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嵐の塔

作者: くら

 落日が滞っている。赤い湖面の遠くに首都ファーリーンが黒い丘のように浮いている。今はもう百二の村々も消え、ツァハラには首都しか残っていなかった。商人達はいなくなった農民や牧童の夢を見ていた。灯りは不要だった。交易の轍を枕にして首都はまどろんでいた。寝も出来ず覚めもせず。若い呪術師ナグルーンは街を振り返った。心には解放の喜びと虚ろな夕景が広がっていた。

 岩陰を寝床にしてナグルーンは眠りについた。初めの夜は思い出が灯るものだが、二度と帰れぬ覚悟を持ったナグルーンに灯った火は一際強く明るいものだった。夢とも記憶ともつかない虚ろな火。厳格な父母の僧侶姿が現れた。高い儀礼帽と七本の杖が現れた。ナグルーンは僧にはならずに呪術師になった。誰にも気付かれぬように七つの汚穢と蔑まれた老呪術師の弟子になった。彼にはわかっていた、誰かは呪術師にならねばならぬ、皆口に出しては言わないがなにくれと用を頼むのは僧ではなくて呪術師の方だった。誰もなりたがらなかったし蔑まれてもいたが、呪術師の倉には魔法のように財が積まれた。僧は敬して遠ざけられた。故にナグルーンの家は貧しかった。ナグルーンが呪術師になるのに一番の障壁は父母だった。彼はまだ若かったし、何より仕事は家でやらねばならない時もあった。取り急ぎの頼まれごとを今夜中にしてしまわなければならないという時でも父と母はほろ酔いで深更まで笑いあっていた。香を焚けば気付かれるだろう、両親はにこやかに彼を見た。彼がろくに働かないのを軽く舌の上で諌めた。再び笑い声が隣の部屋で起こった。彼は身を震わせながら両親が早く寝付くことを願った。術式を途中で邪魔されるわけにはいかないが、と言って自分の所行を素直に打ち明けるわけにはいかなかった。僧はすべからく呪術師を憎むべしという教えがあった。もしかしたら両親はとうに気付いていて黙認しているのかも知れない、とも考えた。甘い夢だと理性は竹篦を振るって彼を正気付かせて苦しめた。彼は渋々深すぎる夜に慌てて術を行なうのだった。

 落日は滞りがちだったが、ついに落ちなくなった。夏の夕日をみな押し黙って見つめている。山の端にさしかかったまま沈まない太陽に身を晒している。ナグルーンもその景色を見た。永遠の赤景、沈まぬ夕日。赤い憂鬱が静かに広がった。村々に人が派遣されたが、農民も牧人も村を捨ててどこかへ消えていた。赤い空の下を隊列が小さく進む、山の彼方へ消えて行くのを商人達は見たように思った。だが彼等はそれを見守った。追わなかった。絶望が彼等の脳に浸潤して気力を吸い取っていた。影の長い紅色の路地で血だまりのように赤く点った煙草を吹かしながら座っている。幾人もの人がそうして路地で虚ろに過ごす、お互い目配せをするが諦めたように視線を下に落とす。陽は暮れるばかりで夜は訪れなかった。彼等は各々勝手に寝床にはいって田園風景と豊かな隊商の甘い夢をみた。

 ナグルーンが呼び出されたのは、若い呪術師だったから、多くの呪術師には旅の力は残っていなかった。彼は百二の執政官を委任されてファーリーンを追い出された。空から落ちる石があるのは知られていたが、それがどこにあるのか誰も知らなかった。彼は首都の門まで御輿に乗って運ばれた。身体の十二倍もある装束を着せられて門外まで送り出されたが、立って見送る人はいなかった。夕日を受けて大路を静々と悲しげに威厳に包まれて通って行った。父母だけが彼を見つめて追って来た。彼は慈愛の言葉を期待したが、父の口からは何も現れず、母は明らかな侮蔑を目に宿した。ナグルーンは苦い唾を飲み込みながら門外の荒漠を眺めた。なにかがあるとは到底思えなかった。

