訊いた。
澪は凛の目を真っ直ぐに見た。怒りと悲しみの奥に、もう一つの感情がある。凛にはそれが何か分からなかった──共感力の欠如という自分の欠陥を、こういう場面でいつも思い知らされる。
「兄が遺品の中に手紙を残していました。短いものです。『もし僕に何かあったら、このデータは凛さんに渡してほしい。凛さんにしか読めないから』」
凛は目を閉じた。
光。お前はあの実験の前から、自分に何かが起きる可能性を想定していたのか。
「兄はあなたを信じていました」
澪の声が一段低くなった。
「最後まで」
静寂。
「私は──別に信じてません」
澪はそう付け加えた。声に棘はなかった。ただ事実を述べるような口調だった。
「兄を死なせたのはあなたです。それは変わらない。でも兄の遺志は兄のものだから。それを無視する権利は、私にもない」
凛は目を開けた。澪の論理は正確だった。感情に流されず、かつ感情を否定もしていない。哲学を学んだ人間の言葉だ、と凛は思った。
「光さんの遺志」
凛は呟いた。
「ええ」
「──それが本当に光さんの意志なのか、それとも上位存在に設計された『筋書き』の一部なのか。考えたことはありますか」
凛の問いに、澪の表情が初めて変わった。驚き──ではない。既に考えたことがある、という顔だ。
「考えました。毎日」
澪は膝の上で手を組んだ。
「兄が死んだとき、私は泣きました。泣いて、怒って、あなたを恨みました。そのあと考えたんです。この悲しみは私のものなのか。上位存在に設計された悲しみなのか。──考えて、考えて、結論を出しました」
「どんな結論ですか」
「どちらでもいい」
澪は言った。
「設計された悲しみだとしても、私はこの悲しみの中にいる。この涙は私の頬を伝った。それだけで十分です。意味があるかどうかなんて、泣いた後に考えればいい」
凛は何も言えなかった。
それは凛が三年間辿り着けなかった答えだった。少なくとも、答えの一つの形だった。凛は「自由意志を証明する」ために思考し続けている。澪は「証明しなくていい」と言っている。同じ問いに対する、正反対のアプローチ。
──そしてどちらが正しいか、凛には分からなかった。
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「受け取ります」
凛はそう言って、手を伸ばした。
USBメモリーは軽かった。数グラムの金属とシリコン。その中に光が何を遺したのか。期待と恐怖が等分に凛の腹の底を這った。
「解析には時間がかかります。暗号の種類にもよりますが──」
「急ぎません」
澪が立ち上がった。
「ただ、ひとつだけお願いがあります」
「何ですか」
「兄のデータを政治の道具にしないでください。管理局にも、プロメテウスにも渡さないで。兄は研究者だった。研究者のデータは、研究のために使われるべきです」
凛は頷いた。
「約束します」
それは凛が三年ぶりに人間に対して行った約束だった。
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澪が帰った後、凛はしばらくUSBメモリーを手の中で転がしていた。
窓の外で天蓋が淡く光っている。格子のパターンが今日は少し違う気がした。いつもより密に見える。──気のせいか。
凛はUSBメモリーをモニターの横に置き、解析用のサンドボックス環境を立ち上げた。未知のデータを直接開くほど不用心ではない。まずは外郭のスキャンから。
スキャンが終わるまでに四十分かかった。
結果を見て、凛は椅子から身を乗り出した。
容量は見かけ以上に大きかった。圧縮レイヤーが七重に折り畳まれている。光が得意だった独自の圧縮アルゴリズム。そしてその最外殻に、一つのテキストファイルがある。暗号化されていない。ファイル名は──
「READ_ME_RIN.txt」
凛は深呼吸をして、ファイルを開いた。
画面に光の文字が並んだ。
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凛さんへ
このファイルを開いているということは、たぶん僕はもういないのだと思います。
でも大丈夫。大事なことは全部、中に入れておきました。
天蓋は動きます。僕の計算が正しければ、あと数年のうちに大きな変動が起きる。
そしてもうひとつ──凛さん、あなたが受け取った「応答」は、最初のひとつに過ぎません。
第二の応答を受信する条件を、僕は見つけました。
ただし、その条件は──ひとつの矛盾を含んでいます。
データの中に全てあります。凛さんなら、読めるはずです。
僕はこの研究を信じています。凛さんを信じています。
人間に自由意志があるかどうかは分かりません。
でも、信じることを選ぶことはできると、僕は思います。
椎名光
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凛はメモ帳を手に取った。手が震えている。
光は知っていた。応答が一回きりではないことを。第二の応答がありうることを。そしてその条件を──
凛は椅子の背にもたれ、天井を見た。
光の最後の言葉が頭の中で反響している。
「信じることを選ぶことはできる」。
それは凛の問いへの答えではなかった。問いに対する、もうひとつの問いかけだった。
窓の外で天蓋のグリッドが明滅する。今日はたしかに、いつもより密に見えた。




