壱
お読みいただきありがとうございます!
年末らしく、時代物を……
お楽しみいただければ幸いです
キャイイィィィーーー!!
森の中に獣の悲鳴が響いた。
——あぁ、やっちゃった!!鳴き声が出ちゃった!
思わず口を押さえたものの、あまりの痛さに涙が滲んだ。
「いたいいたい、よぉ……」
落とし穴——これは、獣のための罠だ。
落ちた時に背中を打ち付けて、息が止まる程の衝撃と痛みに頭が真っ白になった。
森を駆けていたら突然足を取られて落ちて、更に運の悪いことに、足を怪我してしまったらしい。荒い息を整えていると、次第にじんじんと足の痛みをはっきりと自覚する。
「ああ、いたぃ……うぅ……やっちゃったあ……」
ぐすん、と洟をすすりながら痛む足をさする。小さな手でいくらそこを撫でたって、この落とし穴から抜け出す程には回復しないだろう。温かい血でぬるりと手が汚れると、情けなくてまた涙が出てきた。
落とし穴には竹を削ってとがらせた、杭のようなものが刺してあった。目の前にそれが何本か見えて、肝が冷える。落ちた場所が悪かったら一突きで死んでいたかもしれない。足を掠っただけで済んだのは運が良かった。
いや、これでは助かったとは言えないかもしれない。
「ばあちゃ……」
声に出すと、寂しくてつらくて、胸がギュッと痛くなった。その胸を押さえながら目を閉じると、ばあちゃんの顔がはっきりと思い浮かぶ。
***
「いいかい、シイ」
ばあちゃんはしわがれた声でそう言って、じっとシイの顔を覗き込んだ。
シイはぱちぱちとまばたきを繰り返した。
「どしたの、ばあちゃ」
ばあちゃん。
シイはまだ3つで、まだうまく、ばあちゃんって言えない。
ばあちゃんはたった一人のシイの家族だった。シイの記憶には、この小さな洞穴でばあちゃんと二人で暮らしている事しかない。ばあちゃんは白い髪に、ほとんど見えてない白く濁った目をしていた。足腰が弱ってもう狩りにもいけなくなって、最近ではシイがあちこちから木の実を採ってきている。
「たくさんご飯を集めれられるのは、すごいけどね。あの鳥居の向こうには、行っちゃならねえよ」
「とりぃ……」
生い茂る木々をかき分けて山を下って行くと、一際大きな松の木があり、そこから鳥居が連なっている。
「なんで?」
「おそろしい、その先には恐ろしい奴らがいるからじゃ」
「うっそだあ!」
シイは笑い飛ばした。笑うと、まだ乳歯が抜けたばかりの歯抜けが目立つ。
「おまえ……」
しまった。
シイは両手で口を押さえた。
「こら、シイ!おまえ、鳥居の向こうへ行ったね!?」
小さなシイの手をぎゅっと握る手の、どこからそんな力が出ているのか。ものすごく強かった。
「い、いってないよ」
「ばあちゃんに嘘は通用しないよ?」
「う……でも」
「正直に言うなら、ばあちゃんが今朝見つけたアケビをやるのに——」
「いった!いったよ。でも……いっかいだけ、だよ?」
ばあちゃんはすごく深刻な顔をして溜息をついた。
「……危ないからダメだって、ばあちゃん言ったろう?」
「でも、ばあちゃ。なにもなかったよ?」
「何もないように見せてるんだ。こっちの山に入られたら困るからね」
一見すると、ただの打ち捨てられた山中の古い神社。しかし、その連なる鳥居は迷い道のまじないがかかっている。
「鳥居の外から覗くと、見えるだろ?人の世が。あっちからも見られたらどうする」
「みえちゃ、だめなの?」
「人間は恐ろしいものだ。近づいちゃ、ならねえよ」
シイはじっと手を見た。
「これと、ちがうの?」
シイは今、人間の姿をしている。ばあちゃんだって、どこから見たって人間に見えるのに。
このまま人間の里に行ったって、ばれやしないと思うんだ。
「シイ。あいつらはね、自分達と少しでも違うものには、ものすごく敏感なんだよ」
「びんかん……?」
難しい言葉がよくわからなくて、シイは首を傾げた。
ばあちゃんはシイの頭をゆっくりと撫でる。すると、茶色い髪の毛の間から、ひょっこりと丸い耳が覗いていた。そこに当たる度、ぴょこぴょこと耳が動く。
ばあちゃんは優しい顔で目を細めた。
「おまえはたぬきの血が半分こだからね。どうしたって、化けるのがうまくいかない」
シイはむっと口を結んだ。
「ぼく、できるもん!」
そう言って、集中すれば頭の耳は引っ込んだ。ばあちゃんは今度はつん、としっぽをつついた。
「あっ」
シイのお尻からは茶色に黒い縞の入った太い尻尾が生えている。慌ててそれをしまうと、今度はまた耳が出てくる。
「ううー……」
ばあちゃんはシイの手をそっと握った。
