陸
離れに戻った高国は寝床の着物をそっとめくってみた。
まだ寝ているのかと思ったのに、そこはもぬけのからだった。
帰ったのだろうか。
兄とあんな話をした後だから、やはり化かされていたのかと思う。
寝床はまだ温かかった。
「たかくにさま!」
声がして振り返ると、シイは机の下からもぞもぞと出てきた。
「——どうしてそこに」
「だれかきた!って。びっくりして」
高国の足音で咄嗟に机の下に潜り込んだのだという。
「朝餉が来るから、一緒に食べよう」
「あさげ……あさも、ごはん!?」
シイが驚いている間もなく、すぐに朝餉の膳が運ばれてきた。
昨日と同じ白い米に味噌汁、それから塩干しした小魚と漬物。シイが目を輝かせた。
この白い米をシイは初めて食べたけど、本当に美味しかった。甘くてホカホカしていて、噛めば噛むほどに美味しい。
食い入るように見ていると高国がシイの横に膝をつき、目線を合わせた。
「——米が気に入ったのか?」
「あさも、たべられるなんて……」
既に涎が垂れそうになっている。
「朝と夕、しっかり食べて大きくならないとね」
すぐ隣でそう言われて、シイはまた目を丸くした。
「あさと、ゆう……」
それからハッとする。
「そか、ふゆにむけて、いっぱいたべないと!」
「……………」
高国は何と言っていいのかと黙った。幸い、下女はもう立ち去った後だが。
秋の内に食料を貯めることはするが、食べ溜めて脂肪を蓄えるのは森の獣たちだ。冬籠りの類は、人間はしない。
「まあ……秋は、お腹が空くからね」
「うん!」
シイは分かっていないようで、何度もうなずいた。
高国はシイを厠と井戸に案内して顔を洗ってやってから、二人でまた向かい合って朝餉を食べた。
「すごい、さかな……」
シイにも高国にも、3匹ずつ乗っている。食べる作法も順番もなくて、シイはあっという間に小魚を食べてしまった。
それでも、どのご飯もごちそうだ。
白米に手を伸ばそうとしたら、高国の手が伸びた。いつの間にか向かいではなく、隣に座っている。
「これを使ってごらん」
高国の手がシイの手を取って、箸を握らされる。指の一本一本、どこに置いたらいいのか誘導された。
複雑な開き方に指がつりそうになったが、高国の大きな手がシイの手をすっぽりと覆って添えてくれるから、その動きに合わせて箸を持つことができた。
「こうして、挟むんだよ」
そう言って高国は自分のお膳にある小魚を一つ、一緒に箸で取った。
「あっ、それは、たかくにさまの……」
「上手に使ってるから、食べていいよ。ほら、口を開けて」
「あ、あ……」
そんな。高国の物を取るなんて。そう思うのに、高国の手に覆われた自分の手が、魚を挟んで口元まで運んでくる。目の前に来たらついかぶりついてしまった。
「っあ……!たべひゃった!」
しまった。でも美味しい。すごく美味しい。
高国はそのままシイの手を持って白米も何度か食べさせてくれた。
シイが何とか掴めるようになって、離れていく。手が離れるとシイは途端に寂しくなった。
もっと触れていたい。
長らく誰とも触れ合っていなかったシイにとって、久しぶりの人の温もりはたまらなく心地よかった。限界まで渇いていた喉を潤す水のように、極寒の中の焚火のように。
ばあちゃんを思い出す。忘れかけていた、抱き締められるとふわふわする、気持ちいい感じ。
離れて行った高国をじっと見つめていた。
「——そんなに見なくても。ほら、もう一つあげる」
高国がぽん、と小魚をもう一つシイのお皿に入れてくれた。
「——あ!だ、だめ!たかくにさまの、とっちゃだめ」
「いいんだ。私はいつもたべているから」
「いつも……」
シイは驚いて、ぽかんと口を開けていた。
「あんなにすばしこいのに……すごいなあ、にんげんは——あ、ちがう。えと……」
「魚の獲り方を教えてあげようか?」
どう言い訳をしようかと必死になったのに、高国は気にしていないようだった。
聞こえなかったのかな。
シイは胸をなでおろす。
それよりも、魚の、獲り方?
