第五章:黒鉄の防衛線
深夜の静寂は、硝子を叩き割るような鋭い音と共に破られた。
寝室の窓から、黒い装束を纏った刺客たちが、鳥の羽ばたきにも似た音を立てて飛び込んできた。王都直属の暗殺部隊「鴉の爪」。彼らの刃には、触れるだけで神経を麻痺させる猛毒が塗り込まれている。
「下がっていろ、エルセ!」
ジギスムントの怒声が響く。
彼は寝台の傍らから漆黒の剣を抜き放ち、一閃した。闇を切り裂く剣筋が、先頭の刺客の胸を斜めに両断する。だが、敵は一人や二人ではなかった。窓から、そして天井の通気口から、次々と影が降り注ぐ。
エルセは弾かれたように起き上がり、寝台の端で身を縮めた。
視界の先では、ジギスムントが狂気じみた速さで剣を振るっている。彼の背後からは、制御を失いかけた「影」が触手のように伸び、壁を這う刺客たちを次々と叩き落としていた。
しかし、暗殺者たちの狙いはジギスムントだけではない。
「……標的を確認。王都の『所有物』を奪還、あるいは破壊せよ」
一人の刺客が、ジギスムントの隙を突き、最短距離でエルセへと肉薄した。
抜き放たれた細身の短剣が、月光を反射して冷たく光る。
エルセの瞳に、迫り来る死の切っ先が映った。
(また、奪われるのか。私の居場所を、この温もりを……!)
彼女の脳裏に、これまでの屈辱の日々と、先ほどまで彼女を抱きしめていたジギスムントの温かな胸板が交互に浮かぶ。
恐怖は、瞬時に烈火のごとき拒絶へと変わった。
喉元の「枷」が、彼女の内側から湧き上がる膨大な魔力を検知し、未だかつてないほどの激痛と共に赤黒く発光し始める。
首が千切れるほどの衝撃。
だが、エルセは逃げなかった。彼女は両手を広げ、喉を掻き切る痛みに絶叫すら上げず、ただ己の魂を「音」へと変えた。
「枷」が悲鳴を上げた。
エルセの内側から噴き出した魔力は、王都の魔導師たちが施した封印の許容量を一瞬で食い破った。首輪の隙間から、青白い光の奔流が溢れ出し、彼女の華奢な身体を繭のように包み込む。
「……ぁ、……あああああ……っ!」
声にならない、魂の振動。
それは耳で聞く「音」ではなく、大気を、壁を、そして人の細胞そのものを直接震わせる「神の調べ」だった。
エルセに肉薄していた刺客は、その不可視の衝撃波を正面から浴び、まるで巨大な鐘の内部で打たれたかのように、全身の筋肉を硬直させてその場に崩れ落ちた。
部屋中の空気が、キィィィィンと耳鳴りのような高周波を帯びて歪んでいく。
壁に掛けられた絵画の額縁が砕け、窓硝子が粉々に弾け飛んで、夜の雪原へと吸い込まれていった。
エルセを中心に広がる「共鳴」は、暗殺者たちの感覚を狂わせ、彼らが持つ猛毒の刃すらもその振動で砕き散らしていく。
「エルセ、貴様……っ!?」
ジギスムントは驚愕に目を見開いた。
彼自身の背負う「影」が、彼女の放つ清浄な光の音色に触れた瞬間、苦痛を伴って霧散していくのを感じたからだ。
影という名の亡霊たちが、彼女の音に浄化され、静まっていく。
だが、その奇跡の代償は残酷だった。
エルセの細い首に食い込んだ「枷」は、魔力の暴走を止めようと、内側の針をこれまでにない深さで彼女の肉へと突き立てていた。
白い寝衣が、喉元から流れる鮮血で瞬く間に赤く染まっていく。
エルセの意識は、あまりの激痛に白濁し、その瞳からは光が失われようとしていた。
「枷」が過負荷で白熱し、エルセの柔らかな肌を焼き焦がしていく。
血を吐きながら崩れ落ちる彼女の姿を目にした瞬間、ジギスムントの中の「人間」としての理性が完全に吹き飛んだ。
彼の内側に潜む影の深淵が、咆哮を上げて解き放たれる。
「私の……私の世界から、これ以上奪うなと言ったはずだ!」
ジギスムントの影は、もはや触手などという生易しいものではなかった。
