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彼の方の、可愛い小さな化けたぬき  作者: サイ
下野国編

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11/18

壱拾壱

「ずうっと、はいっていたかったなあ……」

 風呂から出てシイが振り返りつつ呟く。

「お湯は冷めるし、風邪をひいてしまうよ。それに、ほら、手がしわくちゃになるだろう?」

 高国はそう言いながら手際よく夜着代わりの小袖を着て、肩に布をかけていた。肩より長い黒髪がいつもより一層艶やかで、水が滴り落ちている。

 高国はいつまでも裸のままのシイの体を拭いて、着物を着せた。

「て……」

 見てみたけど、シイの手はいつもと変わらなかった。

 高国の手首を持って覗き込むと、高国の手は指先が確かにしわくちゃになっていた。

 シイは慌てて手を握りしめた。

 そうか、人はお湯につかるとふやけるんだ。

「シイ?」

「ゆびがしわしわになっちゃったら……こまらないの?」

「困ら……ないと思うけど。どうして?」

 ばあちゃんの手もしわくちゃだった。年を取ると皺ができるんだって言ってた。

 年を取らなくても、お湯に浸かったらしわしわになるんだとしたら……。

「たかくにさま……こしは?いたくない?」

「腰?」

 高国が不思議そうに首を傾げる。

 ばあちゃんは腰が痛くなって、それから目が見えなくなった。

 シイは心配でたまらなかったが、今の所高国はぴんぴんしていた。

「——ほら、行くよ」

「うん……」

 秋の夜は冷えこむ。湯冷めしないよう声を掛けたが、シイはまだ名残惜しそうに湯船を見ている。

「もうすぐ夕餉だ。卵が出てくるよ」

「あっ!そうだった!」

 シイはぴょんと飛び出て、急いで離れに向かった。


 その日の夕餉には茹でた卵が出てきた。塩をつけて食べると、生で食べる卵とは全く違う味がする。

 もうほとんど覚えていないくらい昔に、シイは卵を食べたことがある。鶏ではなくて、何かの鳥の卵で、ばあちゃんは鳥の卵を見つけてくるのがとても上手だった。

「卵はな、栄養がたっぷりなんだ。しっかり食べな。食べたら冬も越せるからねえ」

 そう言ってシイの方に多く食べさせてくれた。

 シイはボリボリと音を立てて、殻ごと茹でた卵を食べた。高国が驚いた顔をしている。それでも、自分も分もくれたから、シイは2つも食べた。

「私はいいから、シイが食べるといいよ」

「たかくにさまは……いつもぼくに、くれる」

 申し訳なくて、シイの手が止まった。

「気にしないで。私も満腹になるだけ食べているし、もともと卵はね、あまり食べないんだ。あまりよくないと言うか……」

「たまご、よくないの……!?体に?」

「——いや、殺生がね、良くないとされているから。まあ、食べるけどね」

 そうなんだ。人間の世界では、決まりごとが多くてよくわからない。

 そう言えば少しの間身を寄せていたお寺の和尚さんも、魚も肉も食べなかった。

 食べられるものを食べたらいいのに、自分達で食べないって決めてしまうなんて、本当に不思議だ。

 でも、肉を食べないと温まらないし、力が出ない。だからやっぱり、高国は気を遣って言ってくれてるのかもしれないと思った。

「ありがとう、たかくにさま」

「美味しそうに食べてるのを見ると、私も嬉しいから、いいんだ」

 そう言って微かに笑みを向けられる。

 食事が終わって、ごちそうさまをしてから、いつものように少しゴロゴロして、布団に入る。

 シイはぎゅうう、と力を込めて高国にしがみついた。夜になると冷え込むようになってきて、高国はいつも手足が冷たかったから、せめて温めてあげたくて。

 くっついていると、二人で温かくなる。

 そうして一緒に眠るのは温かくて心地よくて。この温もりに慣れてしまったら、一人に戻る時がすごくつらいと思う。

 ずっとこうしていられたらいいのに。

