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翌朝、まだ空が白み始めたころだ。
シイが目を覚ますと、既に高国の姿はなかった。
寝床の中は温かくて、そのままごろごろと微睡んでいた。
この屋敷の人達は、皆早起きみたいだ。もうあちこちで仕事を始めている声がする。
門番の交代の声、訓練だろうか、掛け声のような威勢のいい声。馬の世話をする人達、食事の準備をする人達。
この離れにも下人がやってきて、夜の間に汚れた板間を拭き清めて行った。この日は、いつも掃除をする虫の死骸が一つもない事に首を傾げつつ、明かりを片付けて行った。
「たかくにさま、どこにいったのかなあ……」
この離れから出て探しに行く勇気もなくて、シイはごろごろと畳の上を転がりながら暇をつぶした。
高国は母屋の仏間にいた。
両親へ朝の挨拶をする前に、ここで座禅を組むのが日課だった。
毎朝ここに来れば、兄がいたり、後から来たりする。そのまま一緒に両親に朝の挨拶をして、朝餉をとる。
今日は高国の方が早かった。
「——お、早いな」
座禅を組んでしばらくすると、襖が開いて兄が入ってくる。
濃い藍色の直垂に折烏帽子。今日は家臣との会議があるのだろう、いつもよりもややかしこまった格好をしている。
兄は数年前から、家督を継ぐことが決まっている。元服してすぐに官位を与えられたのも、後継者であるからだ。
兄の名は高氏、同じ高の字を持つ、2つ上の同母の生まれだ。元服前の高国にとっては、急に遠いところに行ってしまったように感じるほど、ここ最近は忙しくしている。それでもこうして兄弟の時間は幼い頃から今もずっと大切にしてくれている。
気易くて大好きな兄だったが、だからこそ、高国は礼節を守ることに気を配る。
高国は組んでいた手を解いて、後ろを向いた。そのまま頭を下げる。
「おはようございます、兄上」
「おはよう」
高氏は隣に来て、仏壇の前に一緒に並んだ。
それからしばらく目を閉じて、瞑想する。朝の清浄な空気を感じ、匂いや音を感じて、そして隣の高氏の存在を感じる。高国に取ってこの時間は、自分がここにいる意味を自覚する、いつも大切な時間だった。
今日はいつもより瞑想の時間を短く切り上げて、高氏が口を開いた。
「あの子供、連れて帰ったんだって?」
「はい」
「お前がそんな世話するなんて、珍しいな」
「そうですか?」
「いっつも、冷静で、感情に流されたりしないだろう?高国は」
「感情に流されたわけでは——流されたのでしょうか」
そう言われると分からなくなる。高氏はおかしそうに笑った。
「知らねえよ。あの生意気そうな子供が気になったんだろ?子供とはいえ、素性のしれない者を入れるなんて、お前らしくないっていうかさ」
確かに、猪突猛進で突き進むのはこの兄の方で、高国はいつもそれを止める役割だった。
けれど、気になったのだ。
くるりとした茶色い瞳がじっと見つめてきて、小さな体なのに、一人で必死で生きて行こうとしている姿が。そして、抱き上げた時の驚くほどの軽さと、自分にしがみつく様子が。
「……あの子供は、しばらく私が面倒を見ようと思います」
「へえ?今日辺り、寺にでも預けるんだと思ってたのに」
「私もそうしようと思っていたんですが……」
「何かあったのか?」
この兄には、いつも何でも相談してきた。
何をするにも一緒で、楽しいことも悲しいことも、一番に共有していた。
ただ、今回のこれは……何と言っていいのだろうか。
高国は昨日の事を思い返した。
髪を洗ってやって、気持ちよくなったシイの頭から、ひょっこりと可愛らしい耳が二つ生えていたのだ。
見間違いかと思ったけれど、触れてみるとその感触は間違いない。しばらくすれば引っ込んで、何事もなかったかのようになった。
それに、魚の食べ方もおかしかった。骨ごとぼりぼりと食べていた。飢えているのならおかしくないのかもしれないが……あの耳を見た後では、それもシイが獣だからかと思う。
一体どういうことなのだろうかと思い、寝床に誘った後に一晩見張ってやろうと思っていた。
