第四章:月下の共鳴
嵐の後の静寂が、黒鉄城を包んでいた。
三階の主寝室に差し込む陽光は、昨夜の惨劇を洗い流そうとするかのように、石床を白く照らしている。
エルセは、ジギスムントの私室の一角に設けられた特注の寝椅子で、目を覚ました。
喉の痛みは、彼が流し込んだ魔力のおかげで驚くほど引いている。だが、首を動かそうとするたびに、枷が重く存在を主張した。
「……無理に動くな。傷が開く」
低く、しかし以前のような刺々しさを欠いた声が、執務机の方から聞こえた。
ジギスムントは軍装を脱ぎ、簡素な黒いシャツ姿で羊皮紙にペンを走らせていた。
彼が書き綴っているのは、昨夜の不祥事を起こした兵士たちへの、文字通り「死の宣告」に近い処分状だろう。
エルセはゆっくりと身を起こし、彼の方へ視線を向けた。
本来、奴隷は主人が仕事をしている間、その存在を消さなければならない。
しかし、ジギスムントは時折、顔を上げてエルセの様子を窺っている。
その視線には、所有物を検分する冷徹さよりも、壊れやすいガラス細工の安否を確認するような、不器用な危うさが混じっていた。
彼はペンを置くと、無言でエルセの側まで歩み寄り、小さな銀の盆に乗った果実を差し出した。
王都から届いたばかりの、この寒冷な北国では目にするはずもない、瑞々しい葡萄だ。
「食べろ。貴様が倒れては、私の眠りが損なわれる」
その言葉は依然として主従の枠を超えないものだったが、彼の手がエルセの肩にかかった毛布を整える動きは、驚くほど静かだった。
エルセは、彼が差し出した果実に震える手を伸ばした。
甘い香りが鼻腔をくすぐり、不意に、故郷の王宮の庭園で過ごした遠い日々が脳裏を掠める。
その時、部屋の外で重々しい足音が響き、ベルンハルトが声を上げた。
「閣下。王都より、特使が到着いたしました。……陛下からの、親書を預かっているとのことです」
ジギスムントの眉が、不快げにぴくりと跳ねた。
エルセの身体も、反射的に強張る。
王都。自分を「声」も「名」も奪われた奴隷としてこの死神に差し出した、憎き場所からの使者だった。
ジギスムントの執務室へと案内されたのは、王都の派手な意匠を纏った、狡猾そうな目つきの文官だった。
彼は部屋に入るなり、冷え切った北の空気に顔を顰めたが、主人の背後に控えるエルセの姿を認めると、その口角を卑俗に歪めた。
「お久しぶりでございます、ヴァレル辺境伯。……おや、王都から送り届けた『沈黙の小鳥』は、まだ息災なようで」
使者の視線は、エルセの喉元に嵌められた「枷」の亀裂と、その下に覗く包帯を執拗に舐め回す。
エルセは指先を震わせ、ジギスムントの影に身を隠すように俯いた。
この使者は、彼女がかつて王宮でどのような立場にいたかを知る、数少ない人間の一人かもしれなかった。
「……用件は何だ。挨拶なら不要だと言ったはずだが」
ジギスムントの声は、低く地を這うような威圧感を帯びていた。
彼はエルセを庇うように一歩前へ出ると、使者との間に絶対的な壁を築く。
使者は大袈裟に肩をすくめ、懐から金色の封蝋が施された書状を取り出した。
「陛下は、辺境伯の戦功を称えると共に、その『道具』が正しく機能しているかを案じておいでなのです。もし、使い物にならなくなったのであれば、回収し、別の——より強力な『調律』を施したものと交換せよ、との仰せでしてな」
『回収』という言葉に、エルセの心臓が凍りつく。
それは王都の暗い地下へ連れ戻され、本当の意味で自我を破壊されることを意味していた。
使者はジギスムントの沈黙を肯定と捉えたのか、さらに一歩踏み出し、エルセの顔を覗き込もうとした。
「さて、そこの奴隷。顔を上げろ。お前の『声』がまだ枯れていないか、私が直々に確かめてやろう……」
男の手がエルセに伸びようとした瞬間、部屋の明かりが不自然に揺らぎ、ジギスムントの背後から噴き出した影が、使者の足元の石床を蜘蛛の巣状に砕いた。
