第2話「三つの世界」
雨が降っている。
天蓋は雨の日のほうがよく見える。水滴がグリッドの光を散乱させ、空全体がうっすらと蒼白い網目模様を帯びるからだ。傘をさして商店街を歩く人々の顔に、格子の影が淡く落ちている。
誰もそれを気にしていない。
灰島凛は片手にビニール袋を提げ、もう片方の手でフードを押さえながら、桜木商店街を歩いていた。食料の買い出し。研究費はとっくに底をつき、今の収入源はデータ解析の請負仕事だけだ。天蓋研究所にいた頃の年収の八分の一。それでもコーヒーとカップ麺と、時々の生鮮食品を買う程度には足りている。
「凛ちゃん、今日はキャベツが安いよ」
八百屋のおばさんが声をかけてくる。凛はこの商店街で三年間買い物をしていて、名前で呼ばれる程度の馴染みにはなった。
「ありがとうございます」
凛は小さく頭を下げてキャベツを手に取った。おばさんは天蓋のことを話題にしない。この商店街の誰もが、そうだ。空にあるものは空にある。自分たちの暮らしは地上にある。それだけのことだ。
受容派。世界人口の七割。凛はこの態度を否定しない。否定する資格もない。自分が天蓋に執着しているのは、科学的好奇心だけではなく、光を殺した「あの瞬間」の意味を確かめたいからだ。それは極めて個人的な動機であり、人類全体に押し付けるものではない。
──と、頭では分かっている。
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商店街を抜けかけたところで、空気が変わった。
叫び声。プラカード。拡声器のハウリング。
通りの先を数十人の集団が占拠している。白い上着に赤い腕章。旗には炎のエンブレム──否定派の武闘派組織「プロメテウス」のシンボルだ。
「天蓋は存在しない!」
拡声器が叫ぶ。物理的に見えているものを「存在しない」と叫ぶ矛盾。だが凛は知っている。彼らは天蓋の存在を物理的に否定しているのではない。天蓋の存在がもたらす「意味」を否定しているのだ。
──もし天蓋が上位存在の構造物なら、人間は飼われた家畜に過ぎない。その意味を拒絶すること。それがプロメテウスの本質だ。
「認めない。たとえ空に見えていても、我々の魂までは支配させない!」
デモ隊の先頭に立つ男の声が響く。三十代半ばだろうか。鋭い目。カリスマ性がある。その周囲の人々の目が、信仰に近い光を帯びている。
凛は足を止めない。プロメテウスとは関わりたくなかった。彼らの主張は感情的に理解できるが、天蓋の構造を「無かったこと」にしても何も解決しない。
デモ隊の一人が通行人を突き飛ばした。悲鳴。エスカレートしかけている。
そのとき──
角を曲がって現れた黒い車列。静かに、しかし圧倒的な存在感で。車のドアが開き、黒い制服の部隊が整然と展開する。胸のエンブレムは青い六角形──天蓋管理局。
「解散命令です。三分以内にこの場を離れてください」
感情のない声。訓練された所作。デモ隊が怯む間もなく、管理局の部隊は歩道と車道の間に壁を作り、通行人を安全圏に誘導していく。
凛は誘導に従いながら、管理局の手際を観察した。見事だった。暴力は一切使わない。だが逆らう余地もない。完璧に設計された「管理」。
十五分後にはデモ隊は散り散りになり、商店街には日常が戻った。まるで何事もなかったかのように。それが管理局の仕事だ。波風を立てず、天蓋の下の秩序を維持する。
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帰りがけに、凛はコンビニのテレビに目が留まった。
黒田総一郎。天蓋管理局局長。五十代。白髪交じりの髪を整え、ダークグレーのスーツを隙なく着こなしている。表情は穏やかだが、目の奥に鉄がある。
定例記者会見の映像だった。
『──天蓋の存在は事実です。我々はその事実を受け入れた上で、人類としての秩序と尊厳を守っていく。否定派の気持ちは理解できます。しかし事実を否定することで得られるのは、一時的な安心だけです。我々が目指すのは、事実の上に立つ、持続可能な安心です』
記者が質問する。
『局長、上位存在との対話を試みる探求派の研究者についてはどうお考えですか? かつて天蓋科学研究所で行われた通信実験は、死者を出す事故で中止されましたが──』
画面の中の黒田が一瞬だけ表情を変えた。ほんの微か。凛でなければ見落とすレベルの変化。
『探求は否定しません。しかし、安全管理を欠いた探求は暴走です。我々は過去の悲劇を繰り返さない。それが管理局の存在意義です』
凛はテレビから目を逸らした。
「過去の悲劇」。つまり、あの実験。光の死。凛の追放。
黒田は凛を名指ししなかった。する必要がない。この国で「天蓋の通信実験の事故」といえば、一つしかないからだ。
受容派は無関心で世界を回す。否定派は怒りで世界を揺さぶる。管理局は秩序で世界を固める。三つの世界。三つの態度。そのどれにも凛は属していない。
探求派は人口の一割に過ぎない。そのうち組織的に活動しているのはさらに少数。凛のように追放された者は、もはやその少数にすら数えられない。
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アパートに戻った凛は、キャベツを冷蔵庫に押し込み、すぐにモニターの前に座った。
昨日発見した〇・〇七ヘルツの周期変動。あれを追う。
三台のモニターにデータを分散表示し、時系列解析ソフトを走らせる。民生品の天体望遠鏡に自作の分光器を組み合わせた観測システム。精度は低い。だが凛の数学的直感が、ノイズの中からシグナルを拾い出す。
三時間が経った。
コーヒーが三杯、空になった。
そして──パターンが見えた。
〇・〇七ヘルツの揺らぎは等間隔ではなかった。微妙に加速している。周期が短くなり続けている。グラフにすると、緩やかな指数関数に近い曲線。
天蓋は加速している。
何が、とはまだ分からない。回転なのか、収縮なのか、それとも全く別の物理現象なのか。しかし一つだけ確実に言えることがある。
天蓋は──変化しつつある。
凛はメモ帳に数式を書き殴った。指数関数の外挿。このペースで加速が続くとすれば、ある時点で変動幅が天蓋の構造限界を超える。
その時点を計算する。
電卓を叩く手が止まった。
約六ヶ月後。
凛はメモ帳をデスクに置き、椅子の背にもたれた。六ヶ月後に天蓋が「何か」をする。前例があるのか? 天蓋の歴史的記録は限られている。天蓋科学研究所のアーカイブにはあるかもしれないが、凛はもうアクセスできない。
──いや。一人だけ、アーカイブのコピーを持っていた人間がいる。
椎名光。
凛は唇を噛んだ。光のデータは、事故で失われたはずだ。研究所のサーバーから消去された。光の私物は遺族に返却された。
遺族──
凛はその名前を、三年間一度も口にしていない。
椎名光の、妹。
鳴るはずのないインターホンのことを、凛はまだ知らない。




