第三章:戦慄の死神
ヴァレル領の冬は、時に時を止める。
城壁の外では吹雪が猛威を振るい、視界のすべてを白銀の絶望で塗り潰していた。
この閉ざされた「黒鉄城」の中で、エルセの生活は奇妙な静謐さを帯び始めていた。
側仕えとしてジギスムントの身辺を整え、夜はその悪夢を鎮めるために自らを削る。
それが、奴隷として、そして「隠された王女」としての彼女に与えられた、唯一の生存の形だった。
その日の朝、城内に重苦しい緊張が走った。
北の国境を越え、略奪を繰り返す異民族の軍勢が迫っているという報が届いたのだ。
ジギスムントは軍装に身を包み、漆黒の胸当てが朝の冷たい光を鈍く跳ね返している。
その姿は、まさに戦場に君臨する「死神」そのものであった。
「……留守の間、この部屋から一歩も出るな」
出陣の間際、ジギスムントはエルセの細い手首を掴み、釘を刺すように言った。
彼の掌は驚くほど熱く、戦いを前にして昂ぶる魔力が、その肌の下で脈打っているのが伝わってくる。
エルセは無言で深く頭を下げ、彼の無事を祈るように、大外套の裾を握りしめた。
「返事もできぬか。……まぁいい。貴様を汚されるのは、二度と御免だ」
ジギスムントは冷たく言い放つと、エルセを突き放すようにして部屋を後にした。
重厚な扉が閉まり、巨大な鍵が回される音が響く。
静まり返った室内で、エルセは一人、窓の外を見つめた。
遠く、城門が開く音が聞こえ、黒い影の軍団が雪原へと消えていく。
数刻が過ぎた頃、エルセは胸の奥にざらついた感覚を覚えた。
それは「音」を司る血筋ゆえの直感か。
静寂を裂いて、城の下層から、金属が擦れるような、不吉な響きが伝わってきたのだ。
主が不在の城。
そこは、ジギスムントの威光に怯えていた「獣たち」にとって、絶好の狩り場と化していた。
雪原は、朱く染まっていた。
城から数里離れた国境付近。ジギスムントが愛馬を駆り、戦場のただ中に躍り出ると、そこには阿鼻叫喚の地獄が広がっていた。
襲撃してきた異民族の兵たちが、彼を囲もうと一斉に槍を突き出す。
だが、ジギスムントが漆黒の剣を抜いた瞬間、彼の背後から「影」が爆発的に噴き出した。
「……塵に還れ」
低く、慈悲のない呟き。
実体化した影は巨大な鎌となり、触れるものすべてを音もなく両断していく。
それは武勇と呼ぶにはあまりに異質で、神話に語られる死神の所業そのものであった。
返り血を浴びても、彼の表情は氷のように微動だにしない。
ただ、彼の内側では、力を解放した代償として「死者の叫び」が津波のように押し寄せ、精神を鋭く削っていた。
一方、静まり返った黒鉄城。
ジギスムントの寝所の扉の外で、複数の足音が止まった。
ガチャリ、と予備の鍵が回される音が響き、エルセは弾かれたように立ち上がった。
「閣下がお出ましだっていうのに、ここだけは平和なもんだな」
現れたのは、先日ジギスムントに制裁を加えられた将校の仲間たちだった。
主不在の間に、私怨を晴らそうというのだろう。
彼らの手には酒瓶があり、濁った瞳はエルセの細い身体を卑猥に突き刺した。
「おい、王都の王女様だかなんだか知らねえが、閣下があれほど執着する理由を教えてもらおうか」
男たちがにじり寄る。
足枷の鎖がジャラリと鳴り、エルセは背後の壁に追い詰められた。
逃げ場はない。助けを呼ぶ声も出せない。
エルセは震える手で、服の合わせ目を強く握りしめた。
喉元の「枷」が、彼女の恐怖と怒りに呼応して、警告するように熱を持ち始める。
「声が出ねえなら、その分、身体で楽しませてくれよ」
一人の男が手を伸ばし、彼女の細い首にかけられた鎖を乱暴に掴み上げた。
首の鎖を強く引かれ、エルセの身体が前方にのめった。
男の汚れた顔が目前に迫り、酒の腐ったような臭いが鼻を突く。
恐怖で心臓が喉を突き破りそうだったが、エルセの脳裏には、昨日ジギスムントが残した言葉が鮮烈に蘇っていた。
——『次に貴様を襲う者がいれば、迷わずその喉を突き立てろ』。
(私は、ただ奪われるだけの道具ではない……!)
