壱拾壱
「ずうっと、はいっていたかったなあ……」
風呂から出てシイが振り返りつつ呟く。
「お湯は冷めるし、風邪をひいてしまうよ。それに、ほら、手がしわくちゃになるだろう?」
高国はそう言いながら手際よく夜着代わりの小袖を着て、肩に布をかけていた。肩より長い黒髪がいつもより一層艶やかで、水が滴り落ちている。
高国はいつまでも裸のままのシイの体を拭いて、着物を着せた。
「て……」
見てみたけど、シイの手はいつもと変わらなかった。
高国の手首を持って覗き込むと、高国の手は指先が確かにしわくちゃになっていた。
シイは慌てて手を握りしめた。
そうか、人はお湯につかるとふやけるんだ。
「シイ?」
「ゆびがしわしわになっちゃったら……こまらないの?」
「困ら……ないと思うけど。どうして?」
ばあちゃんの手もしわくちゃだった。年を取ると皺ができるんだって言ってた。
年を取らなくても、お湯に浸かったらしわしわになるんだとしたら……。
「たかくにさま……こしは?いたくない?」
「腰?」
高国が不思議そうに首を傾げる。
ばあちゃんは腰が痛くなって、それから目が見えなくなった。
シイは心配でたまらなかったが、今の所高国はぴんぴんしていた。
「——ほら、行くよ」
「うん……」
秋の夜は冷えこむ。湯冷めしないよう声を掛けたが、シイはまだ名残惜しそうに湯船を見ている。
「もうすぐ夕餉だ。卵が出てくるよ」
「あっ!そうだった!」
シイはぴょんと飛び出て、急いで離れに向かった。
その日の夕餉には茹でた卵が出てきた。塩をつけて食べると、生で食べる卵とは全く違う味がする。
もうほとんど覚えていないくらい昔に、シイは卵を食べたことがある。鶏ではなくて、何かの鳥の卵で、ばあちゃんは鳥の卵を見つけてくるのがとても上手だった。
「卵はな、栄養がたっぷりなんだ。しっかり食べな。食べたら冬も越せるからねえ」
そう言ってシイの方に多く食べさせてくれた。
シイはボリボリと音を立てて、殻ごと茹でた卵を食べた。高国が驚いた顔をしている。それでも、自分も分もくれたから、シイは2つも食べた。
「私はいいから、シイが食べるといいよ」
「たかくにさまは……いつもぼくに、くれる」
申し訳なくて、シイの手が止まった。
「気にしないで。私も満腹になるだけ食べているし、もともと卵はね、あまり食べないんだ。あまりよくないと言うか……」
「たまご、よくないの……!?体に?」
「——いや、殺生がね、良くないとされているから。まあ、食べるけどね」
そうなんだ。人間の世界では、決まりごとが多くてよくわからない。
そう言えば少しの間身を寄せていたお寺の和尚さんも、魚も肉も食べなかった。
食べられるものを食べたらいいのに、自分達で食べないって決めてしまうなんて、本当に不思議だ。
でも、肉を食べないと温まらないし、力が出ない。だからやっぱり、高国は気を遣って言ってくれてるのかもしれないと思った。
「ありがとう、たかくにさま」
「美味しそうに食べてるのを見ると、私も嬉しいから、いいんだ」
そう言って微かに笑みを向けられる。
食事が終わって、ごちそうさまをしてから、いつものように少しゴロゴロして、布団に入る。
シイはぎゅうう、と力を込めて高国にしがみついた。夜になると冷え込むようになってきて、高国はいつも手足が冷たかったから、せめて温めてあげたくて。
くっついていると、二人で温かくなる。
そうして一緒に眠るのは温かくて心地よくて。この温もりに慣れてしまったら、一人に戻る時がすごくつらいと思う。
ずっとこうしていられたらいいのに。
——そうだ。
シイは高国の腕の中で、閉じかけていた目をぱちりと開いた。
