第六章:戴冠のセレナーデ
王都軍を退けた黒鉄城は、戦勝の熱気と、どこか神聖な安堵感に包まれていた。
広間では兵士たちが祝杯を上げ、北国の厳しい冬を忘れさせるほどの笑い声が響いている。しかし、その喧騒から離れた最上階のテラスには、冷たい月光を浴びながら静かに佇む二人の姿があった。
「傷の具合はどうだ。……まだ、喉が焼けるように痛むのではないか?」
ジギスムントは、エルセの肩に厚手の毛皮の外套をかけながら、気遣わしげに問いかけた。
彼の掌の火傷も包帯で覆われているが、その指先は驚くほど優しく彼女の髪をなぞる。
エルセは小さく首を振り、彼の手のひらに自分の頬を寄せた。
「大丈夫です。……貴方の側にいられることが、何よりの薬ですから」
取り戻した声は、以前よりも少しだけ深みを増し、聴く者の心を震わせる調べを帯びていた。
ジギスムントはその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。かつては「道具」として、あるいは「呪いを鎮めるための装置」として彼女を見ていた自分を恥じるほどに、今、彼は一人の女性としての彼女を渇望していた。
「エルセ、貴様に話さねばならないことがある。……王都軍の指揮官が残した書状から、貴様の真の出自が判明した」
ジギスムントの表情が、わずかに引き締まった。
エルセは、いつかこの時が来ることを悟っていたかのように、静かにその続きを待った。
「貴様はただの捧げ物ではない。……五年前に滅ぼされた隣国、聖音王国の第一王女、エルセバート・フォン・ロセリア。そうだろ?」
その名が呼ばれた瞬間、エルセの肩が微かに震えた。
王都は、彼女の強大な魔力を恐れ、声を封じた上で辺境の死神に押し付け、あわよくば二人共倒れになることを狙っていたのだ。
ジギスムントは、彼女の細い腰を引き寄せ、逃がさないように強く抱きしめた。
「亡国の王女としてではなく、私の妻として。……この北の大地を、共に統べる覚悟はあるか?」
ジギスムントの問いかけは、夜風にさらされたテラスで重く、そして甘く響いた。
亡国の王女。その名は、エルセにとって忘れたい過去であり、同時に守りたかった誇りでもあった。
彼女は、自分を抱きしめるジギスムントの胸元に顔を埋め、彼の力強い心音を聴いた。
「私は……国を失い、声さえも奪われた抜け殻でした。あの日、貴方に拾われるまでは」
エルセは顔を上げ、彼の漆黒の瞳を見つめ返した。
そこには、かつて彼女が怯えていた「死神」の冷徹さはなく、ただ一人の女性を愛し、守ろうとする男の情熱だけが宿っている。
「王女としての私は、あの日死にました。今ここにいるのは、貴方の隣で歌い、貴方の影を光へと変えるために生きる……ただの、エルセです。この命が尽きるまで、貴方と共に歩むことをお許しください」
その言葉が終わるより先に、ジギスムントの唇が彼女の言葉を塞いだ。
深く、激しい、誓約の接吻。
氷のように冷たい北風の中でも、二人の間に流れる熱は、春を呼ぶ炎のように激しく燃え上がっていた。
ジギスムントは唇を離すと、彼女の左手を取り、剥き出しになった白皙の指先にそっと唇を落とした。
「ならば、明日を待たずに行動を開始する。王都は貴様の存在そのものを『禁忌』とし、消し去ろうとしている。だが、私はあいつらに分からせてやる。貴様こそが、この腐り果てた王国に引導を渡す、真の『聖なる声』であることを」
彼はエルセを傍らに引き寄せ、テラスから遥か南——王都のある方向を睨み据えた。
「ベルンハルト! 全軍に命じろ。これより我らは王都へ進軍する。これは防衛戦ではない。……真の『死神』と『歌姫』が、玉座を正しに行くための凱旋だ」
暗闇の中から、ベルンハルトの「御意」という静かだが決然とした声が返ってきた。
二人の愛は、今や一国の運命を揺るがす巨大な潮流へと変わり始めていた。