それは部屋全体を飲み込む巨大な黒い津波となり、残っていた暗殺者たちを無造作に、かつ徹底的に押し潰した。
鎧も、剣も、肉体も、影の圧力によって紙細工のように丸められ、絶叫を上げる暇さえ与えられずに肉塊へと変えられていく。
刺客たちが全滅するのと同時に、ジギスムントはエルセの元へ膝をついた。
彼女の呼吸は浅く、喉元の首輪は今や彼女を締め殺す凶器と化している。
王都の魔導師が施したこの「枷」は、無理に外そうとすれば対象の首を撥ね飛ばす自爆装置が組み込まれている。
だが、今のジギスムントには、躊躇している時間など一秒もなかった。
「……耐えろ。エルセ、貴様の命を私に預けろ」
ジギスムントは己の右手を、赤く焼けた鉄の首輪へと直接押し当てた。
ジュウ、と肉の焼ける音がし、彼の掌にも激痛が走るが、彼はその手を離さない。
彼は己の呪われた「影」を、針の穴を通すような精密さで枷の内部へと流し込み、中にある魔術回路を力技で食い破り始めた。
影と光の魔力が衝突し、二人の周囲で激しい放電が起きる。
エルセの身体が弓なりに反り、彼女の喉から、掠れた、しかしこの世で最も美しい「音」が、血と共に漏れ出した。
「壊れろ……! 彼女を縛るすべての鎖よ、消え失せろ!」
ジギスムントが魂を削るように叫んだ瞬間、金属が砕け散る甲高い音が響き渡った。
パキィィィィィィン――!!
鼓膜を劈くような硬質な音が部屋に響き渡り、エルセの喉を長年苛み続けてきた「黒鉄の枷」が、粉々に砕け散った。
鉄の破片が流星のように四方に飛び散り、ジギスムントの頬を掠めて血を滲ませる。
枷から解放された瞬間、エルセの身体から、遮るもののない純白の魔力が噴き出した。
それは暴力的な衝撃ではなく、凍てついた大地を溶かす春の息吹のような、圧倒的な慈愛を孕んだ「音の奔流」だった。
「……あ……」
彼女の唇から、小さな、しかし凛とした声が零れる。
それは、世界から色彩を奪われていた王女が、数年ぶりに取り戻した自らの「名前」のような、透明な響き。
その清らかな音色は、ジギスムントの全身を侵食していたドロドロとした黒い呪いを、一時的に、しかし完全に押し流した。
だが、限界まで魔力を放出し、肉体を酷使した代償は大きかった。
光の残滓が消えゆくと同時に、エルセの身体は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
ジギスムントは、火傷で黒ずんだ己の掌を顧みず、その華奢な身体をそっと受け止めた。
静寂。
死体と瓦礫に満ちた凄惨な部屋の中で、ジギスムントは膝をつき、眠るように目を閉じたエルセを、壊れ物を扱うように抱きしめた。
彼女の首元には、枷が嵌まっていた生々しい痣と、彼が回路を焼き切った際の熱傷が残っている。
だが、そこにはもう、彼女を縛り付ける呪縛の鎖は存在しない。
「……もう、誰にも貴様を操らせはしない。王も、神も、私自身ですらもだ」
ジギスムントは、彼女の血に汚れた銀髪に顔を埋めた。
彼の中にあった、冷酷な辺境伯としての仮面は完全に砕けていた。
抱きしめているのはただの道具ではない。自分の魂を、その「声」で救ってくれた、たった一人の女性なのだ。
彼はエルセを抱きかかえたまま立ち上がった。
割れた窓の向こう、雪原の地平線が、白々と明け始めていた。
三日三晩、エルセは深い眠りの中にいた。
城の侍医たちは、彼女の喉に刻まれた火傷を懸念したが、ジギスムントが自ら施した魔力による保護と、エルセ自身の内側から溢れる生命の「共鳴」が、奇跡的な回復をもたらしていた。
四日目の朝。窓から差し込む冬の柔らかな光の中で、エルセはゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界が定まると、すぐ側に座り、疲れ果てた顔で眠りに落ちているジギスムントの姿があった。
