壱拾弍
朝餉の時間になってもシイの姿が見えなくて、高国は表情を曇らせていた。
朝と夕の食事を何よりも楽しみにしている様子だったのに。そのシイがいないというのは、山に帰ったのだろうか。
居心地良さそうにして、懐いていたと思っていただけに……急に、何も言わずにいなくなるとは思わなかった。閉じこめたり繋いだりするわけにもいかないし、それでもやはり獣だから。人の物差しでは測れないものがあるのかもしれない。
だとしたら、ふらりと現れたと思ったら、またふらりといなくなってもおかしくはないのだろう。
獣相手に残念に思っても、仕方のない事なのかもしれない。
瞬時にそこまで考えてから、ふと立ち止まった。
——いや、そう言えば、お出かけしてくるねと、昨夜言っていた。
高国はシイを探す足を止めた。
帰って来るのだろうか。
シイがいなくなったことに、自分でも思っていた以上に動揺したらしい。
そうは思っても、やはり、少し空しいような気になる。ずっといたあの小さな存在が部屋にいないだけで、随分と静かに感じてしまう。
たった数日の事なのに。元々、人がいない方が集中できて、一人の方が好きだったはずなのに。
高国は苦笑して母屋に向かった。
父も兄もいないし、離れにばかりいると心配をかけてしまう。そろそろ顔を出して、母と一緒に食事を摂った方がいい頃合いだ。
「——あら、久しぶりね」
食事の席に高国が座っているのを見て、母、清子はそう言ってにこりと笑った。
色白で少し小柄な清子は、欲のない人だった。
重臣上杉家から側室として父の元に嫁いできたものの、父と本妻との間に嫡男もいたし、元々控えめな性格なのだろう。三歩下がって父の後ろをついて行くような人だ。
小柄だがどちらかというとふくよかな体形で、頬もふっくらとしている。そのせいか少し幼いようにも見える顔立ちをしている。ほとんど領地から出ることもない、気が弱く優しい母親だ。
だから久しぶりに顔を見せた息子にも、こうして嫌味もなく、笑いかけて来る。
「最近は何をしているの?」
「効率よく作物が育つ方法と……あとは、法令と裁判記録を……」
「そう。頑張っているのね」
清子は、高国に勉強を強いることはそれほどなかった。
のびのびと育ってくれればそれでいい、と思っているようだし、実際、兄ほどには厳しくされていない。家を継ぐわけでもないし好きにすればいいと思っているのだろう。
離れに籠ってまで勉学に熱中しているのは高国の自主的なものだったし、ひとえに、兄の役に立ちたい一心だった。
「父上がご不在で、お寂しいでしょう」
「ええ。けれど、明日には兄上が様子を見に来て下さるって」
「伯父上が……」
実直な伯父が助けに来てくれるのであれば安心だ。
箱入り娘という言葉が合うのだと思う。主人の不在に代わって屋敷と領地を守るのには、息子から見てもこの母は少し頼りない。それでも、母は周囲の人間に恵まれていた。家臣らも忠誠心が深いし、親族も実直に本家を支えてくれている。伯父もその一人だった。
そう思って、高国は朝の食事を済ませて部屋へ戻った。シイの姿は、まだなかった。
その後、高国は暇を持て余し、自然と山の方へ足を向けた。
特に予定もないし、主人のいない屋敷は守りに徹するように、いつもより少し静かでもの寂しい。そんな屋敷にいるよりはと屋敷を出たら、どうも気になって山の方に向かっていた。
里山を抜けて進むと、徐々に木々が生い茂る森の中へ入っていく。
落ち葉を踏みながら進むと、古びた小さな社と鳥居が見えてくる。
この鳥居を越えてはいけない——誰から言われたわけでもないが、この辺りの人間はみんなそう言っている。入るのはごく一部の山に慣れた猟師だけだ。
シイは、この山に寝床があると言ったわけではないけど、良く知っているように話していた。おそらくこの鳥居の向こうにねぐらがあるのだろう。この広大な山の中でたった一つのねぐらが見つかるとは思えなかったが、もう少し行ってみようかと思い、高国は鳥居を越えてみた。
普段なら絶対にしないような危険な行動だ。
自分は兄の代替品だから。勝手が許される体ではないと幼い頃から教えられている。無茶をする性格ではないし、これまでいつも慎重に過ごしてきたから、こうして自由にさせてもらっているのだと、分かっているのに。
何故そうしたのかよくわからない。ただ、そうした方がいいような気がして、迷いなく進んでいった。
——オオォォン!!!
森に獣の声が響き、高国は足を止めた。
狼よりも野太くて低く短い鳴き声。
高国は聞いたことがない種類の鳴き声だった。ただ、その正体を知らなくても、それが危険だというのは感じる。
引き返した方がいい。そう思うのに、どうしても立ち去ることができなかった。
急激に脈が速くなるのを感じる。腰の剣に手を当てながら、あと少し、もう少しだけど歩を進める。
向こうの方からがさがさと木々の擦れ合う音がする。
目を向けると、木々の合間を黒い小さな影が駆け抜けて行った。
「——シイ!?」
どうしてそう思ったのか分からない。
本当に小さな獣だったように思う。口に何かを咥えている。
血にまみれて一瞬何の獣かも分からないのに、それが高国には、シイに見えた。
高国の叫び声に反応したようだった。駆け抜けようとしていた顔がこちらを向いて、目が合った。
やはり、小さなたぬき——シイだ。
驚いたように小さな黒い目を見開いてから、口を開けて叫ぼうとして——慌てて落とすまいと袋を咥え直す。
何かに追われている。手傷を負いながら、必死で逃げている。
「シイ、こっち!」
思わず叫んで手を伸ばすと、シイはすぐに方向転換して高国の腕に飛び込んできた。
しっかりと抱きとめた瞬間、向こうの方から何かがやってくる物音に気づく。
大きな何かが、草をかき分け、木にぶつかりながらこっちに向かっている。
シイは恐怖に固まっているように見えた。温かくしっかりとした感触に、深傷をとっているのだと悟る。
高国は考えるよりも先に走り出した。
鳥居を越え、人里が見えて来るまで全力で走る。
全身の血が湧きたち、何も聞こえないくらい必死でただ、走り抜けた。手の中の温かいシイの感触だけがありありと伝わってくる。
開けた道まで出てやっと、後ろを振り返る余裕ができた。
乱れた息を整えながら、見えてきた道と屋敷の塀に少しほっとする。森の入り口の方を見ても、追いかけてくる気配は感じなかった。
腕の中のシイを見下ろす。
自分の着物が赤く染まる程の大量の出血は、肩から背中に掛けての爪の跡のようだった。
——熊、だろうか。
ぞっとしながらも、高国はまた走り出した。
姿が見えたら助からないと思え——そう言われているのが熊だ。里山より人里の方には滅多に降りてこないから、振り切れたのだろうか。
「——シイ、しっかり!」
声を掛けても、もう返事はない。
高国はできる限り揺らさないように気を付けながら、屋敷に向かった。
シイはもう呼びかけに答えなかった。たぬきの姿のままで、目を閉じている。でも、まだ生きている、温かい。
願いを込めて、高国はそっとシイを抱きしめた。
「うぅ……」
苦痛にくぐもった唸り声が上がる。
「シイ……人の姿になるんだ。シイ……人の……」
出血が続いている傷口を押さえながらそう声を掛けると、シイは返事はしなくとも、ゆらりと人の姿に変わった。
これなら医者に見せられる。
高国は少しだけ安堵して、上着でシイを包んだ。




