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掌の天蓋  作者: 春凪一


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第1話「天蓋の下の日常」

 格子が光っている。


 灰島凛は安アパートの窓から空を見上げた。曇り空の向こう──雲を透かして、蒼白い幾何学模様がうっすらと脈動している。成層圏の上に架かる格子構造。国際天蓋学会が命名した「セリング・グリッド」。一般には──天蓋、と呼ばれているもの。


 今日も動いていない。


 凛は窓から視線を外し、デスクに向き直った。六畳一間。備え付けのテーブルの上に三台のモニターが並び、その周囲を数式の走り書きが埋め尽くしている。壁には天蓋の構造図がプリントアウトされて無造作に貼られ、コーヒーの染みが星図のように散っていた。


 テレビの音声が流れている。消音にし忘れた朝のニュース。


 『──本日の天蓋指数は安定の"A"。天蓋管理局の黒田局長は定例会見で、「天蓋構造の安定は管理体制の成果」と述べました。一方、否定派団体「プロメテウス」は──』


 凛はリモコンに手を伸ばし、テレビを消した。


 天蓋が発見されてから、もう十二年になる。最初の三年は世界中がパニックだった。空の向こうに、人工的な──いや、何者かが意図的に構築した構造物が存在する。地球そのものが、巨大な檻の内側にあるという事実。宗教は再解釈を迫られ、哲学は根底から揺さぶられ、株式市場は何度も暴落した。


 だが人間は慣れる。


 十二年経った今、天蓋は天気予報と同じカテゴリの情報になった。「今日の天蓋指数」がニュースの末尾に流れ、人々はそれを聞き流す。スーパーで買い物をし、電車に乗り、恋をして、子どもを育てる。頭上に正体不明の格子構造があっても、腹は減るし、眠くなる。


 受容派。人口の約七割がそうだ。「関係ない。飯を食って寝る」。合理的な態度だと凛は思う。思うが──共感はできない。


 凛はモニターに目を戻した。画面には天蓋の低次周波数解析データが並んでいる。研究機関を追われた今、使える機材は民生品だけだ。かつて天蓋科学研究所にいた頃の十分の一の精度。それでも、パターンは読める。凛の目には。


 格子の配列に微細な周期性がある。〇・〇七ヘルツの揺らぎ。これまで誰も報告していない──というより、この精度では検出できないはずのシグナル。凛だけが知っている。天蓋には脈がある。


 あれは、生きている。


 ──あるいは、生きているように見せかけている。


 凛はキーボードを叩く手を止めた。指先が微かに震えている。三年前の記憶が、ノイズのように割り込んでくる。


---


 白い部屋。研究所の最深部、第七実験室。


 天蓋との通信実験。理論的には不可能とされていた「下」から「上」への信号送出。凛が設計し、光が装置を組み、二人で三年かけて辿り着いた境地。


 椎名光。凛の唯一の助手であり、唯一の理解者だった。


 「いけます、凛さん。位相が合ってる」


 光の声。興奮に上ずっている。モニターの波形が初めて共鳴パターンを示していた。


 「出力を上げる。第三段階」


 凛の声は平坦だった。内心は光と同じように興奮していたが、それを表に出す回路を凛は持ち合わせていなかった。


 出力が臨界に達した瞬間──応答が来た。


 モニターが一斉にブラックアウトし、直後に一行の文字列が浮かんだ。人類のいかなる言語体系にも属さない記号列。だが凛の脳は、それを「理解」した。翻訳ではない。意味が直接注入されるような感覚。


 『お前たちに自由意志はない。だが、それを証明する方法もない。』


 そして光が倒れた。


 装置の過負荷──ということになっている。公式の事故報告書には「実験装置の欠陥設計による電磁パルス事故」と記載されている。凛が設計し、凛が出力を上げ、凛の判断で光は死んだ。


 応答の内容は凛の頭の中にしかない。装置は焼け、データは消失し、証人はいない。凛が何を言っても、それは「事故で精神に異常をきたした研究者の妄言」として処理された。


 研究所からの追放通告は、事故の二週間後だった。


 「灰島さん。あなたの実験は非人道的でした」


 所長の言葉に、凛は反論しなかった。反論する言葉は持っていた。だが、光を殺したのは自分だという事実は反論できなかった。論理の剣で斬れない種類の痛みが、凛の内側に居座った。


---


 モニターの光が凛の顔を照らしている。


 三年経っても、あの応答は頭の中に刻まれている。焼印のように消えない。


 『お前たちに自由意志はない。だが、それを証明する方法もない。』


 凛は椅子の背にもたれ、天井を見た。見えるはずのない天蓋が、天井の向こうにある気がした。


 自由意志は存在するか。


 この問いを上位存在は否定した。しかし同時に、証明不可能だとも言った。否定しながら、否定の確認を封じている。完璧な論理的閉鎖。


 ──いや。


 凛は立ち上がり、屋上への階段を上がった。


 錆びた扉を押し開ける。夕暮れの空。雲の切れ間から天蓋のグリッドが、今度ははっきりと見えた。蒼白い光の格子が、地平線から地平線まで広がっている。美しい、と思う。十二年間で、それだけは変わらない。


 風が吹いた。凛の着古したシャツの裾を揺らす。


 「自由意志は存在するか」


 声に出してみた。屋上に他に誰もいない。天蓋は当然答えない。


 「少なくとも──この問いを立てたのは、俺自身のはずだ」


 凛はポケットからメモ帳を取り出し、今日の解析結果を書き留めた。〇・〇七ヘルツの周期変動。天蓋は静止していない。動いている。何かが変わりつつある。


 何かが。


 まだ、分からない。だが凛には確信があった。あの応答は始まりだった。終わりではない。


 空の格子が明滅する。偶然のパターンか、意図的な信号か。凛にはまだ判別できない。


 だが──見続ける。それだけは、自分で選べる。


 灰島凛はメモ帳をポケットに戻し、天蓋の下の、錆びた屋上に立ち続けた。


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