弐
「兄上、引っ張ってください」
穴の中でシイを軽々と片手で抱えたまま、その人はもう片方の手を兄の方に伸ばした。
「おい……突然降りるなよ、あぶないだろー?」
「兄上がいるので」
「大丈夫か?怪我はないか?」
「は——いえ、足を切っているようです」
そう言ってシイの足が当たらないように抱き直してくれる。
「いや、そいつじゃなくてさ」
やれやれといった様子で兄が手を差す。それを握って、あっという間にシイは抱かれたまま上に上げられた。
2人とも、すごい力持ちだ。あっさり出られた……。
ほっとする間もなく、じっと兄の方に顔を覗き込まれる。びっくりして、抱かれた体にしがみついてしまった。
「お前、名は何て言うんだ?」
「……シイ」
「——あ?なんて?しー?」
変な名前、と言わんばかりに眉を寄せられた。
シイはむっと口をへの字にする。
シイの実はドングリの中でも、一等美味しい実なんだ。その上、ちょっと食べただけでもお腹が膨れる。僕が生まれた時、シイの実が沢山なって、母さんが食べるのに困らなかったからってつけてくれた名前なんだって。ばあちゃんに教えてもらった。
「シイ?」
抱かれたまま呼ばれて、シイはこくりと頷いた。
間近で見ると、ますますきれいな顔だ。高貴な人って、顔もみんなこんな風にきれいなのかな。
「君の、かかさまや、ととさまは?」
「……もう、いないよ」
子どもだから、親元に届けてくれようとしているのだろうか。もういいから離してもらおうと思って、シイは続けた。
「ばあちゃ、しんだんだ。だから、ぼくひとり。もう、いちにんまえ!」
ばあちゃんが死んで、飢え死にするわけにいかないから、すごく苦手だった木登りだってできた。上手に食べられる木の根っこを掘り当てることもできる。
人に化けるのだってうまくできるようになって、時々人里に行っても今までばれなかったんだから。上手に化けれたら一人前だって、ばあちゃんは言ってた。
「一人前って……」
「お前、いくつだ?」
兄の方に問われて、答えたくなかったけど。数が数えられないんだって思われるのも癪だから、シイは答えた。
「よっちゅ……」
あ、また噛んじゃった。
恥ずかしくて真っ赤になってうつむく。
「4つって、こんなに小さかったっけ。3つ位かと思った」
「ぼく、いちにんまえ!」
「お前なあ。一人前ってのは、私のように、元服してから言うものだぞ?」
偉そうに言ってるけど、元服してすぐぐらい、15、6の年齢に見える。シイはじっと折烏帽子を見上げた。
あれを被ると偉そうになるのかな。取ってやろうかな。
その時。
「若様ー!どちらですか、若様!!」
遠くから男の声がする。
兄弟は顔を見合わせた。
「まずい。あの声は、義長だ!」
「何がまずいんですか、兄上」
「明日までに治部卿に送る書簡、やってない!」
「兄上……」
もう夕暮れである。用事は済ませたから出かけよう、と言って誘われたのに。
呆れたような弟の視線に耐え兼ねて、兄の方はそっぽを向いた。
「お前も元服したら分かるよ。こうして遊ぶのが、どれほど貴重な時間か」
確かに、元服するまでは毎日のように遊んでいた。それが、最近では3日に1回程度まで減っている。いつも二人で楽しく遊んでいたから、兄がこうしてもっと遊びたいと思っているのも分かったし、それが嬉しくもあるのだが。
「それでも、兄上は家督を継がれるのですから。周囲の期待に応えねばなりません」
「お前まで……義長と同じ事言うなよ」
「私も期待しているのです。若くして叙爵され官職に就かれている兄上は、私の憧れですから」
そう言われては、兄の方も嫌な気はしない。
顔を緩ませて、そうかあ?と嬉しそうだ。
シイの目から見ても、騒がしいけど単純な人なんだなあ、と思う。
「——じゃ、先に帰ってるな!」
「はい」
兄はあっという間に山を駆け下りて行ってしまった。
「——さて」
二人になって、改めて見つめ合う。頭から足先まで見られて、シイは落ち着かなかった。
「まずは、傷の手当てをしようか」
「え……ぼ、ぼく、だいじょうぶだよ」
見れば、足からの出血でこの人の着物も汚してしまっていた。白い帯が赤く染まっている。慌てて降りようとするが、更に力強く抱かれた。
「だめだよ。小さな傷じゃないんだから、ちゃんと手当てをしないと」
「でも……よごれちゃうよ」