「——シイ?」
気配を察して高国が声を掛ける。
「あした、ぼく、ちょっとおでかけするね」
「え——どこに」
「ふふふ……」
いいことを思いついたらしく、シイは満足して目を閉じた。
聞こうかと思ったけどシイが微睡みだしたので、高国はそっと寝床にシイを降ろしてそのまま就寝した。
翌朝、早朝からシイは屋敷をそっと抜け出した。
高国ももう起きて母屋の方へ行っていたから、離れにはシイだけだった。いつもならそこに朝餉が運ばれてきて、高国も戻って来る。
この日は朝餉を待たずにシイは部屋を出た。もう屋敷の中も随分と慣れた。身軽に木に登って、そこから外に飛び出す。
軽やかに地面に降り立ったら、すぐに走り出した。
目指すのは山の中腹だ。
元々ねぐらにしていた場所までは行かない、少し手前辺り。
そこには、とびきり美味しい椎の実がなる木がある。それを沢山採って帰って、高国に渡したかった。
いつもくれてばかりの高国に、何とかして恩返しがしたかった。
きっと喜ぶはずだ。そう思うと顔が緩んだ。
まだ人通りのない早朝の小道を駆け抜け、徐々に木々が繁る山の方へ足を向けた。
鳥居を抜けたあたりでシイはタヌキの姿に戻って、四本足で駆け出した。人の姿よりもずっと速く走れる。
「……っ!!あった!」
一際立派な椎の木に、木の実がたくさん成っている。
シイは再び人の姿に戻った。
タヌキの手では椎の実を上手に拾えないが、人の手ならどんどん掴むことができる。
このシイの実を、教えてもらったように焚火の中に入れたら、きっとものすごく美味しい。
つるつるに光って見える実を、持ってきた布袋の中に入れていく。朝餉を食べていないからお腹が空いて、ぐう、と鳴った。
食べようか——そう思って一粒持って口を開けて——シイはぶんぶんと首を振った。
「たかくにさまに、あげるんだから」
特に美味しそうな、良く膨らんだ椎の実を探さないと。
シイは夢中になって土の上の椎の実を拾い続けた。
不意に。
ぽた、という何かの落ちる音がした。
朝露の落ちる音かと思った。いつもなら気にせず採り続けているけれど。
けれど、この時はたまたま、シイはそちらへ目を向けた。
すぐ目の前に飛び込んできたのは、黒い巨体——。
ひっ、と恐怖でシイの体は引き攣るように固まった。
熊だ。
見上げると首が痛くなるほどの大きな体で、黒い毛で全身が覆われているのに、筋肉が盛り上がって見える。
赤い口の中に牙が覗く。そこから、ぽたぽたと涎が落ちていた。鋭い目が、冬ごもりの前に食料を探す狩人の目をしている。シイを見下ろし、これを食べようか、どうしようかと逡巡しているのが分かった。
夢中になりすぎて、油断した。
この山の中では、シイは何よりも弱い存在で、捕食される側の存在だというのに。
だから、いつも警戒を怠らなかった。少しでも物音がしたら逃げたし、物陰から出ることは滅多になかったのに。
ほんの少し高国の元で過ごし、ずっと守られていたから、こんな基本的な、身を守る勘が薄れてしまったんだろうか。
シイは固まったまま、視線だけを動かした。
熊の目がシイを探るように見つめ、じりじりと距離を詰めてくる。
シイの手に持っている実を差し出せば、少しは時間が稼げるだろうか。——でも、これは高国に渡そうと思って穫った物だ。
渡したくない。
タヌキの姿になれば、人よりはいくらか素早い。突然姿が変わればびっくりして隙ができるかもしれないから、その隙に——。
シイは意を決して、タヌキに戻った。
シイの実の入った布袋と着物を咥えて駆け出した。
後ろは振り返らない。一目散に、人里の方角へ。
森の中に熊の咆哮が響いた。