妖怪の類で、高国を化かしに来たか、この家に対し何か企みがあるのならば、見極めなくてはと思った。
しかし、シイは無邪気にもあっという間に寝息を立てて熟睡してしまった。毒気のない寝顔に高国も気の緩みかけた、その時——シイはたぬきの姿に変わったのだった。
確かに腕の中で人の形をしていたものが、あっという間に、毛だらけの小さなたぬきに変わっていた。この時期のたぬきは丸々と太っているが、このたぬきはシイと同じく、小さくて瘦せっぽちで。これでもかというくらい体を丸めて、大きなしっぽに顔を埋めていた。
どんな感触なのだろうかと興味本位で撫でてみると、意外にもその毛はふわふわとしてとても気持ちよかった。毛の流れに沿って撫でていると、少しだけ丸まっているのが解けて顔がのぞく。丸い耳が先ほどと同じで、その付け根をよしよしと撫でてみた。
「ん……ばちゃ」
不思議なことに、寝言は人の言葉だった。ただのたぬきというわけではなさそうだった。
人の姿とたぬきの姿、どちらが本来の姿なのだろうか。
「う……うん……」
シイはぶるっと体を震えさせた。
「さむいよう……ばちゃ。おいて、かない……で……」
たぬきの目からぽろぽろと涙が流れた。ばちゃ、ばちゃ、と何度も声にならない声で呼びながら。
「さみし……よぉ……」
高国は着物をかけてやって、自分の懐に抱き寄せた。
くっつくと温かくなって、シイはようやくすすり泣きをやめた。
それでも体の緊張は強く丸まったままで、涙もなかなか止まらなかった。
その後眠りについて、朝方になって微睡みだすとシイはまた人間に戻った。着物を着たたぬきから、普通の幼子に。
高国が起きようと寝床から出ると、きゅっとその裾を掴む手も、小さな子供の手だった。
「——少し用事を済ませて来るから、まだ寝てていいよ」
そっと囁くと、その手も緩む。
「ふあぁい」
——あの様子では、寝ていて覚えていないかもしれない。
野生の獣ではないのだろうか、あの警戒心のなさは。
本人はしっかり化けられていると思っているのだから、まだ半人前の何かが、群れからはぐれて罠にかかったのかもしれない。
あれが害のあるものかどうか、判断がつかなかった。
「——兄上は、化け物って、見たことありますか」
「ええ、なんだよそれ……」
高国が話すのを待っていた高氏は、予想外の相談にびっくりした。
「化け物というか、妖怪……?」
「急に話が変わるなあ。——ないよ。あ、でもこの前、厠に起きた時に火の玉は見た。ゆらゆらーって。私が叫んだの、知らないか?」
「害があるんでしょうか」
「熱くなかったし、今思えば大丈夫なのかも。でも不気味だよなあ」
そうだ。得体のしれないものは、それだけで恐怖の対象になる。
必要以上に警戒することはしたくないが……このまま自分一人で屋敷に置いておいていいのだろうかと迷う。
深刻な様子で考え込む高国を高氏が心配そうに覗き込んだ。
「お前も見たのか?火の玉。そんなに考え込むなんて……。私は明日から鎌倉だから、陰陽寮から誰か連れてこようか?」
「いえ……」
いつの間にか高国が火の玉を見て怯えたようになっている。
高氏はやや早とちりなところがあるので、それは訂正しておかねば。わざわざ陰陽師を連れて来られても、大事になってしまう。
「——明日でしたか、鎌倉行き」
「うん。今回は、父上と二人で行って来るよ。留守を頼むな」
鎌倉にも屋敷があるので、行ったり来たりしている。
今回は高国は留守番だ。いつもはついて行ったり行かなかったりでどうするのか尋ねられるのだが、今回は留守をしろと言われた。
「何がいい?お土産」
鎌倉までは、2日かけて行くことになる。遊びに行く訳ではないのに、高氏はいつもたくさんのお土産を買って帰ってくれる。
その心配りが嬉しくて、高国は少し下がって頭を下げた。
「兄上が無事にご帰還されることが、何よりの土産にございます」
「高国は本当に、欲がないなあ」
高氏は笑って立ち上がった。
朝餉ができたようだった。
仲良し兄弟というのはいいですねえ…
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明日からは隔日投稿を目指します。