彼は椅子の背にもたれ、エルセの右手を、まるで眠っている間に消えてしまうのを恐れるかのように、固く握りしめていた。
「……ぁ……」
エルセは喉を震わせた。
いつものように針が刺さる痛みはない。代わりに、温かな空気が喉を通り、振動となって口から溢れ出した。
まだ掠れているが、それは間違いなく、彼女が奪われていた「自分の声」だった。
ジギスムントが、弾かれたように目を開けた。
焦点が合うと同時に、彼はエルセの瞳を覗き込み、その唇の動きを凝視した。
「エルセ……、貴様、今……」
エルセは、震える唇を動かした。
彼女が数年もの間、心の奥底で叫び続け、けれど一度も届けることができなかった言葉。
それを、目の前の、自分を救うために掌を焼き、世界を敵に回した男に捧げた。
「……ぁ……あ、りがとう……ジギ……スムント様」
その瞬間、ジギスムントの瞳が激しく揺れた。
彼女の声は、かつて聴いたどんな楽器よりも、どんな王宮の調べよりも美しく、彼の荒みきった魂を震わせた。
彼は無言のまま、エルセの手に額を押し当て、肩を震わせた。
冷徹な「死神」が、生まれて初めて、自分を呼ぶ声の温もりに、人知れず救われた瞬間だった。
しかし、その感動を遮るように、部屋の外からベルンハルトの緊迫した声が届く。
「閣下。……王都の軍勢が、国境の砦を越えました。暗殺に失敗したと悟り、武力による『強制回収』に踏み切った模様です」
ジギスムントはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの慈愛は消え、敵を根絶やしにするための、深淵のごとき黒い殺意が再び宿っていた。
「……来るがいい。王都の狗どもに、誰の喉元を噛もうとしたのかを教えてやる」
ジギスムントは立ち上がり、枕元に置かれていた漆黒の長外套を羽織った。彼の掌の火傷は未だ生々しかったが、その手は迷いなく剣の柄を握っている。
エルセは、震える足取りで寝台を降り、彼の背中に呼びかけた。
「お待ち……ください。私も、共に行きます」
その声は、まだ雪解けのしずくのように細く、頼りない。しかし、ジギスムントが振り返ったとき、そこにいたのは庇護されるだけの奴隷ではなかった。
銀糸の髪をなびかせ、まっすぐに自分を見つめる彼女の瞳には、かつて王族として民を導いた者の、そして愛する者を守ろうとする一人の女性の、気高き決意が宿っていた。
「正気か。戦場は貴様のような小鳥が歌う場所ではない」
「いいえ。貴方の影が死者の声に苦しむのなら、私の声がそれを鎮めます。貴方が死神として戦うのなら、私は貴方の『魂の守り手』として側にいます」
ジギスムントは、苦々しげに、だがどこか誇らしげに口角を上げた。
彼は無言でエルセの腰を引き寄せると、自らの厚い軍装の上から彼女を包み込んだ。
「……ならば離れるな。私の影の届く範囲こそが、貴様の聖域だ」
城門が開かれ、ヴァレル辺境伯領の精鋭たちが雪原へと溢れ出す。
その中央、黒い巨馬に跨るジギスムントの背後で、エルセは風に吹かれながら、自らの内側で静かに脈動する「音」を研ぎ澄ませていた。
遠方の地平線から、王都の黄金の紋章を掲げた大軍が、黒い染みのように迫ってくる。
かつて彼女の声を奪った者たちが、今度はその命を奪いに来る。
エルセは深く息を吸い込んだ。冷たい大気が肺を通り、今度は痛みではなく、確かな熱となって彼女を突き動かす。
雪原を埋め尽くす王都軍の咆哮が、大気を震わせていた。
数において圧倒する彼らは、ヴァレル領の軍を「反逆者」と呼び、情け容赦ない魔導砲の斉射を開始する。
空を焼く火球が降り注ぐ中、ジギスムントは最前線で剣を抜き放った。
