第1話
——私のことは、忘れていいからね。
それが、中学3年間を恋人として過ごした初恋の人との、約束されたお別れだった。
◇◆◇
たとえどんな別れがあったとしても。
喪失感に苛まれていたとしても。
時の流れってやつは、人を待ってはくれない。
俺、東條碧は高校生になるのをきっかけに、一人暮らしを始めた。
「ッ、フーーッ、フーーーッ」
引っ越し初日。夕方までに荷解きを終えた俺は、この3月から日課とした筋トレに励む。
中学の間に背もしっかり伸びたし、身体を鍛え始めるにはちょうど良い時期だった。
「うっし、もう1セットぉ……!」
と、気合いを入れていたところ、ガチャリと玄関の扉が開く音がした。
え?
いやいや、まさか。
隣の部屋の音かな?
随分と壁が薄いらしい。物音には気をつけないとなぁ。
「汗くっさ。初日からマーキングですか。よくやりますねぇ」
平然と人の部屋に入ってきたその少女は、ジトッと生温かい瞳を向けながら、わざとらしく鼻を摘んでいた。
「…………不法侵入だぞ」
「カギ開いてたので」
「なんの釈明にもなってねぇよ!?」
上半身裸、腕立て姿勢のまま叫ぶ。
が、そんな苦情はどこ吹く風で少女は特徴的な白髪を揺らしていた。諦めた俺は無視することにして筋トレを再開する。
「お隣に住むことになりました。藤崎詩羽と申します」
「は?」
「よろしくお願いしますね、失恋のキズを誤魔化すべく、脳死で筋トレに励んでいる汗臭く男臭いお隣さん」
ぺこりと一礼。
「……べつに筋トレはそういうんじゃないんだが? 高校上がったら身体鍛えようって前から思ってただけなんだが?」
「うっわ、早口キモ〜い」
プークスクスと口元を手で隠す詩羽。ぜんぶわかってますよと言わんばかりだ。ムカつく。
「ま、無様なネトラレ男の感慨になど興味はありませんので。どうでもいいんですけどね」
「バッ、ネトラレじゃないが!? ネトラレじゃないんだが!? ぜんっぜんっ、これっぽっちも、ネトラレじゃないんだが!?」
「ひゅー、刺さってますねぇ。自覚はありましたか。うぅ、おいたわしやお隣さん……」
いや本当に違うんだ。別れは必然であり、俺はそれを受け入れていた。だからネトラレとは絶対にチガウンダ……!!
「あ」
ヨヨヨと泣き真似していた詩羽はふいに思い出したかのように表情を戻す。
「私ファ◯リーズ買ってきます。いい加減臭くて敵いません」
「うっせ!? いらねーよ!? つーかおまえにゃ関係ないだろ自分の部屋帰れよ!?」
「はぁ。まったく、生意気なお隣さんですねぇ」
詩羽は部屋を出ていく。しかし扉が閉まる直前、こちらを振り向いてニヤリと笑んだ。
「……私で童貞捨てたくせに」
「………………ぶっふ」
意表を突かれた俺は一気に力が抜けて、グシャリと床にうつ伏せで潰れてしまった。
その取り消しようのない事実は、墓まで持っていくべき俺の秘密である……。