「——貴様の指が、二度と文字を書けなくなっても良いのなら、その女に触れるがいい」
ジギスムントの瞳には、一切の冗談を排した、純粋な殺意が宿っていた。
石床が砕ける凄まじい音に、使者は悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
ジギスムントの影は、今や部屋の天井まで届く巨大な獣の顎のように広がり、使者の頭上を威圧的に覆っている。
王都の権威という盾を持っていたはずの男の顔は、瞬く間に土色へと変わり、額からは脂汗が滴り落ちた。
「な、何を……! 私は陛下の名代として……! その奴隷を改める権利が……」
「権利だと? 勘違いするな」
ジギスムントは静かに、だが確実な殺意を込めて一歩踏み出した。
軍靴が石床を踏む音が、死の秒読みのように響く。
彼は使者の襟首を掴み上げると、その顔を己の瞳の至近距離まで引き寄せた。
深淵のような漆黒の双眸が、男の魂を直接凍りつかせる。
「この地はヴァレル、私の領土だ。ここでは陛下の言葉よりも、私の意思が優先される。そして、この女は私の『私有物』だ。王都に返す理由など、どこにもない」
「し、しかし……書状には……!」
「黙れ。回収などという言葉を二度と口にするな。……陛下にはこう伝えろ。この道具は私が気に入った。調律も交換も不要だとな。もしこれ以上に首を突っ込むというのなら、次は影ではなく、私の軍勢を王都の門へ派遣することになるだろう」
それは明白な反逆の宣言に近い言葉だった。
ジギスムントはゴミを捨てるように使者を放り出すと、冷徹な視線で扉を指し示した。
「二刻以内に、この領地から立ち去れ。それ以上留まれば、貴様の首を王都への返礼品にする」
使者は腰を抜かし、這々の体で執務室から逃げ出した。
ベルンハルトが深々と一礼し、音もなく扉を閉める。
激しい怒りの波動が去った後、部屋には不自然なほどの静寂が戻った。
ジギスムントは荒い呼吸を整えようと背を向けたが、その拳は依然として強く握りしめられたまま、怒りに震えていた。
使者が逃げ去った後の静寂は、重く、そしてどこか痛々しかった。
ジギスムントは窓の外の荒涼とした雪原を見つめたまま、しばらく身動きもしなかった。
彼の背中からは、先ほどまでの荒れ狂うような影の気配が消え、代わりに底知れない孤独が滲み出している。
「…………」
エルセは、震える足取りで彼の背後に歩み寄った。
王都に牙を剥くことが、彼にとってどれほどの危うさを伴う決断であるか、彼女には痛いほど解っていた。
自分のために、彼は破滅の種を蒔いたのだ。
彼女はそっと手を伸ばし、彼の黒いシャツの裾に触れた。
言葉にできない謝罪と、そして彼が示してくれた「独占」という名の救いへの想いを込めて。
ジギスムントがゆっくりと振り返った。
その瞳は、怒りの名残で微かに充血していたが、エルセを見つめる眼差しには、隠しきれない困惑が混じっている。
彼はエルセの細い手を、大きな掌で包み込んだ。
「……王都へ戻りたいか」
低く、試すような問い。
しかし、その声は微かに震えていた。
もし彼女が肯けば、自分は彼女を無理やり繋ぎ止めるのか、それとも——。
エルセは激しく首を横に振った。
あんな冷酷な人々がいる場所へ戻るくらいなら、ここで名もなき奴隷として、この孤独な死神の傍らで朽ち果てる方が、どれほど救いになるだろう。
「……そうか。ならば、もう二度と私に背くな」
ジギスムントはエルセを強く引き寄せ、その額を自分の胸に押し当てた。
鉄の匂いが微かに残る彼の胸板から、力強い、しかし早鐘を打つような鼓動が伝わってくる。
「貴様が誰であれ、ここで何を見ようとも、私は貴様を手放さん。……たとえ、この地が焦土になろうとな」