ヴァレル領の黒い軍勢が南下を始めると、その光景は歴史に類を見ない異様な、そして神々しいものへと変貌していった。
先頭を行くジギスムントの隣、白銀の毛皮を纏ったエルセが馬上からその声を解き放つたび、凍てついた街道に奇跡が起きた。
「……あの調べは、まさか」
「ロセリアの、我が祖国の『聖なる歌』ではないか!」
王都の圧政に耐え、各地で身を隠していた聖音王国の遺民たちが、一人、また一人と道端に姿を現した。
彼らはかつての王女の生存を知り、涙を流して跪く。
そして驚くべきことに、エルセの歌声に導かれるように、彼らもまた自らの声を重ね始めた。
一人、十人、百人――。
重なり合う合唱は巨大な光の渦となり、ジギスムントが纏う禍々しい「影」を侵食していく。
かつて死者の怨念を喰らって肥大していた彼の影は、エルセと民たちの歌声というフィルターを通すことで、濁りを取り除かれ、純粋な魔力の結晶体へと昇華された。
ジギスムントの背後に広がる翼は、漆黒から、深い夜空のような紺碧に、そして先端は真珠のような輝きを帯びていく。
死を振り撒く「死神の羽」は、今や敵を威圧し、味方を絶対的な加護で包み込む「守護の翼」へと進化したのだ。
「見ろ、ジギスムント様。貴方の影が、あんなに美しく輝いています」
エルセが微笑みかけると、ジギスムントは己の内に満ちるかつてない全能感に酔いしれた。
もはや亡霊たちの叫びは聞こえない。あるのは、愛する女の歌声と、自分たちを信じて歩む民たちの鼓動だけだ。
「……全軍、足を止めるな。この光が届く場所すべてを、我らの庭とする。王都の門を叩くまでに、この合唱を天まで届けろ!」
ジギスムントの咆哮に、数万の軍勢と民の声が唱和する。
王都を囲む高い城壁が、遠くにその影を見せ始めていた。
王都の象徴である白亜の城壁が、夕闇に沈む地平線に巨大な墓標のように立ちはだかっていた。
かつてエルセが「物」として運び出されたその門は、今や鉄の閂と何重もの防御結界で固められ、不気味な沈黙を守っている。
「……辺境伯よ、これ以上の不敬は許されん! 陛下の慈悲を無下にするというのなら、この『神罰』を受けるがいい!」
城壁の上から響くのは、エルセの声を奪ったあの使者の、震える叫びだった。
その瞬間、城壁の塔に設置された数基の巨大な魔導装置が、不気味な音を立てて起動した。王都が密かに開発していた禁忌の兵器「雷鳴の眼」。
それは周囲の精霊を強制的に分解し、超高密度の破壊光線を放つ、自然の摂理に反した魔導兵器であった。
空が引き裂かれるような音と共に、極太の光軸がジギスムントの軍勢へと降り注ぐ。
だが、ジギスムントは馬を止めることさえしなかった。彼は無言でエルセの腰を抱き寄せ、その背を優しく叩く。
「……エルセ、準備はいいか。私たちの『答え』をあいつらに見せてやろう」
「はい、ジギスムント様。私たちの絆が、あの偽りの光に負けるはずがありません」
エルセは深く、深く息を吸い込んだ。
彼女の胸元で、ジギスムントから贈られた宝石が、彼女の鼓動に合わせて青白く脈動し始める。
彼女が解き放ったのは、これまでで最も高く、最も純粋な「最高音」。
その歌声に呼応し、ジギスムントの背後から噴き出した影が、銀色の魔力を纏って巨大な盾へと姿を変えた。
「雷鳴の眼」の破壊光線が影の盾に直撃した瞬間、激しい衝撃波が周囲をなぎ払ったが、ジギスムントとエルセは一歩も退かない。
それどころか、エルセの歌声によって浄化された影は、破壊のエネルギーをそのまま吸収し、より強固な輝きを放ち始めた。
歌声と影の共鳴は、もはや一つの生命体のように戦場を支配していた。
ジギスムントが剣を抜き、天を指す。
「跪くのは貴様らの方だ! 門を開けろ、腐敗した王座の住人どもよ!」
ジギスムントの剣先から放たれた銀の衝撃が、王都の堅牢な城門を内側から爆破するように粉砕した。