「かまわない」
「でも……えっと」
困った上に混乱したシイに、その人はふっと笑ったように見えた。
そうすると急に雰囲気がやわらいで、シイは目が離せなくなった。
「私の名は高国」
「たか、くに……」
高国は、今度は本当に少し笑った。ふっと笑って漏れ出た息がかかって、くすぐったい心地がした。
「人前でそう呼んではいけないよ」
「えっと……」
戸惑うシイを抱いたまま、高国は軽い足取りで山を下りて行った。
シイを抱いた高国は山を下り、里山を抜けて街道に出た。
いつもと違う方向から森を出たから、シイには全く見覚えのない景色だった。
こっち側が、こんなにしっかりと道があったなんて。人の往来も多く栄えているから、本能的に避けていたのかもしれない。
きょろきょろとしていると、高国は大きな塀で囲まれた屋敷の門に近付いた。森に面したところがちょうどひときわ大きな屋敷になっている。もっと先まで道も塀も続いていて、進めば進むほど賑わっているようだ。
これ、武家屋敷、っていう奴だ。もう少し小さいのを向こうの村で見たことがある。ぐるりと塀で囲まれて、建物がいくつかあって、中には小さな池とか森まである。えらい武士の人が暮らす場所。
門の所には門番らしき屈強の武士が二人立っていた。
高国の姿を見て、すぐに頭を下げる。
「若様、お帰りなさいませ」
「ただいま。兄上は?」
「つい先刻、戻られました。そちらは……?」
「山で怪我をしていたところを見つけたんだ」
「は……」
男たちは目を丸めて、シイをまじまじと見つめた。
「身寄りがないようだから、少し世話をするよ」
門番の間を通り抜け、高国はそのまま進んでいく。
余程驚いたのだろうか、門番らは顔を見合わせ、珍しいことも……と囁き合っていた。
この人も「若様」って呼ばれてる。若様って言うのは、屋敷の主の子供を呼ぶ言い方だ。
「わかさま……?」
「——そんなに緊張しなくても、お前を害するものはここにはいないよ」
知らない間に緊張しすぎて、衣を握りしめてしまっていたらしい。高国の襟元がぎゅっと握り込まれて皺になっている。
「ごっ、ごめんなさい」
苦しかったんじゃないだろうか。慌てて手を離す。高国は気にしていないようだった。
「私の部屋は離れにあるから、下人も少ないんだ。——ここだよ」
高国は屋敷の一角の、離れの前で立ち止まった。
母屋よりは庭を挟んで少し離れていて、少し暗いが確かに人通りは少なそうだった。
高国は濡れ縁の板敷き部分に腰を下ろすと、シイもその横にそっと降ろした。懐から手拭いを出し、側にあった桶の水に浸して絞り、シイの足を拭いてくれた。
——く、くすぐったい……っあ、まずい!
シイは慌てて逃げようと体をよじった。
くすぐったくて、化けているのが解けてしまいそうになる。特に足の裏は肉球が出てしまう。
「こら、動くな」
「く、くすぐったいよ、だめっ、ふ、ふふっ……」
「汚れてしまうだろう?シイは裸足だったんだから。ほら、あと少し——」
シイもすばしっこいはずなのに、どうやっても高国の腕の中から逃れられない。
散々暴れてしまったのに高国は器用にシイの手足の攻撃を避けて、しっかりと足の裏を拭き終わった。
続いてもう一度桶で手ぬぐいを洗ってから、今度はシイの足の傷をそっと拭う。
「——痛くないか?」
痛いけど、我慢できる。シイは奥歯を噛んで何でもない風を装った。
自然界では、痛いとかつらいとか、そんな姿を見せたらすぐにやられる。平気なふりは絶対にしないといけなかったから。
血を落として布が離れていくと、シイはゆっくりと詰めていた息を吐いた。
「えらかったね」
ぽん、とシイの頭を撫でられる。
シイは目を丸めて思わず息を止めた。
ふわあああ。なんだろう。この心地。ただ頭を撫でられただけなのに、ふわふわして、気持ちよくって。もっと撫でてほしい……。
そう思ったけど、高国はすぐに手を離し、今度は草履を脱いで自分の足を拭いていた。
細くて白い指が手際よく動くのを見ると、シイはついそれに見入ってしまう。やがて高国は手拭いをぽんと桶の中に放り込むと、すたすたと部屋の中へ入って行った。
「——どうしたの?入っておいで」
高国がすっとふすまを開き、畳の間が見える。数歩進んだところで呼ばれて、シイは弾かれた様にはっとしてついて行った。