エルセは震える手で、胸元に隠し持っていた「あの石の破片」を握りしめた。
男が嘲笑いながら彼女の肩に手をかけた瞬間、エルセは一切の迷いを捨てて地を蹴った。
彼女は華奢な身体を捻り、全体重を乗せて、男の無防備な手の甲へ鋭い石の角を叩きつけた。
「ぐああああっ!」
肉を割く鈍い感触と共に、男が悲鳴を上げて後退する。
鎖を掴んでいた手が緩んだ隙に、エルセは死に物狂いで重い鎖を振り回した。
鉄の輪が空を切り、もう一人の男の頬を強かに打つ。
「この、出来損ないの奴隷が……! 殺してやる!」
男たちの顔から余裕が消え、剥き出しの殺意へと変わった。
一人が腰の短剣を引き抜き、冷たい刃をエルセに向けて突き出す。
エルセは喉を焼き切るような首輪の激痛に耐えながら、必死に後退した。
声を上げれば死ぬ。魔法を使えば正体がバレる。
それでも、彼女は膝を屈しなかった。
彼女は部屋の隅にある重厚な燭台を倒し、火のついたままの蝋燭を男たちの足元へ投げつけた。
燃え広がった絨毯の炎が、一瞬だけ男たちの動きを止める。
そのわずかな空白の時間に、エルセは喉元の苦しさを無視し、肺にある限りの空気を溜め込んだ。
歌うのではない。叫ぶのでもない。
ただ、自らの命を「振動」へと変え、床を通じて相手の三半規管を揺さぶる「不可聴の音」を放った。
首輪の針が肉を突き破り、口内に熱い血が溢れる。
しかし、その目に見えない衝撃波は、男たちの平衡感覚を奪い、その場に崩れ落ちさせるには十分だった。
床を伝う不可聴の振動に、男たちは耳を抑えてうずくまった。
エルセは口内に広がる鉄錆の味を飲み込み、血の混じった荒い息を吐き出す。
喉元の「枷」は、禁忌の力に触れた彼女を罰するように、赤黒い熱を放って肌を焼き続けていた。
それでも彼女は、倒れた燭台の鋭い脚を武器として掴み直し、必死に立ち上がる。
「な、何をしやがった……。この、化け物め……!」
男の一人が千鳥足で立ち上がり、憎悪に満ちた目で短剣を構え直した。
平衡感覚を失いながらも、その殺意はより執拗に、鋭く研ぎ澄まされている。
エルセは背後に燃え広がる炎の熱を感じながら、静かに覚悟を決めた。
その瞬間。
重厚な扉が、内側から爆発したかのような衝撃と共に吹き飛んだ。
木片が弾け飛び、部屋にいた男たちがその余波で壁に叩きつけられる。
土煙と煙が渦巻く入り口に立っていたのは、返り血で漆黒の軍装を深紅に濡らした「死神」であった。
「——誰の許可を得て、私の部屋を戦場にしている」
ジギスムントの声は、吹雪よりも冷たく、そして地底のマグマよりも熱い怒りを孕んでいた。
戦場から異様な速さで駆け戻ったのであろう彼の身体からは、まだ制御しきれない「影」が、巨大な翼のように背後に広がっている。
彼が部屋に一歩踏み込むと、周囲の炎が恐怖したかのように一瞬で鎮まった。
ジギスムントの視線は、床に転がる男たちを通り越し、血を流して武器を構えるエルセへと注がれた。
「…………っ」
エルセの手に握られた燭台が、指の隙間から滑り落ちた。
緊張の糸が切れ、崩れ落ちようとする彼女の身体を、影よりも速く動いたジギスムントの腕が抱きとめる。
鉄の匂い。血の匂い。そして、凍えるような冬の風の匂い。
「貴様ら……死に場所を自分で選べなかったようだな」
彼が指先を僅かに動かした瞬間、部屋中の影が鋭い槍へと変貌し、男たちの喉元を寸前で捉えた。
ジギスムントの瞳からは、もはや人間らしい理性すらも剥落していた。
戦場で解き放たれた「死神」の力は、主の怒りに呼応して黒鉄城の空気を物理的に圧縮し、男たちの肺から酸素を奪い去る。
エルセを抱き寄せたまま、彼は空いた左手を、見えない何かに触れるようにゆっくりと広げた。