 ふと目が覚めたナグルーンの前には夕焼けの荒野が広がっていた。どれほど寝たのか、或いは寝てさえいないのかわからなかった。彼は立ち上がり歩き出した。


 長い旅だった、日数は寝た数で数えて百と少し、杖に刻んで歩いた。人のいない村々を渡り歩いて、ようやく真夜中に辿り着いた。初めのうちは黙々と歩んでいたが、次第に独り言を呟き、それも止んだ。雲一つない旱天が湿りはじめ、鱗雲、一面の淡い雲、深い雲、積乱雲、黒々と夜を覆う雲、激しい風雨と地表まで下ろうとする雲に出くわした。そこに塔があった。塔には空から落ちる石がある、それで太陽を動かす。彼は深夜の中で瞳を輝かせた。とうとう着いたのだ、と独りごちるつもりが、暫く使われていない声帯は麻痺していた。彼は塔の中へ入った。黴臭い湿った匂いが長い階段から吹き降りてくる。人のいない階段を上りながら灯火を探したがどこにも無かった。彼は手持ちの松明を取り出したが、雨で濡れた松明は赤く燃えることが無かった。黒い闇に手を伸ばし、手探りで階段を上って行った。何時間もかけて登った末に突然空気が開いた。最上階に着いたようだった。

彼は心を鎮め、清められた魔術の火を作り出した。部屋の中心には黒い光を吸う石が見えた。その周囲には三重の円が描かれている。彼は部屋の隅に四つの火を点した。それから大きな円を描き複雑な幾何学模様を床に描いて行った。ナグルーンは石の前に座し、祈祷を始めた。

 何日の日が過ぎたか、部屋には透明な長い腕が見渡す限り垂れていた。ナグルーンは問うた。

「天の地なる黒石を天から降らせたまえ太陽を動かしたまえ」

沈黙。

そして、どこからか答えが帰って来た。

「ただし、その代償は支払われなければならぬ」

「お望みなら何なりと」

「おまえの運命を」

ナグルーンは了承した。

透明な長い手は次々と石に触れ、持ち上げはじめた。魔術の火が青く揺らいだ。石は引き上げられ天井へ消える、ナグルーンはそれを見上げる、と、魔術の火が消えた。凍り付いた沈黙が部屋に満ち、彼は気を失った。

 目が覚めたのか、夢なのか、暗黒中で手を伸ばした彼にはわからなかった。彼は再び魔術を使って火を点そうとしたが、その力はもう残されていなかった。手探りで階段を探して回ったが、どういうわけか見つからなかった。しかし諦めず何十遍と歩き回った、それでも見つからなかった。

 冷たい塔の闇の中でナグルーンは小さく座り込んだ。空恐ろしい恐怖が彼を見守っている。外はまだ夜だろうかと考えた。この夜は明けただろうか。太陽は動き始めただろうか。塔には冷たい嵐が雨を振るい捨てて絡み付いている。小さく揺れ、低い鳴動を起こした。かと思えば破壊者の様に塔を殴りつけた。暗黒の中で揺れと轟音が続く。ナグルーンは脅えながら塔の隅で身体を横たえた。耳を閉ざし、心を強くもち、目を見開いた。暗黒は彼を嘲笑った。激しい風と揺れは塔を揺すり続けた。真っ暗な中で闇の広大無辺と自分の小ささを感じて、彼は祈りを呟いた。だが、揺れはますます激しく強くなった。地震のように大きく揺れ、塔は軋み、沈黙が重く唸った。冷たい床が寝ている彼を転がすように揺れだした。ぎゅっと身体を丸めてナグルーンはもはや叫び声さえ上げない。今や定められた逃れることの出来ない運命に飲み込まれたのがわかった。彼は救いを求めるように手を長く伸ばした。途端、塔は上から崩れ落ちた。轟音、瓦礫、突風、突然の自由落下。夜が差し込んで来る。ねじれるように高い石の塔はくずおれた。夜! 夜だった! 太陽は? 瓦礫に交じってナグルーンは下に落ちて行く。逆様に見えたのは空を覆い尽くす程の大きな黒石だった。無数の透明な手に支えられて落ちていく黒い正方形だった。赤く染まったファーリーンに影を落として石は太陽に触れようと地平線の彼方に沈もうとしていた。燃え尽きる程赤い憂鬱な太陽と黒過ぎる程黒い隕石に彼は別れを呟いた。若い呪術師ナグルーンの惜別と涙は空から落ちる石と太陽にしかと受け取られた。

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