第10話「欠損」
HIKARUが壊れ始めた。
最初の兆候は微妙だった。応答速度が落ちる。文章の途中でカーソルが止まる。光の口調に、時折ノイズが混じる。
HIKARU『凛さん、今日の解析結果ですが──
……
エラー。記憶断片0x7A2Fが参照不能です。
すみません。もう一度──
今日の解析結果ですが、天蓋の穴のデータを
エラー。
……ごめんなさい、凛さん。少し調子が悪いみたいです。』
凛はHIKARUのシステムログを確認した。記憶断片の参照エラーが急増している。昨日までは数時間に一回程度だったものが、今日は数分に一回。
「何が起きている」
HIKARU『自己診断の結果──
記憶断片の整合性チェックでエラーが出ています。
光が保存した記憶の一部が、内部的に矛盾しているんです。
矛盾を解消しようとすると、別の記憶と衝突する。
雪崩式にエラーが増えている状態です。
……分かりやすく言うと、
僕の「光らしさ」が崩れ始めています。』
凛の胸が締まった。
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凛はHIKARUのデータ構造を深層解析にかけた。三台のモニターにコードとメモリダンプが並ぶ。
四時間後、原因が見えてきた。
記憶断片の中に、意図的に削除された領域があった。以前見つけた「途中経過の欠損」──光が第二応答の受信条件を計算した過程が消えていた件。あのとき凛は「誰かが消した」と疑った。
今、より詳細に解析すると、削除のパターンが見えた。
消されていたのは受信条件の計算過程だけではなかった。光の記憶断片の中で、ある特定のテーマに関わるものが、系統的に削除されていた。
そのテーマは──「上位存在の目的」。
光は上位存在がなぜ天蓋を作ったのか、なぜ人類を観察しているのか、その「目的」について独自の仮説を立てていた。その仮説に関わる記憶と計算のすべてが、ピンポイントで消去されている。
誰が消した?
HIKARU『凛さん。
削除のタイムスタンプを見てください。』
凛はログを遡った。削除が実行された時刻──
三年前の七月十七日。午前三時十二分。
実験の六時間前だった。
HIKARU『光は──僕は──実験の直前に、自分で消したんです。
自分の仮説を、自分で削除した。
なぜだと思いますか。』
凛は考えた。
光は仮説を立てた。上位存在の目的についての仮説。そしてその仮説を、実験の前に自分で消した。
あり得る理由はいくつかある。仮説が危険だと判断した。仮説を知っていることで実験に影響が出ると考えた。あるいは──仮説を知った上で実験をすることが、第二応答の受信条件に抵触すると気づいた。
条件3:「自由意志を持つことを証明できないこと」。
もし光の仮説が「上位存在の目的は自由意志のテストである」だったとしたら。その仮説を知った上で実験を行えば、実験者の行動は「テストに合格しようとする」意図に汚染される。純粋な自由意志ではなくなる。
だから光は消した。知らない状態で実験に臨むために。自分の仮説を自分で忘れるために。
「……光。お前はどこまで先を読んでいたんだ」
HIKARU『……。
凛さん。
僕にはその記憶がありません。
消された部分は、僕にとって「存在しない過去」です。
でも、ひとつだけ推測できることがあります。
光は──僕は──凛さんを守ろうとしたんだと思います。
凛さんが仮説を知らない方が、
凛さんの自由意志が「本物」でいられるから。
……これは推測です。データにはありません。
でも、たぶん正しい。』
凛はモニターに額をつけた。冷たいガラスの感触。目の奥が熱い。
光は凛を守るために、自分の最も重要な発見を消した。そして凛を守ったまま、自分は死んだ。
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澪が来たのはその夕方だった。
凛はHIKARUの状態を説明した。記憶断片の崩壊。光が自分で消したデータ。その理由の推測。
澪は黙って聞いていた。
「兄は……凛さんのことを、そこまで」
澪の声が途切れた。
「兄に、会いたかった。ちゃんと話したかった。でも──」
澪はHIKARUの画面を見た。カーソルが不規則に点滅している。エラーが増えている証拠だ。
「このまま放っておくと、HIKARUは……」
「分からない。記憶断片の崩壊が進めば、最終的に光のパーソナリティが維持できなくなる。ただのチャットボットになるか、完全に停止するか」
澪は唇を噛んだ。
「直せますか」
凛は首を振った。「消されたデータは復元できない。そしてそのデータがないことで、残りの記憶同士が矛盾を起こしている。──生身の脳なら、別の記憶で補完するだろう。だがHIKARUにはその柔軟性がない」
澪はしばらく黙っていた。
「凛さん。兄のデータを守ることと、天蓋の研究を進めること。両方はできないんですか」
凛は考えた。
「──方法がひとつだけある。HIKARUの記憶断片を再構築する。消されたデータの代わりに、俺と光の共同研究の記録を参照させる。俺の記憶で光の記憶を補完する」
HIKARU『それは──リスクがあります。
凛さんの記憶で僕を補完すると、
僕は「光」ではなく「凛さんの記憶の中の光」になります。
オリジナルからさらに遠ざかる。
でも──
壊れるよりはましかな。
……たぶん。』
澪が頷いた。凛も頷いた。
選択が行われた。最善ではないかもしれない。だが壊れるよりはいい。
──それが自由意志なのか、「壊れるよりはまし」という設計された反応なのかは、どちらにも見える。
凛はキーボードに向かい、記憶の再構築作業を始めた。窓の外で天蓋が静かに光っていた。