瓦礫が舞い散る中、二人は一歩も足を止めず、静まり返った王宮へと足を踏み入れる。廊下に控えていた近衛兵たちは、ジギスムントの圧倒的な威圧感と、エルセから放たれる神聖な魔力の余波に、武器を握る気概さえ奪われ、次々と膝を突いた。
やがて、重厚な扉が開き、玉座の間が姿を現す。
しかし、そこにいたのは、威厳ある一国の王ではなかった。
玉座に深く沈み込んでいたのは、老婆のように痩せ細り、全身に黒い痣が浮き出た哀れな男だった。王の周囲には、エルセの喉に嵌められていたものと同じ「枷」が、巨大な装置として床から這い回り、彼から生命力を吸い上げ続けている。
「……ようやく、来たか。死神と……我が、最高傑作よ」
王の掠れた声に、エルセは息を呑んだ。
「父……様……?」
信じがたい言葉が彼女の唇から零れる。王都の現王は、彼女の故郷である聖音王国を滅ぼした仇敵のはずだった。だが、目の前の男の瞳には、かつて彼女を慈しんだ実父の面影が、絶望的な歪みを伴って宿っていた。
「聖音王国は滅びてなどいない……。この私の体内で、そしてお前の喉の中で、魔力の電池として生き続けているのだ。ジギスムント、貴様がエルセの枷を壊したことで、私の命脈も、この国の魔力供給も、すべてが終わりを迎える……」
男は狂気じみた笑いを漏らした。王都の繁栄は、略奪した他国の王族を「生きた魔力炉」として消費することで成り立っていたのだ。エルセの声を封じたのは、彼女がその苦痛に叫び、魔力を霧散させるのを防ぐため。そして今、その反動が王を蝕んでいた。
「……何という、醜悪な真実だ」
ジギスムントは嫌悪感と共に剣を構え直したが、その傍らで、エルセは震える足で前へと踏み出した。
玉座の間に満ちる、腐敗した魔力の臭気。エルセは、かつての父であったはずの異形の男の前に立った。
王を縛る巨大な「枷」の装置が、主人の死期を悟ったように不気味な脈動を繰り返し、周囲の空気を黒く染めていく。ジギスムントは剣を構え、いつでも彼女を庇えるよう背後に控えていたが、エルセは静かに首を振ってそれを制した。
「……お前が、歌えば……この国は、再び、栄える……。歌え……エルセ……。私を、救え……」
王は震える手を伸ばすが、その指先からは黒い灰が零れ落ちている。
エルセは悲しげに目を伏せ、そして、ゆっくりと口を開いた。
それは王が求めた、国を繁栄させるための魔力の搾取ではない。魂を安らかな眠りへと誘う、鎮魂の調べ。
「♪——」
彼女の喉から放たれたのは、これまでのどの歌よりも優しく、そして冷徹な響きだった。
歌声が王の身体を包み込むと、彼を縛っていた黒い「枷」の装置が、耐えきれぬように白く発光し、一つ、また一つと音を立てて砕け散っていく。
王の顔から狂気が消え、一瞬だけ、かつての慈愛に満ちた父の瞳が戻った。
「……ああ、そうだ。お前の声は、こんなにも……暖かかったのだな……」
満足げな言葉を最後に、王の身体は光の粒子となって霧散し、空っぽの玉座だけが残された。
王都を支えていた歪な魔力炉が完全に停止し、王宮全体を覆っていた不気味な重圧が消え去る。
窓の外では、王都を照らしていた不自然な魔導の灯が消え、代わりに本物の星空が夜を支配し始めた。
エルセは膝をつき、父が消えた場所を見つめていた。
ジギスムントは静かに歩み寄り、彼女の華奢な肩を抱き寄せる。
「……終わったのだな」
「はい。……本当の意味で、すべてが」
エルセは彼の胸に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。
それは過去との決別の涙であり、これから始まる新たな夜明けへの、最初の産声でもあった。
玉座の間を覆っていた禍々しい闇は消え、夜明けの冷徹な、しかし清々しい光が、砕けたステンドグラスから差し込んでいた。
王都の民たちは、突如として消えた魔導の灯に戸惑い、城門の前に集まっていた。彼らの前に、一人の騎士と、一人の女性が姿を現した。
