玖
高氏は翌朝早くに屋敷を発った。
前日より更に早く起きた高国が見送るのを、シイは屋敷の屋根に登ってひっそりと見ていた。
朝から屋敷の中は騒がしくて、皆忙しそうにしていた。その内ぞろぞろと沢山の人が出て行って、門の所から見送る者、見送られる者が並ぶ。
シイが知っている村の人より多いんじゃないかと思う人数で、しかも、そのほとんどが刀を差した武士だった。村にいると、武士に会う事も稀だったくらい、偉い人達だ。
その先頭に高氏とその父親という「おやかた様」という人がいる。やっぱり、高氏は偉そうなだけあって、本当に偉い人みたいだった。
名前も沢山あるし。
シイはそのまま、青い空を見上げた。正直、高氏の事は興味がない。
秋は空が高くて、雲の形がすごく面白い。
「あー、ふわふわぁ」
昨日食べた魚も、食べるとああやってほろほろして——考えたら、涎が垂れてくる。
「シイ——?」
名を呼ばれて、シイは飛び起きた。高国の声だ。
慌てて涎を拭って屋根から飛び降りた。
目の前に降りてしまったから、高国が驚いた顔をしている。
「——屋根の上にいたのか」
「うん」
「屋根は……」
高国が言い淀んだ。人は普通屋根には登らない、と言おうとして、やめた。
「危ないだろう」
シイは首を傾げた。くりくりとした目が、不思議そうに丸められる。
「あぶなく、ないよ?ぼくね、きのぼりもできるから」
4歳で、こんなに木登りができるのはすごいんじゃないかな。他の4歳を知らないけど、ばあちゃんはすごいね、って言ってくれたから。
シイは胸を張った。
「ぼく、きのみも、みつけるのじょうずだよ」
地面に落ちた木の実はすぐに他の獣に食べられてしまう。椎の実だって、落ちそうで落ちないくらいの実が一番美味しいんだ。
「そうか」
シイがあまりに得意げで、それ以上言えなかった。
歯切れが悪かったのを別の様子に受け取ったのだろうか、シイが心配そうに見上げてきた。
「あにうえがいなくて、さみしい?」
「え?」
「かぞく、いないのは、さみしいでしょ?」
シイはそう言って、ぎゅっと高国の手を握った。
「さみしいのは、くるしいもん……」
小さな手が高国の手につながれる。小さいのに、傷だらけの手だった。
「シイも、さみしかったの?」
「うん。ぼく……どうしても、ひとりは、むずかしいみたい」
その言い方が切実で。
ただ、寂しくて人里を求めてきたのだろうか、と思えた。
そもそも出会った時も罠にかかって、放っておけば死んでいたかもしれない。そんなか弱い存在だ。
「朝餉を食べたら、出かけようか」
「——えっ、どこに!?」
高国が教えてくれるのは、いつも美味しい事と楽しい事ばかりだから、シイは一気に元気を取り戻した。
「農家に」
「のうか……たんぼ?」
もう収穫も終わって、農民は冬支度を始めている。いったい何の用事があるのだろうか。
「私は今年の収穫の出来栄えを見に行くんだ。今はちょうど麦の種をまいている頃だろうから、見ると楽しいかもしれない。一緒に来るか?」
「むぎ……たんぼはおやすみじゃないの?」
シイの見たことのある田んぼは、冬の間はただの空き地だった。雪が積もると一面真っ白い平らな雪原で。
「初夏から秋にかけては稲を育て、秋から初夏にかけては麦を育てるんだ。そうすれば食料が倍、手にできるだろう」
「へえ……」
人はいつも、次々に思いつく。魚獲りもそうだし、そんなに賢いから、他の獣よりも数を増やしているんだろうか。
「すごいなあ。ぼくもじぶんで、そだてられたらいいけど……」
作物の育て方を勉強したら、飢えなくなるだろうか。そう思ったシイだったが、すぐに無理だなと思う。
米や麦だけでは腹は膨れないだろうし、作れたとしても他の獣に奪われて終わりそうだ。そもそも畑を持っていない。
「シイは農民になりたいのか?」
「ううん」
シイは首を振った。
悶々と考えている様子のシイを見ていると、何となく、高国にはシイが考えていることが分かるような気がした。
「——人にはそれぞれ、その人の役割というものがある」
「やく……?」
「私が鍬を持たずに筆を持つように。シイにも、シイの役割がある。今はシイはまだ子供なんだから、働くことを考えずに、ここでお腹一杯になって、遊んでいたらいい」