それは、主従の誓いよりもずっと重く、深い呪縛のようであり。
同時に、凍てついた世界で二人が見つけた、唯一の温もりのようでもあった。
その夜、黒鉄城を包む月光は、透き通るような青白さを湛えていた。
王都の使者が去った後、ジギスムントは異様なほど静かだった。
寝室の暖炉では薪が爆ぜる音だけが響き、彼は愛用の安楽椅子に深く身を沈め、目を閉じている。
だが、その眉間の皺は深く、浅い呼吸は彼が再び「死者の叫び」の淵に立っていることを示していた。
エルセは、彼の足元に敷かれた厚手の絨毯の上に、静かに膝を突いた。
喉の枷は、彼女が意思を持とうとするだけで仄かに熱を帯びる。
しかし、昼間に彼が見せた、自分を守るためのあの凄まじい怒りと、その裏側にあった脆いまでの孤独を思い出すと、彼女の胸には切ないほどの熱が込み上げた。
(何かを……返したい。声ではない何かで)
彼女はそっと手を伸ばし、ジギスムントの強張った膝の上に、自らの柔らかな掌を重ねた。
ジギスムントが、僅かに目を開ける。
暗がりのなか、二人の視線が静かに重なった。
エルセは微笑む代わりに、彼の手に包まれていた薬草の残り香を吸い込み、瞑想するように瞳を閉じる。
彼女は声を出す代わりに、自らの鼓動を、指先の熱を、一定の「リズム」として彼に伝えた。
それは旋律以前の、命が刻むもっとも根源的な音。
彼女の内に秘められた王家の血が、枷の隙間から漏れ出る僅かな魔力と共鳴し、部屋の空気を優しく揺らす。
ジギスムントの荒い呼吸が、次第にエルセのリズムに重なり、穏やかになっていく。
彼は何も言わず、エルセの手を、壊れ物を扱うような慎重さで握り返した。
「……不思議な女だ。貴様の傍にいると、あの忌々しい亡霊どもの声が、遠のいていく……」
ジギスムントの低く掠れた声が、心地よくエルセの髪を揺らした。
彼は、彼女の手を引き寄せると、その掌に自らの唇を静かに落とした。
それは支配の証ではなく、深い闇の底で見つけた一筋の光を、慈しむような仕草だった。
暖炉の火影が、ジギスムントの横顔に深い陰影を落としていた。
彼はエルセの手を握ったまま、視線を揺れる炎へと移す。
その瞳には、戦場での冷酷な輝きはなく、ただ遠い過去の残像を見つめるような、虚無的な色が宿っていた。
「……この『影』は、私が望んで手に入れたものではない」
唐突に紡がれた告白。
ジギスムントは自らの左手を見つめた。そこから立ち昇る薄い黒霧が、蛇のように彼の腕を這い回っている。
エルセは息を呑み、彼の言葉を一言も聞き漏らさぬよう、その場に静かに佇んだ。
「ヴァレル家は代々、この北の地で国境を護る『盾』だった。だが十年前、王都の魔導師たちが私を実験体に選んだ。死者の魂を魔力に変え、実体化させる——禁忌の術のな」
彼の声は、乾いた砂が擦れるように冷え切っていた。
一国の辺境伯という地位にありながら、その実態は、王家が作り出した最強にして最悪の「生体兵器」だったのだ。
戦うたびに敵の断末魔を影が喰らい、その怨念がジギスムントの精神を内側から食い破っていく。
彼が夜ごとに悪夢にうなされるのは、彼の魂が、彼自身が殺めてきた数千の亡霊たちに常に晒されているからだった。
「救いなどない。この影が私の理性を食い尽くしたとき、私は本物の化け物となり、王都に牙を剥く。……それこそが、私を道具に仕立て上げた連中の狙いなのだ」
ジギスムントは自嘲気味に笑い、エルセの手を離した。
己の醜悪な真実を暴き、彼女が恐怖に震えて逃げ出すのを待っているかのような、痛々しい拒絶の仕草。
だが、エルセは退かなかった。
彼女は逆に、その震える彼の手を両手で包み込み、自分の胸元へと引き寄せた。
貴方だけではない。自分もまた、声を奪われ、道具として売られた。
形は違えど、二人は同じ檻の中に閉じ込められた、孤独な共犯者なのだ。