 ——そうだ。

 シイは高国の腕の中で、閉じかけていた目をぱちりと開いた。

「——シイ?」

 気配を察して高国が声を掛ける。

「あした、ぼく、ちょっとおでかけするね」

「え——どこに」

「ふふふ……」

 いいことを思いついたらしく、シイは満足して目を閉じた。

 聞こうかと思ったけどシイが微睡みだしたので、高国はそっと寝床にシイを降ろしてそのまま就寝した。




 翌朝、早朝からシイは屋敷をそっと抜け出した。

 高国ももう起きて母屋の方へ行っていたから、離れにはシイだけだった。いつもならそこに朝餉が運ばれてきて、高国も戻って来る。

 この日は朝餉を待たずにシイは部屋を出た。もう屋敷の中も随分と慣れた。身軽に木に登って、そこから外に飛び出す。

 軽やかに地面に降り立ったら、すぐに走り出した。

 目指すのは山の中腹だ。

 元々ねぐらにしていた場所までは行かない、少し手前辺り。

 そこには、とびきり美味しい椎の実がなる木がある。それを沢山採って帰って、高国に渡したかった。

 いつもくれてばかりの高国に、何とかして恩返しがしたかった。

 きっと喜ぶはずだ。そう思うと顔が緩んだ。

 まだ人通りのない早朝の小道を駆け抜け、徐々に木々が繁る山の方へ足を向けた。

 鳥居を抜けたあたりでシイはタヌキの姿に戻って、四本足で駆け出した。人の姿よりもずっと速く走れる。

「……っ!!あった!」

 一際立派な椎の木に、木の実がたくさん成っている。

 シイは再び人の姿に戻った。

 タヌキの手では椎の実を上手に拾えないが、人の手ならどんどん掴むことができる。

 このシイの実を、教えてもらったように焚火の中に入れたら、きっとものすごく美味しい。

 つるつるに光って見える実を、持ってきた布袋の中に入れていく。朝餉を食べていないからお腹が空いて、ぐう、と鳴った。

 食べようか——そう思って一粒持って口を開けて——シイはぶんぶんと首を振った。

「たかくにさまに、あげるんだから」

 特に美味しそうな、良く膨らんだ椎の実を探さないと。

 シイは夢中になって土の上の椎の実を拾い続けた。


 不意に。

 ぽた、という何かの落ちる音がした。

 朝露の落ちる音かと思った。いつもなら気にせず採り続けているけれど。

 けれど、この時はたまたま、シイはそちらへ目を向けた。

 すぐ目の前に飛び込んできたのは、黒い巨体——。

 ひっ、と恐怖でシイの体は引き攣るように固まった。

 熊だ。

 見上げると首が痛くなるほどの大きな体で、黒い毛で全身が覆われているのに、筋肉が盛り上がって見える。

 赤い口の中に牙が覗く。そこから、ぽたぽたと涎が落ちていた。鋭い目が、冬ごもりの前に食料を探す狩人の目をしている。シイを見下ろし、これを食べようか、どうしようかと逡巡しているのが分かった。

 夢中になりすぎて、油断した。

 この山の中では、シイは何よりも弱い存在で、捕食される側の存在だというのに。

 だから、いつも警戒を怠らなかった。少しでも物音がしたら逃げたし、物陰から出ることは滅多になかったのに。

 ほんの少し高国の元で過ごし、ずっと守られていたから、こんな基本的な、身を守る勘が薄れてしまったんだろうか。

 シイは固まったまま、視線だけを動かした。

 熊の目がシイを探るように見つめ、じりじりと距離を詰めてくる。

 シイの手に持っている実を差し出せば、少しは時間が稼げるだろうか。——でも、これは高国に渡そうと思って穫った物だ。

 渡したくない。

 タヌキの姿になれば、人よりはいくらか素早い。突然姿が変わればびっくりして隙ができるかもしれないから、その隙に——。

 シイは意を決して、タヌキに戻った。

 シイの実の入った布袋と着物を咥えて駆け出した。

 後ろは振り返らない。一目散に、人里の方角へ。

 森の中に熊の咆哮が響いた。

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