だから朝餉を食べよう、と言ったのと、使用人がお膳を持って来るのが同じだった。
朝餉を食べたら、高国はシイを連れて屋敷を出た。
屋敷の近くにはたくさんのお屋敷や家が立ち並んでおり、市場にも道がつながっている。そっちの方は人が多くてシイは少し気後れしたが、そちらには向かわなかった。市場と反対方向に歩いて行くと、すぐに広大な田畑が広がっていた。その一角に、農民の家がある。
高国が訪れると、その家の住人らが深く頭を下げていた。
時々訪れているようだ。軽く挨拶をしたら家に招き入れられた。と言っても、屋根はあっても床は土間でできている、質素な小屋のような家だった。
主人が壺を持ってきて、高国に見せている。ツボの中にはまだ精米していない米が入っていた。
「——今年はどうだった」
高国は聞きながらその米を確かめるように手のひらに乗せ、まじまじと見つめた。
「へえ。例年通りに、納めさせていただけるかと……」
「改良した方法だと——」
「それでしたら、夏が比較的涼しかったので、元のと比べると——」
高国と農家の主人は難しい話をし始めた。
シイは退屈して家の外に出た。
田んぼでは数人の農夫らが、畑に種を蒔いていた。これが高国の言っていた麦かと思って、その様子を見つめる。手慣れた様子で作業する人々の中にはシイより少し大きいくらいの子供もいた。大人に混じって、一生懸命種を蒔いている。
あれくらいちゃんと働けたら、家族の一人になれるのかな。
シイは急に、どこにも所属していない宙ぶらりんの自分がひどく頼りなく思えた。
何の役にも立たないシイは、いつ高国の所を追い出されてもおかしくない。そうしたらまた一人。何もできない自分は、一人で生きていくしかない。
「シイ」
膝を抱えていると声を掛けられる。振り返って見上げると高国が藁を持っていた。
「収穫後の藁を貰った」
「ねどこ、つくるの?」
高国の部屋には藁がないから。そう思ったら、高国は少し目を丸めて、それからふっと笑った。
「寝床じゃないよ。草履を編んでやろうかと思って」
「ぞうり……」
シイは高国の足元を見た。高国は今日は沓をはいているが、屋敷の中では草履を履いている。他の農民たちも皆、藁で編んだであろう草履をはいていた。シイだけが素足だ。
人が藁で草履を編んでいるのは知っている。面白そうで草を使って真似してみたけど、ちっともうまく編めなかった。
「足袋を履いたり沓だと窮屈だろうけど、草履なら気軽に履けるかと思って。そうしたら、足が汚れないだろう?」
「たかくにさま、つくれるの?」
シイは目を輝かせた。
裸足でも特に不自由はないし、むしろ木登りや駆け回るのには裸足の方が便利がいい。
けれど、人間はみんな草履をはいているから。同じように履いてみたいと思っていたんだ。
「できるよ。シイの足に合わせて作ろうか」
そう言って高国は、おいで、と言ってその場に座り、手招きをした。
シイがぴょんと近づくと、そのまま膝の上に乗せる。
「足を伸ばしてごらん」
言われた通りに両足を伸ばすと、シイの足の親指に紐をひっかけた。何が始まるんだろうと思って見ていたら、慣れたしぐさであっという間に草履を編み始めた。
「わ、わ、——っえ、どこ、どうなってるの?」
手が早すぎて、何がどうなっているのか分からなかった。ただの藁が、あっという間に草履の板状になっていく。
「いいかい、ここを、こうやって——上を通して、次に下へ」
「わあ……」
「やってごらん」
高国が丁寧に教えてくれるから、シイも藁を編みこんで作ることができた。ただ、シイの手は小さくて、高国のように藁を上手にまとめて持てない。すぐにばらばらと落ちそうになるのを、高国が一緒にもって手伝ってくれた。
あっという間に、シイの足にぴったりの草履が出来上がった。
履いてみると、少し変な感じだ。
変な感じなのに、嬉しくて、顔がにやにやと緩む。
また作れと言われても一人では難しいだろうけど。
「——ありがとう、たかくにさま!ぼく、たいせつにするね」
「うん。またいくらでも作ってあげるから」
素足と違って、草履を履くと足がぽかぽかと温かく感じた。
シイは何度も踏んだり跳ねたりして、その感触を確かめていた。