エルセの瞳から一筋の涙が溢れ、ジギスムントの手に落ちた。その雫は、影の冷たさを打ち消すほどに、温かかった。
手の甲に落ちた一滴の雫。それがエルセの涙だと気づいた瞬間、ジギスムントの身体が、まるで強烈な電撃を受けたかのように硬直した。
戦場で血の雨を浴びても眉ひとつ動かさなかった男が、自分を哀れむ少女の、たった一筋の涙に激しく動揺していた。
「……泣くな。なぜ、貴様が泣く」
彼は慌てて手を引き抜こうとしたが、エルセはそれを許さなかった。
折れそうなほど細い指が、必死に彼の無骨な掌を繋ぎ止めている。
ジギスムントは、言葉にならない彼女の叫びを聴いたような気がした。
自分は道具ではない、貴方も怪物ではない。ただ、傷ついたひとりの人間なのだと、彼女の瞳が、体温が、必死に訴えかけてくる。
「…………」
ジギスムントの喉が、熱い感情を飲み込むように動いた。
彼は不器用極まりない手つきで、エルセの濡れた頬に指を添えた。
人を殺めるために鍛え上げられたその指先が、今は彼女の涙を拭うためだけに、震えながら動いている。
彼はそのまま、エルセの華奢な頭を、吸い寄せられるように自分の肩へと引き寄せた。
鎧を脱いだ彼の身体は、驚くほど温かかった。
エルセは彼の胸に顔を埋め、彼の心音が、ゆっくりと自分の鼓動と重なっていくのを感じた。
影の呪いも、首輪の痛みも、この瞬間だけは遠い世界の出来事のように思えた。
「……私は、貴様のような脆いものを守る術を知らぬ」
ジギスムントは、彼女の背中に回した手に力を込めた。
その抱擁は、あまりに強引で、しかし壊れ物を慈しむような切実さに満ちていた。
「だが、もし貴様がこの地獄に留まると言うのなら……。この影が私を飲み干すその時まで、貴様だけは誰にも触れさせん。誓おう」
それは、神に背き、王に背いた男が、ただひとりの奴隷に捧げた、生涯で最も純粋な誓約であった。
暖炉の火が静かに爆ぜ、二人の影を寝室の壁に大きく、重なるように映し出していた。
ジギスムントの腕の中で、エルセはこれまでにない安らぎを感じていた。
それは、王都の華やかな宮廷でも得られなかった、命そのものを認められた者だけが享受できる静謐な温もりだった。
彼の低い鼓動が、彼女の耳に心地よい子守唄のように響き、いつしかエルセは深い眠りへと誘われていく。
ジギスムントは、腕の中で規則正しい寝息を立て始めたエルセを、愛おしそうに見つめた。
彼女の喉元の「枷」は、月光の下で鈍く、不気味に光っている。
彼はその冷たい金属に指を触れ、いつか必ずこれを、自らの手で砕き散らすことを固く心に誓った。
彼女をただの道具としてではなく、一人の女として、自らの光として傍に置くために。
だが、その安らぎを切り裂くように、窓の外の闇が蠢いた。
月光が雲に遮られた一瞬。
黒鉄城の切り立った外壁を、音もなく這い上がる複数の影があった。
それはジギスムントの操る「影」とは異なる、物理的な質量を持った殺意の塊——王都が放った暗殺者集団「鴉の爪」であった。
使者を追い払ったことで、王都は辺境伯の反逆を確信し、実力行使に出たのだ。
「…………!」
ジギスムントの瞳が、獣のような鋭さで開かれた。
微かな金属音。そして、殺気が大気を震わせる。
彼は眠るエルセを起こさぬよう、慎重に、かつ迅速に彼女を寝台へと移すと、壁に掛けられた漆黒の剣へと手を伸ばした。
静寂の夜は終わりを告げ、城は再び血の宴へと誘われようとしていた。
扉の向こう、廊下の闇から、一筋の細い刃が音もなく差し込まれる。
ジギスムントの背後で、再び「影」が、今度は敵を殲滅するための禍々しい翼を広げ始めた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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