「ほら。この手だって、こりゃ、たぬきの手じゃないか」
「これが……?」
手はうまくできていると思ったのに。
ばあちゃんの掌に載せられた自分の手を見ると、確かに肉球が残って、ぷりぷりしていた。ばあちゃんの手はしわくちゃだけど、ちゃんと人の肌の色をしているのに。
「いいかい、一本松から向こうには行っちゃいけないよ。わたしらは、この森の中で生きていくんだ」
「でも……だったらどうして、ひとにばけるの?」
「この姿の方が、襲われないからさ」
そう言ってばあちゃんはアケビをくれた。
シイはそれを半分に割って、ばあちゃんと一緒に食べた。
***
それが1年くらい前の事。
シイはやっぱり、人里を諦められなかった。
ばあちゃんの言いつけは守らなきゃと思ったけど、一人で過ごす森は寂しすぎた。少しずつ少しずつ山を下りて、鳥居を越え時々村を覗いては、また山に帰って行く。そんな日々を送っていたら、こうして罠にかかってしまった。
「ばあちゃ、ごめん。ぼく……」
ぽたぽたと涙がこぼれた。
言う事を聞かないからこんなことになってしまった。
その時。
「おい、かかってるぞ!!」
少し遠くから人間の声がした。シイは血の気が引いていくのを感じた。
足音がどんどん近づいてくる。二人分の、走ってくる足音だ。
「ほら、痕跡がある!」
「——兄上、危険です」
「聞いただろ、さっきの獣の声!そんなに大きくないって——」
ざっ、と落ち葉を踏む音。シイは身を縮めながらも上を見上げた。
穴の上から覗き込む顔が二つ——。
「——あれ?」
拍子抜けした、というようにそのうちの一人がシイを見た。
兄弟だろうか。まだ若い年頃の二人だった。
着ている衣服は、シイが知っている木綿や麻じゃなく、絹の直垂だ。しかも色は藍色と紅葉色で、明らかに高貴な身分の子どもが着る服だった。
身を乗り出して覗き込むのは、兄上と呼ばれた方だ。体つきもがっしりとして良く日焼けした、いかにも若武士といった出で立ちだ。頭には折烏帽子を被っている。
その手に持ってるのは、弓だ。あれはすごく危険だって、ばあちゃんが言ってた。
「あれぇ?鳴き声しなかったか?イノシシか何かがかかってるかと思ったのに」
がっかりしながら、おおい、とシイに向かって声を掛けた。
「お前、大丈夫か?こんなところで何してんだ?」
シイは慌てて頭を押さえた。
耳——出てない。
お尻も触ってみる。
しっぽ——出てない。
うまく化けられている。
「ぼ、ぼく……」
はっきり喋らなきゃ。でも、何て言ったらいいのか分からなかった。
時々人間の里に下りてみて、人々の話を盗み聞いて色々と勉強しているけど。シイはまだまだ、知らない事ばかりだった。何と言えば怪しまれないのだろうか。
「わかんない……」
「はあ?——ほら」
手を差し出されて、咄嗟に身を引いた。
「どうした?手を掴め」
差し出された手は、かろうじて届くほどの距離だ。ごつごつしていて、刀を良く握っている手だ。
野生の中に生きてきたシイにとって、突然誰かの手を取るだなんて、かなり難しい。おろおろとしていると手の主がしびれを切らした。
「早くしろよ。置いて行っちまうぞ!」
「ひっ……」
「兄上。怯えています」
助け舟を出してくれたのは、弟の方だった。
先ほどから、この人は一度も声を荒げていない。一歩下がっていたところから兄と並んで穴を覗き込んだ。兄の方とは対照的に、色が白く、すらりとした体形で、公家と言われても納得できる雰囲気だった。高貴な人の身に着ける藍色の直垂だから、余計に肌が白く見える。
「いや、だってこいつが……」
「まだ幼子ではないですか」
言ったかと思うと、ひょい、とその人はシイの横に飛び降りた。驚くほど軽やかな動きで、上手に竹をよけて降り立つ。
「——怯えなくても、大丈夫だよ。助けてやるから掴まりなさい」
すごく優しい声だ、と思った。
シイはまじまじと相手を見つめてしまう。艶やかな黒い髪が緩く一つに結われているから、はらりと落ちて揺れている。涼し気な目元は、引き込まれるような雰囲気があった。
「ほら」
目の前に膝を折って手を指し出される。シイはほとんど無意識でその手を取った。
ぐい、と引っ張られて、あっという間に抱えあげられる。
「うわっ」
持ち上げられたら、どこかおかしくないかな。シイは慌てて見を固くする。
「軽いな。——大丈夫、落とさないから」
ぽんぽん、と背中を叩かれて、声が体から響いてくる。細いと思ったけど、この人もすごく鍛えている体だ。
大きな体に抱き締められて、久しぶりの誰かの温もりを感じた。
シイは何故だか泣きそうになった。




