参
離れの部屋は畳が敷かれた一つの部屋だけのようだった。黒塗りの机が置いてあるほかは、壁の書棚にずらりと本が積まれている。他の調度品は一切なく、一見すると質素な部屋のようだけど。
貴重な紙の本がこんなにたくさん積まれているのを、シイは初めて見た。
この人、多分、すごい金持ちだ。
「おいで」
高国は既に部屋の真ん中に胡坐をかいて座っており、シイはその前に座った。足を組んだりしたことはなかったから両膝を立ててお尻をつける。
高国は漆塗りの箱の中から、何かの入れ物を取り出してその蓋を開けた。ぷん、と薬草の匂いがする。
「おくすり……?」
「ああ。傷薬だよ」
「そんなのしなくても……なめてれば、なおるよ」
「それはできないから——じっとしてて」
できない?なんでだろう。人間は体が固いから届かないのかな。僕は別に、足まで舌が届くから、ちゃんと上手に舐められるのに。
でも、高国にはっきりした声で命じられると何故か動けなくなる。
傷に触れられて痛くて逃げたくなるのを、ギュッと目を閉じてシイは何とか耐えた。
高国は手際よく薬を塗ると、今度は布で足をくるくると巻いて結んでくれた。
「少し赤く腫れてるな。安静にした方がいいよ」
「あんせい……」
「しばらく、ここでゆっくりしなさいという事だよ」
シイは不思議でならなかった。
今までも、村に降りてぶらぶらと散策したことはあった。けれども見慣れない自分をよそ者だとして、奇妙な目で見られることはあっても、こうして招き入れてくれた人間は初めてだったから。
「ぼく、ここにいていいってこと?」
「ああ」
返事をしてくれた。そっけなくて、あまり表情が動かないけど。手つきはものすごく優しい。
「たかくには、どうして——」
「こら。様くらい、つけなきゃだめだよ」
「たかくに、さま」
「ああ」
カチャカチャと道具を片付けながら、高国は優しい声で返事をしてくれた。
「たかくにさま、どうしてぼくを、つれてきたの?」
「怪我をしていたから」
怪我をしているからって、それだけでこんなに優しくされたことはない。
ばあちゃんが死んで、慣れないうちはもっとひどい怪我をしたことだってある。そんな時は、森にいるよりは化けて村にいた方がいいかと思い人里に潜り込んだ。その時も、怪我を負ったシイに、誰一人として話しかけるものはなかった。
シイはもう一度頭とお尻を確認した。大丈夫、ちゃんと隠れてる。たぬきだってばれて、食べようとしてるんじゃ——なさそうだ。
シイが不思議そうにしていたからだろうか。ふと高国が手を止めて、シイの顔を見た。
あまり表情が動かなくて、感情の読みづらい顔だったけど、その目はすごく優しく見えた。
「お前の方が、私にしがみついて離れなかったじゃないか」
そう言って高国は皺になった襟元をトントンと指で指した。
「あっ……」
僕がずっと掴んでたから。警戒していたはずなのに、なぜだか高国の懐は、すごく安心できて。離れたくなくなったから……。
シイがあまりにも絶望的な表情をしたからだろうか。高国の口元がふっと緩んだ。
「——行くところがないのなら、しばらくここにいればいいよ。その後の事は、傷が癒えてから考えよう」
高国はそう言ってすっと立ち上がった。
「着替えとお湯を運ばせるから。待ってて」
そう言って母屋の方に行ったかと思うと、またすぐに帰って来た。程なくして下女が数人、湯気の立つ桶や新しい着物を持ってきて、黙って置いて行く。去り際に先ほどの水桶を新しいものに変えてゆく手際の良さだ。
奉公人一人一人の身なりもいいし、所作が洗練されている。
シイが畳の上で足を投げ出して座っているのに、顔色一つ変えずに用事を済ませて去って行った。
「たくさん、ひとがいる……」
もしかして、この屋敷にいる人だけでも、シイの知っている村の人口より多いんじゃないだろうか。人の気配を母屋の方からたくさん感じる。
「たくさんいるけど、ここは私が籠って静かに勉学に励めるようにと造っていただいた離れなんだ。だから会うことはないと思うよ」
人の気配がするだけできょろきょろと落ち着きのなくなるシイに、高国はふと心配になる。
「人が苦手なんだね。何か、つらい事でもあったの……?」
この近辺は比較的治安も保たれているはずだし、豊かな田畑が広がり、飢饉も長らく起きていない。飢えた民はいないはずだが、それでも、4歳の子どもが一人で生きていくには厳しいだろう。人の世話をするほどの余裕は農民にはない。
丈の合っていない、粗末な麻の布を巻いただけの格好に、茶色の髪は結ったこともないのか、肩まで伸びて先が縮れている。泥だらけの全身はよく見るとかなり傷だらけだ。幼児とは思えない警戒心の強さも、何かあったからなのかと勘繰ってしまう。
シイは何のことかわからず首を傾げているだけだった。
「——おいで、体を拭いてやろう」
「え!?」
体を拭くって何?