「いいの!?」
それが分かれば、シイでも魚を獲って食べることができるだろうか。
興奮して中腰になった。
「朝の鍛錬が終わったら、連れて行ってあげるよ。だから、ほら、座って食べなさい」
「うん!」
シイは嬉しくなって、ついウキウキと腰を揺らした。
「こら、じっとして食べなさい」
「へへ……うん。——へへ」
返事はしても、まだ揺れている。喜びを隠すことなどできないようだ。本人も無自覚なのかもしれない。
こんなに純粋で感情を隠せない生き物が……意図を持って近づいて来たとは思えなかった。
高国が鍛錬に出かけ行き、昼前になって戻って来るまで、シイはこそこそと人目を避けながら屋敷内を探索した。
本当にたくさんの人が出入りしていて、特に母屋には偉そうな人達が沢山入って行った。
塀に沿って歩いていたらあまり人には出会わないので、建物の影や木に登ったりしてシイは屋敷を見渡していた。
厩があって、馬もたくさんいる。鍛錬場のようなものが遠くにも見えるから、きっと高国はそこで鍛錬しているのだろう。抱き上げられたとき、がっしりとしていた。
シイは自分の腕をにぎにぎと触ってみた。
細くて、ひょろひょろしている。
何とか木には登れるけど、森にいる猿みたいに木から木へ飛び移ることもできないし、狼みたいに崖を飛び降りることもできない。もっと力が付けば、森でも生ききやすくなるんだろうか。
「——あ、魚!」
庭の池の中に、良く太った大きな魚がいる。
あれは……何であそこにあるんだろう。いつでも食べらるように置いてるのかな。
それとも、狩りの練習をみんなでするため……?
シイはそっと池の側に近付いた。
身を屈めて、茂みに隠れながらじっと魚を見つめる。黒くてがっしりとした魚だ。あれを捕まえたら、3日くらいかけて食べれるんじゃないかな。
狙いを定めて……この茂みから一気に飛び込めば、捕まえられるだろうか。
よし……。
「——お前、何してる」
今まさに足で地面を蹴ろうとしたところを、ぐいっと引っ張られた。
「う、わあああ」
びっくりしすぎて変な声が出る。
帯を掴んで荷物のように浮かされた。目の前に紺色が飛び込んでくる。この顔は、高国の——。
「あ、あにうえ!」
高氏はあからさまに不機嫌に眉を寄せた。
「誰が兄だ。俺をそう呼んで良いのは高国だけだぞ。又太朗様、高氏様、大輔さま、又は若様と呼べ」
「なんでそんなに、なまえがあるの」
「偉いからだ」
あっさりと答えられて、へえ、とシイは感心したような声を上げた。
偉いと名前が増えるんだ。
「ぼく、いっこ……」
がんばったら増えていくのかな。高国はどうなんだろう。
そんなことを思っていると、池の魚がすい、と離れて行った。
「あっ、いっちゃった!」
「何だ?魚を見ていたのか」
「うん。れんしゅう」
「練習?何の」
「たかくにさまと、さかなをとりにいく、れんしゅう」
「はあ?」
高氏が大きな声を出した。びっくりしてシイは身を縮める。
この男は高国と違って一々反応が大きいし、すぐに声を荒げるし。乱暴で、今だってまだ帯を掴んだままシイをぶら下げて離してくれない。——嫌いだ。
「は、なして!」
ぶんぶんと体をよじってみても、掴まれた手は全く緩まなかった。
抵抗しようと手足をばたつかせるのに、かすりもしない。
「ははっ、ちびだなあ、おまえ!」
楽しそうに笑われる。——ああ、本当にこいつ、嫌いだ。
「——兄上」
聞こえてきた声に、シイはぱっと顔を明るくした。
高国の声だ。
そう思ったら、ひょいっといつものように抱きかかえられた。
「どうしたんですか。シイが、何か」
「あ、おまえ、こいつと魚取りに行くんだって?」
高国はたくさん汗をかいていた。片手でシイを抱えながら、もう片方の手で、手拭いを持って汗を拭きとっている。いつもの高国の纏う香の香りに汗のにおいが混じっている。
高国の匂いだ。もっとかぎたくなって、シイは高国にしがみつく。
「——あ、ちょっと……シイ、私は汗をかいているから」
離そうとされて、シイは益々しがみつく。
「すごい懐いてるなあ」
高氏が感心したように言う。
確かに、警戒心がないと思ったが、それは高国限定だ。他の者の事は相変わらず獣のように警戒している。ここまで懐かれると情も湧く。一人置いて長い間放っておいたのが可哀想だっただろうか。
「——シイ、着替えて来るから、少し待っていてね?そしたら、一緒に川へ行こう」
優しい声で、耳元で囁かれて、シイはそっと離れた。
「私も行くぞ」
「ええー!?」
高氏の言葉に、シイは不満を隠そうともせず顔を顰めた。
「何だその顔は」
「いひゃ、いひゃい……」
頬をつねられてシイが涙目になる。
「兄上、明日の出立のご準備でお忙しいのでは」
「ちょっとくらい平気だ。川に魚獲りに行くのだろう?そんな楽しい事、私も入れてくれ!」
高国は兄とシイの顔を見比べた。
「仲良くしてくださいね……」
「おう!」
「うー……」
それぞれの反応を返しながら、川へはこの三人で行くことになった。
何故でしょう。
この話を書いていると、
一汁三菜の質素な和の朝食が食べたくなります。