血と影に塗れた軍装を脱ぎ捨て、銀の装飾が施された正装を纏ったジギスムント。
そして、その傍らには、汚れなき純白のドレスに身を包み、宝石よりも輝く瞳を持ったエルセ。
「王都の民よ、聴くがいい」
ジギスムントの声が、静まり返った広場に響き渡る。
「偽りの繁栄は終わった。この国は、他者の命を啜る化け物ではなく、再び血の通った人間の国として生まれ変わる。私は、この『聖音の歌姫』と共に、新たな夜明けを築くことを誓おう」
民たちは最初、畏怖の対象であった辺境伯の姿に息を呑んだ。しかし、隣に立つエルセがゆっくりと両手を広げ、天に祈りを捧げるように歌い始めたとき、その疑念は霧散した。
「♪——」
その歌声は、抑圧されていた人々の心に、失われていた希望の種を蒔いていく。
誰かが跪き、やがてそれはさざ波のように広場全体へと広がっていった。
それは恐怖による服従ではない。魂が揺さぶられた者たちによる、心からの敬意であった。
ジギスムントは、民の前で跪き、エルセの左手を取った。
かつて枷があったその首元には、今は彼が贈った、星の雫のようなペンダントが輝いている。
「私の命、私の影、私のすべてを貴様に捧げる。……私の王妃、エルセ」
彼は彼女の指先に、永遠を誓う口づけを落とした。
エルセは、目に涙を浮かべながらも、凛とした微笑みを湛えて彼の手を握り返した。
かつて声を奪われ、暗闇の中で震えていた小鳥は、今、自らの力で空を掴み、愛する男と共に、新しい歴史の扉を開いたのだ。
失礼いたしました、あなたの仰る通りです。王都を制し、歪んだ旧体制を打破した二人が、そのまま新たな国を統治する拠点として王都に留まるのは当然の流れですね。
ヴァレル領という限定的な場所ではなく、新生した王国の中心で二人が描く未来――その大団円を書き直させていただきます。
数年の月日が流れ、王都はかつての不気味な魔導の光ではなく、人々の活気と温かな灯火に満ちた都市へと生まれ変わっていた。
再建された王宮の庭園では、北国から移植された冬薔薇が、誇らしげにその白き花弁を広げている。
「……また、ここにいたのか。風が冷えると言っただろう」
背後から聞こえた低い声に、エルセは愛おしそうに目を細めて振り返った。
そこにいたのは、かつての「死神」の険しさを削ぎ落とし、統治者としての深い慈愛と威厳を湛えたジギスムントだ。彼は無言で、自分の厚手のマントをエルセの肩にかけ、彼女を背後から包み込んだ。
「ジギスムント様。見てください、あんなに遠くまで明かりが灯っています。……あの中の誰一人として、もう『枷』に怯える必要はないのですね」
エルセの声は、かつてのように震えることはない。今や彼女の歌声は国中の安寧を保つ「聖なる礎」となり、ジギスムントの影もまた、国を影から守護する静かな力へと調和していた。
ジギスムントは、彼女の首筋にそっと唇を寄せた。そこにはもう、醜い痣すらも残っていない。
「ああ。貴様がこの国の声を、そして私の心を、光で満たしてくれたからだ」
ジギスムントは彼女の左手を握り、指先に光る指輪に視線を落とした。
二人の間には、もはや言葉さえ不要だった。重なり合う鼓動が、何よりも確かな愛の証明だった。
ふと、エルセが小さなハミングを口ずさむ。
それはかつて、地下牢で彼を救ったあの旋律。
ジギスムントもまた、その調べに合わせて、静かに目を閉じる。
孤独な死神と、声を奪われた小鳥。
地獄の淵で出会った二人の物語は、今、美しいセレナーデとして、永遠に語り継がれる伝説となった。
降り始めた初雪が、二人の影を優しく、白く染め上げていく。
新しい夜明けは、すぐそこまで来ていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
指摘や感想とか頂ければ励みになります。