シイはびっくりして大きな声を上げた。
「髪も洗わないと、泥で固まってしまっている。それでは寝られないよ」
高国は再び板間まで行って、シイを手招きした。
「からだを、ふくの?」
「そうだよ」
「みんなするの?」
「する」
そうなのかな。村人で汗を拭いてるのは見かけたけど、お湯を沸かしてまで体を拭いてる人は見たことがないけど。
高国はシイを軽々と持ち上げて、膝の上に乗せた。そのまますっぽりと収まったシイの顔を濡れ布巾で拭いてやる。温かい布巾で顔を拭かれると、今まで経験したことのない気持ちよさだった。
「ふああぁぁ」
気の抜けた声が出る。
寒い日が続いた時の、小春日和の日向ぼっこより気持ちいい。
そのまま続いて耳の後ろ、首も拭かれると、シイは体から一気に力が抜けていった。
服を脱がされて手際良く拭き終わる頃にはすっかり体を高国に預けて、目も開いてるのかどうか怪しいくらいとろんとしている。
「ほら、次は髪を洗うから、頭をこっちに」
高国に言われるままに頭を差し出すと、桶の上で何度もお湯をかけられて髪が濡らされて行く。水は泥水のように茶色になった。そのお湯を2回替えて洗い終えてから、乾いた布で頭を拭かれる。再び高国の膝に乗せられて頭を拭かれていると、ほかほかとして眠ってしまいそうになる。
「きもちー……」
「そんなに気に入ったのなら、いつかお風呂にも入れてやりたいな」
「おふろ?」
「うん。お湯の中に浸かるんだ。気持ちいいんだよ」
「えー、おゆぅ?」
それでは本当にたぬき鍋になっちゃう。誘われてもきっぱりと断らなきゃ。
ふと、高国の手が止まる。
どうしたんだろう、そう思って高国を見ると、微かに目を見開いたようにしていた。
「たかくにさま?」
「——あ、うん。シイの髪は、名前の通り、椎の実みたいな色だね」
「ほんと?」
自分では髪の色がよくわからなかったから、名前と同じと言われて何だか嬉しい。
「へへ。ぼくね、シイのみ、だーいすき!」
「そうなんだ」
「たかくにさまは?」
「私は……食べた事ないな」
「え!ほんとに!?」
お金持ちなのに、あれ程美味しいものを食べたことがないなんて。
「あんなにおいしいのに。ぼく、すっごくおいしいシイのき、しってるんだよ!」
「そうか。森の中?」
「うん!ちょっとおくのほうだけど……」
人間が来ないところだから、そうか、高国は知らないのか。
僕は生のまま食べるけど、人みたいに火を通せばもっと美味しいってばあちゃんが言ってた。あれよりもっと美味しいっていうんだから、若様の高国でも、きっと好きになるはずなんだけど。
うーん、と考えていると、高国は視線を上げた。
「とりあえず今晩のところは、ここで食べよう」
高国の視線につられて顔を上げると、下女がお盆を持ってこちらに向かっていた。
高国は布をシイの頭に乗せたまま、ぽんぽんと優しく叩いた。
「シイの分も頼んでおいたから、一緒に食べよう。食べられないものはない?」
お盆の上からは、今まで嗅いだこともないようないい匂いがしていた。
シイは目をキラキラと輝かせながら見開き、ついでに開いたままの口からは涎がこぼれた。