「影よ、我が渇きを喰らい、敵を屠れ!」
彼の叫びに呼応し、大地から巨大な黒い影の棘が突き出した。
それは王都軍の騎兵たちを馬ごと串刺しにし、戦場に血の雨を降らせる。
だが、殺戮を重ねるほどに、ジギスムントの瞳からは理性の光が失われ、背後の「影」は禍々しい死者の怨念を纏って膨れ上がっていく。
かつてのように、彼は自分自身を失い、影に飲まれようとしていた。
その時。
混沌とした戦場に、あり得ざるほど清澄な「音」が響き渡った。
ジギスムントの背に同乗していたエルセが、その細い喉を震わせ、歌い始めたのだ。
「——♪」
それは歌詞のない、純粋な魔力の旋律。
彼女の歌声が波紋のように広がると、ジギスムントを苦しめていた亡霊たちの叫びが霧散し、彼の荒れ狂う影が、輝く銀の光を帯びて変質していく。
死を振り撒くだけの暴力が、彼女の歌によって「法」と「調和」を持った、神聖な守護の力へと昇華されたのだ。
「……これが、貴様の力か」
ジギスムントは、己の内に流れ込む圧倒的な静寂に驚愕した。
影はもはや彼を蝕む毒ではなく、彼の手足として、かつてない精度で敵を薙ぎ払う。
エルセの歌に導かれたヴァレル領の兵士たちは、恐怖を忘れ、無敵の軍勢となって王都の精鋭を押し戻し始めた。
王都軍の指揮官たちが驚愕に目を見開く中、エルセの歌声はさらに高く、激しく戦場を支配していく。
彼女はもう、怯える小鳥ではない。
愛する男の隣で、共に運命を切り拓く「戦場の歌姫」へと覚醒していた。
王都軍の壊滅は、劇的な幕切れだった。
エルセの歌声によって「静謐なる破壊」の力と化した影の軍勢は、数で勝るはずの敵を跡形もなく雪原の彼方へと追い散らした。
逃げ惑う兵士たちの背後に残されたのは、ただ圧倒的な静寂と、月明かりに照らされた銀世界の静止画だけだった。
「……終わったのか」
ジギスムントは剣を鞘に収め、荒い息を吐きながら、自身の右手に視線を落とした。
いつもなら戦いの後は、殺めた者たちの呪詛が耳を塞ぎたくなるほどに響き、意識は混濁し、吐き気と共に影に飲み込まれそうになる。
だが今は、かつてないほどに心が凪いでいた。
背中越しに伝わるエルセの温もりと、今も微かに大気を震わせている歌の残響が、彼の魂をこの世界に繋ぎ止めていた。
彼は馬を降り、力尽きて崩れ落ちそうになったエルセを、正面からしっかりと抱き止めた。
彼女の銀髪は汗と雪で乱れ、その美しい喉は真っ赤に充血している。
それでも、彼女はジギスムントの顔を見上げ、満足げに微笑んだ。
「ジギ……スムント様。もう、あの方たちの……声は、聞こえませんか……?」
掠れた声で、自分のことよりもまず彼の安否を問うその献身に、ジギスムントは胸を締め付けられるような衝撃を覚えた。
彼は何も言わず、彼女の頬を両手で包み込み、その額に優しく、誓いを立てるように唇を寄せた。
「ああ。貴様の歌が、すべての地獄を追い払ってくれた。……エルセ、貴様はもう、私の奴隷ではない」
ジギスムントは、彼女を抱き上げたまま、夕闇の向こうにそびえ立つ黒鉄城を見上げた。
「貴様は、私の——ヴァレル家の『光』だ。これからは、私の隣で、その声で私の世界を導け」
それは主従の契約を破棄し、対等な魂の伴侶として彼女を迎え入れる宣言だった。
エルセの瞳から、安堵と喜びの涙が溢れ、彼の漆黒の外套に吸い込まれていく。
戦場には冷たい風が吹いていたが、重なり合う二人の間には、何者にも壊せない、確かな絆の熱が灯っていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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