「ひ……っ、ぎあぁぁ!」
床に這いつくばっていた男たちを、実体化した影が生き物のように捕らえた。
それは単なる拘束ではない。影は男たちの皮膚の下、血管や神経の隙間にまで侵入し、内側から肉をこじ開けるように蠢いている。
ジギスムントは無表情のまま、その指をゆっくりと握り込んだ。
「私の不在を狙うとは、ヴァレル領の兵としてこれ以上の恥辱はない。貴様らの命で、この床の汚れを拭うがいい」
彼が指を弾くと、影の槍が男たちの四肢を貫き、壁へと縫い付けた。
骨が砕ける不快な音が響く。
絶叫は影の触手によって喉の奥へ押し戻され、男たちは声も上げられぬまま、絶え間ない激痛の螺旋へと突き落とされた。
ジギスムントはさらに影を鋭利な千枚通しへと変え、男たちの意識が飛ばぬよう、急所を外しながら肉を削ぎ落としていく。
「閣下……! お、お助け……」
一人が命乞いをするように震える手を伸ばすが、ジギスムントの影がその指を一つずつ、無慈悲に刈り取った。
慈悲など、この「死神」の辞書には存在しない。
彼の怒りは、エルセという「道具」を侵そうとしたことだけではなく、自分自身の守るべき領域を汚されたことへの、絶対的な拒絶であった。
凄惨な制裁が続く中、エルセは彼の胸元で、その荒々しい鼓動を直に感じていた。
男たちの血が床を濡らし、部屋には鉄錆の臭いが充満していく。
ジギスムントは、地獄の業火で焼かれる亡者を見つめるような冷徹な瞳で、最期の一撃を加えようと右手を振り上げた。
影の槍が男たちの心臓を貫こうとしたその瞬間、ジギスムントの腕の中で、エルセの身体が力なく折れた。
彼の軍装に触れていた彼女の指先が滑り落ち、白い絹の長着には、自らの喉から溢れた鮮血が不気味な花を咲かせている。
ジギスムントの動きが、凍りついたように止まった。
「……女?」
彼は男たちへの興味を即座に失い、腕の中の華奢な獲物を抱き直した。
エルセの顔は土色に変色し、呼吸は浅く、途切れがちだ。
何より彼を驚かせたのは、彼女の喉元の「枷」が、内側から発せられた異常な魔力の余波で、ひび割れんばかりに脈動し、彼女の肌を焼き焦がしている光景だった。
「貴様、何をした……。あれほど声を出すなと言ったものを」
ジギスムントの声に、初めて動揺が混じる。
彼は壁に縫い付けられた男たちに一瞥もくれず、背後の影を霧散させると、エルセを抱えたまま血溜まりの中を歩き出した。
男たちは影の消失と共に床へ崩れ落ちたが、もはや立ち上がる力など残っていない。
彼はエルセを無造作に寝台へ横たえると、自らの手で彼女の喉元に手を添えた。
「枷」から放たれる拒絶の熱が彼の掌を焼くが、ジギスムントは眉一つ動かさず、その魔力の暴走をねじ伏せるように己の「影」を流し込む。
「おい、目を開けろ。私の許しなく死ぬことは許さん」
不器用で、しかし悲痛な響きを帯びた命令。
エルセは意識の混濁した中で、自分を呼ぶその低い声を聴いていた。
彼は「死神」だ。多くの命を奪い、血に塗れた手を持つ男。
それなのに、今彼女の頬に触れるその指は、かすかに震えているように感じられた。
エルセは薄く目を開け、視界の端で揺れる彼の黒い瞳を見つめた。
その瞳に映っているのは、支配者としての傲慢さではなく、大切な何かを失おうとしている一人の男の顔だった。
深夜、ジギスムントの寝所は、薬草の苦い匂いと、張り詰めた沈黙に支配されていた。
彼は城付きの医官を呼びつけることさえせず、自らの手でエルセの治療を続けていた。
奴隷の治療に時間を割くなど、本来の彼であれば考えられないことだ。
しかし、彼はエルセの喉元に刻まれた「枷」の異常なひび割れと、そこから漏れ出る、かつて知るはずのない清浄な魔力の残滓に、拭い去れぬ疑念を抱いていた。
