壱拾柒
シイは思いっきり走った。
お腹がいっぱいだったから、すぐに脇腹が痛くなったし、殴られたところも、走れば走る程痛くなった。刺すように痛くて汗がにじんできたけど、高国の事を思うと、少しも速度を落とすわけにはいかない。
屋敷に辿り着いくと、シイのただならぬ様子に、門番がすぐに気付いてくれた。
「——小僧、お前若様と——」
「市場に行ったんじゃなかったのか。どうした」
「たかくにさま、おそわれ、て……」
「なに!?」
それだけで、事態を察知したようだった。
一人が慌てて屋敷の中へ走って行った。
みんなが助けてくれるなら、大丈夫だろうか。
門番が手を伸ばしてきたのをさっとよけて、逃げるようにして屋敷の中に入った。
本当なら、人を連れて高国を助けにいきたかった。
それが、頭がぐわんぐわんと鳴って、ぐらぐらと視界が揺れる。立っているのもやっとで、地面がふわふわとして、シイは四つん這いでなんとか走った。
ついには意識が朦朧としてきて、本能的に離れの方へ向かっていく。
「——あ、おい、どこへ——」
門番の制止の声にも反応できなかった。
シイはとにかく縁の下の床下に潜り込んだ。そこで小さくなって、丸まった。
高国のことが心配でたまらなかったけれど、体の痛みに目が回って、縁の下で丸くなるとすぐに意識を手放してしまった。
「——おい、シイ!なんで土の上にいるんだ、お前!」
明かりを照らされて呼ばれて、はっとする。どれくらい経ったのだろうか、辺りは真っ暗だった。
汗をたくさんかいたのか、シイの着物はぐっしょりと濡れていた。
ろうそくの灯りで、高氏が縁の下を覗いてこちらを見ているのが分かる。照らされて眩しくて、シイも目を細めた。
辺りはがやがやと人の気配もするから、まだ夜中ではないのだろうか。
「たかくにさまは……」
「無事だよ。とにかく、出てこい」
重い体を動かし、のろのろと這い出る。少し寝たおかげか耳鳴りや眩暈は無くなっていた。ただ、体は重くあちこちがひどく傷んだ。
とにかく高国が無事と聞いて、心底ホッとする。首を伸ばして離れの部屋を覗くが、そこはがらんとして人の気配もなく真っ暗だった。
「母屋にいる。怪我をしたからな」
「けが!」
駆けだそうとしたシイの首根っこを掴んで、高氏は低い声を放った。首が締まってシイは大きく咳き込んだ。
「今寝てるから、行くな」
シイが見上げたその顔は険しくて、嫌な予感がする。
「たかくにさま……おおけがなの?」
「浅くはない。——が、ちゃんと治る怪我だ」
良かった。
ホッとするシイを見下ろして、高氏は縁台にもたれた。
「ちょっとそこに座れ」
シイはしゅん、と元気のないまま、地面に座った。すると高氏はシイの目の前にしゃがんだ。
「あのな。ちびのお前に言っても分からないかもしれないが……今の私達には、敵が多いんだ」
「てき」
高氏が頷く。
「あのひとたち……てき?」
「ああ。幸い、全員捕えてあるが、一足遅かったら高国はかどわかされていただろう」
「ここはたかくにさまの、なわばりじゃなかったの?」
「縄張り……まあ、確かに私達の領地だけどな。それでも、今は難しい時期なんだ」
難しい話は、よく分からない。
高国の顔が見たくてシイはそわそわした。ちらちらと母屋の方を見る。
いつも真っ暗なのに、今日は明かりがついていた。高国の為に人が出入りしているのだろうか。
「幕府がどうなっちまうか分からないこの時期に、考えなきゃならないことも、やらなきゃならないことも山積で。高国は、お前と遊んでる暇なんてないんだよ」
つん、と高氏はシイの額を小突いた。
「お前の面倒を見てる暇もない」
でも、高国は、シイが喜ぶようにって、こうして市場に連れてきてくれた。草履もくれたし、美味しい物もたくさんくれた。
いつも一緒にいて、時々ふとした時に笑顔も見せてくれるようになって。
僕にできた、新しい家族みたいで……。
「たかくにさまは……」
「それもな。本来なら、お前が気安く呼べるような名前じゃないんだよ」
ぴしゃりと言われて、シイは黙って高氏を見つめた。
高氏は真剣な顔でシイを見つめていた。
「高国は優しいから、お前に出てけって言えなくなったんだろう。だがな、お前がいると高国が」
高氏はここまで来て、一度黙った。
じっと、泣くでもなく怯えるでもなく自分を見つめてくるシイの茶色い目を、黙って見つめ返した。
子供だと思っていたのに、その目が子供らしくなくて。不思議な感覚に無意識に目を逸らしていた。
「……お前がいなければ、高国があそこまで深手を負う事にはならなかったはずだ」
「ぼくの、せい……」
心臓を鷲掴みにされるようだった。
誰よりも大好きな高国が、他でもない自分のせいで傷を負っただなんて。
確かに、シイがいなければ走って逃げることができたのだろう。いや、そもそも市場に出るようなこともなかったかもしれない。
だとしたら、やっぱり、高国の傷はシイのせいということになる。
なんていう事をしてしまったんだろう。
眩暈が再びシイを襲ってきた。
「心配するな。知り合いの寺の僧侶に、ちゃんと頼んでやるから」
シイは頭をゆっくりと振った。
「だいじょうぶ。ぼく、もう、いちにんまえ」
「いや、だから、お前はまだ子供なんだから。心配しなくても、ちゃんと、私が手紙を書いてやるから。そうしたらちゃんと、面倒見てもらえる。飢えることもない」
「ううん。めんどうはかけないよ」
シイは深く頭を下げた。
「おせわになりました」
涙がじわりと滲んできて、それに気づかれまいと頭を下げたまま踵を返した。
「あ、おい……」
じゃり、と土を踏む音に、高氏の声はかき消された。
シイはそのまま静かに足利邸を去って行った。
それ以来、小さなシイの姿を見た者はいなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
下野国編 (そうだったのか)これにて終わり、次から鎌倉編です。




