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そういや、やたら面接したなぁ

面接動画を見ていて思ったが、私は面接し続けの人生を送った気がする。


まずは上京して手に職をつけ独り立ちしたかった。

当初はCM制作に憧れ、服飾デザイン関係の某有名専門学校のCM制作科に

目を付けた。(この学校のCM自体、いつも話題となる斬新なものだった)

ただ昼間のクラスに行くにはお金が足りなかったので、

とりあえず夜間の服飾科に進んでお金を貯めてから

希望するCM制作科に行くつもりで学校の担当者に相談したところ、

上野にある某有名高級中華料理店を紹介された。

そこは寮もあり、すぐに上京できる条件だったので

喜び勇んで面接を受けたがあっさり落とされた。


これで上京の道が絶たれたと落ち込んだ後、どうしても不合格の理由が知りたくて

再度上京した際に上野へ行き担当者から理由を聞きだした。(向こう見ずよね)

その後学校へ行き、不合格だったことを告げるとあっさり別の就職先を案内され、

そこの寮に入り勤労学生の道を歩み始めた。(こちらは某有名お菓子会社)


しばらくすると、このままだと全く望んでいない服飾関連に就職させられそうだと

思い始め「私のやりたいことはこれじゃない!」と寮を飛び出し、

CM制作に関連する会社を求人雑誌で見つけては片っ端から受けた。

おそらく20社ぐらいだったと思う。

当時の私は上京したての田舎娘だったので

都内のあちこちで面接を受けること自体が楽しかった。


結局CM制作なんて無理だと分かり、中・高と美術部だったこともあり、

印刷関係ならどこか雇ってくれるだろうと、最初は製版、

次に版下の会社で働いた。

この2社はすんなり通ったので面接回数は2回。


2つ目の版下の会社で貼り込み作業を行っていたが、リストラ人員とされ

社長から「事務員なら雇ってやる」と言われ、

「すみません、私計算苦手です」と断ると

「今はパソコンがやってくれるから大丈夫」と説明され、一旦残ることになった。


実はパソコンなるもの、学生時代から敢えて遠ざけていた。

そんなもん、私の性格から絶対にハマるのが分かっていたからである。


実際触ってみるとやはり面白かった。業務については月末付近が忙しく、

その他はかなり暇だったため、N88BASICのマニュアルにあるプログラムを

打ち込んで、アスタリスクで双曲線を描いたりして喜んでいた。

そうこうしているうちにふと、

「この楽しいプログラミングをお仕事にできないかな」と思うようになり、

すぐさま3つほどIT会社の面接を受けたところ、3つ目で採用になり今に至る。

と、このIT会社まで30社ぐらいの面接を受けたが、ここまでは上京してから

わずか1年ちょっとの期間なので、ITスキル開始は19歳の時となる。


さてこの後、上記のIT会社を自分都合で退社し、イギリスのロンドンで6ヶ月ほど

やりたい放題した後帰国して、またIT会社の面接を受け

3,4個目で大手Sierに合格したが、少しして知り合いがソフトハウスを

立ち上げるというのでそこに入社し、

その会社が無くなった後に現在の派遣ぐらしとなる。


派遣となれば当然面接だらけ。派遣1社目まで3社面接を受け、

派遣2社目まではこれも3,4社面接を受けた。

この派遣2社目は16年勤務したため、次の案件では久々の面接となったが、

やはり3,4社面接を受け採用となった。

その後はコロナのおかげてオンライン面接となり

案件が終わる度に次の案件探しで毎回3,4回は面接を受けることになる。


今の案件に至るまで、いったい都合何回面接を受けただろうか。

(んなこと知るか!って声が聞こえる)


面接、嫌いじゃないのかも。もちろん、対面でセクハラ的な言動をされたり、

パワハラ的な内容のものも含んではいた。

中には全く雇う気なしで、憂さ晴らし的に21:00ごろ呼び出される、

といったものもあった。

(安心して。他の応募者もいたよ。一人なら流石に怖いので行かないっす)


それでも色々な企業を訪ねたり、初対面の人と自分のスキルについて話をするのは

楽しい側面も持っていたことは確かだった。


正社員として縛られることが嫌だったので、悪くない仕事人生だったと思う。

1980年代にはコピーライターという職業が脚光を浴びていた時期があった。

それ以前に幼いころからCMが大好きだった。(まさに、テレビっこね)

「広告批評」という雑誌のコンテストに絵コンテを書いて応募したりもした。


某有名中華料理店の不合格理由は、

「交通事故を起こしている」「制服も着ないで、写真もメガネを外している」

というものだった。

交通事故については、高3の時、止まっているトラックに自転車で突っ込んだ、

というもので、そんなことも内申書に書かれちゃうのねーと思った。

制服については普段から着ていなかったし、

メガネも随時かけていたわけでもないし、

「ふーん、変なの」と当時は思った。

(今では「この勘違い田舎娘」って感じだったと思うケド)


製版の会社は、酒が飲めない、付き合いが悪いとすぐにクビになった。

版下の会社は社長付の事務員になるまでは悪くなかったのだがこの社長、

まず朝1でスナックのおねーちゃんに電話。それが済むと昼まで寝てる。

むくむく起きだしたかと思うと女子社員にセクハラ三昧。

なにせ、社長のいる電算写植部門には女性しかいないという、

ハーレム社長。楽しいプログラミングに出会えたことが唯一の幸運だった。


1980年代のITって(まだ、ITって言葉も使ってなかったケド)

「でもしかプログラマ」で「未経験者歓迎!」求人があふれてた。

だから採用になったんだけど、すぐにアセンブラ部隊にぶち込まれて、

当時COBOL,FORTRAN全盛で「C?何それいやらしい」みたいな時に

カーニハン&リッチー『プログラミング言語C』の原書を教科書として渡され

英和辞典首っ引きで訳の分からん内容を英語で勉強するという

シュールな体験をした。

その後Cでお仕事するうちに、どこかのタイミングで

当時私の面接官の一人だった方と話をした際、

「君は専門学校でBASICやってるからね」と言われた。

「服飾の専門学校でプログラミングは教えないですよー」と思ったが

そういや私、履歴書に「〇〇学院BASIC科」と書いてたっす。

もちろん、このBASICは服飾関連の「基礎」という意味なんですケド。

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