「……王都の貢物だと思っていたが、貴様、何者だ」
ジギスムントは独りごとのように呟き、濡らした布で彼女の唇にこびりついた血を拭った。
エルセは深い眠りの中に沈んでいたが、その眉は苦痛に歪み、時折、震える指先が何かを求めるように宙を彷徨う。
彼女が示したあの「不可聴の振動」は、訓練された詠唱魔導士でも困難な、高度な魔力操作の結末だった。
ただの奴隷に、そのような芸当ができるはずがない。
彼はエルセの白い首筋に触れ、脈動を確かめた。
指先に伝わるドクドクという鼓動は、か細くも確かに、生への執着を刻んでいる。
その時、エルセがうわ言のように、声を伴わない息を漏らした。
「…………っ、……あ……」
彼女の唇が動く。それは、昨夜彼を悪夢から救った、あの旋律の形をなぞっていた。
ジギスムントの胸の奥で、氷が割れるような鋭い衝撃が走った。
彼女は自分を守るために、声を出せば己の喉を焼き切る「枷」の罰を受けながらも、その禁忌を犯したのだ。
彼は自嘲気味に口角を上げた。
多くの者に命を狙われ、畏怖されてきた自分を、名もなき奴隷が身を挺して救おうとした。
その歪な献身が、彼の凍りついた心を、剥き出しの熱で溶かしていく。
「……馬鹿な女だ。そんなことのために、命を捨てるなと言ったものを」
ジギスムントはエルセの細い手を握りしめた。
その掌は驚くほど小さく、冷え切っていた。
彼は己の魔力を「影」としてではなく、温かな熱として彼女の体内に流し込み、その冷たさを拒絶するように強く抱きしめた。
窓の外で荒れ狂っていた吹雪が止み、雲の切れ間から冷徹な月光が差し込んだ。
エルセは、深い意識の底からゆっくりと浮上した。
喉元を支配していた灼熱の痛みは、今は鈍く重い痺れへと変わっている。
目を開けると、視界に映ったのは見慣れた天蓋ではなく、すぐ間近にある漆黒の軍装と、自分を包み込む力強い腕だった。
「…………っ」
驚きに息を呑もうとしたが、喉が鳴るよりも早く、ジギスムントの大きな掌が彼女の頬を優しく覆った。
彼は寝椅子に座ったまま、エルセを抱きかかえるようにして夜を明かしたのだろう。
その瞳には、かつての冷酷な光だけでなく、言葉にし難い複雑な色が揺らめいていた。
「……目覚めたか。勝手に死ぬことは許さんと、言ったはずだ」
低く掠れた声。
ジギスムントはエルセをゆっくりと離し、彼女の瞳を真正面から見据えた。
エルセは震える手で自らの喉元に触れた。
「枷」は依然としてそこにあるが、ジギスムントが流し込んだ魔力によって、内側の針はその牙を潜めている。
彼女は何も言えず、ただ、目の前の男が自分を救ってくれたという事実に、目元を熱くした。
彼女はゆっくりと、傷ついた指を伸ばし、彼の血に汚れた胸当てに触れた。
言葉は出ない。けれど、その指先の震えは、彼への感謝と、彼が背負う孤独への共鳴を伝えていた。
ジギスムントは鼻で笑い、彼女の指を無造作に握りしめた。
「貴様が何者であれ、今は私の奴隷だ。……だが、私の眠りを守る権利だけは、貴様に預けてやる」
それは、誇り高い死神が口にできる、精一杯の譲歩であり、信頼の証だった。
エルセは微笑む代わりに、彼の掌にそっと頬を寄せた。
この城は依然として冷たく、過酷な運命が二人を待ち受けているだろう。
それでも、月明かりの下で重なり合う二人の影は、昨夜よりもずっと、静かで確かな熱を帯びていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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